サイファが元の安堵を取り戻すには長い時間がかかった。日々の日課が終わった後もリィの側を離れたがらず、夜は夜で気づけば隣に潜り込んで眠っていた。それをリィは内心の苦笑を押し隠して受け入れた。 「ねぇ、リィ」 午後も遅い陽が、窓から射し込んでいた。熱い茶から立ち上る湯気の向こう、サイファが首をかしげている。 「なんだ?」 手を伸ばし、リィはサイファの髪を撫でた。くすぐったそうに笑う声に心が波立つ。 側にいたいと言うならばいっそ、とリィは新しい日課を作ってしまった。今までの日課に加え、午前中は共に呪文室で練習をする。リィの相手をすでにサイファは務められるほど成長していた。昼を挟んで午後は本の研究。二人ですればこれもはかどる。 午後も遅くなってから、茶を飲みつつ他愛ない雑談をし、そして再び書庫へと戻る。夜は同じベッドで眠った。しばらく前までは。いまはもうサイファも平常心を取り戻し、自分の部屋で眠っている。時には例の小屋に入り込んでいることもあるにはあったが。 「小屋の部屋のことだけど」 「うん?」 「誰にも入られたくないから封印したって、言ったでしょう? でも、塔には入れないんじゃないの?」 「なんだよ、突然」 リィは笑い出す。やはりこの神人の子には時間の感覚が欠けているとしか思えない。まるでつい昨日のような口調だったが、その話をしたのはもう何年も何年も前のこと。 「急に思い出したんだもの」 拗ねた声音でサイファは言い、そして湯気の向こうからリィを見つめた。 「別にいいけどな。封印のことか?」 「うん」 「まぁ、そうだなぁ……まだちょっと早いな」 「どうして」 「まだ内緒ってこと」 「だから、どうして」 「いまは言いたくないの。忘れな」 「気になるから嫌」 「それでも、だめ」 「ずるい」 「お師匠様が公正だなんて誰が言った?」 笑いを含んでリィが言えば、サイファはあからさまに横を向く。髪を撫でてなだめても、サイファは口をききもしなかった。 リィは苦笑しながらその後姿を見ている。まだ、知らせるべきではないことだった。いずれ、告げるつもりでいた。あるいは彼が先に気づくかもしれない。 だが、いまはまだ。リィは悩んでいた。このまま二人で暮らしたい、切実に思う。けれどリィには野心があった。魔法を広めたい。神人を見返したいとどこかで思っている。 昔、抱いた思いとは違っている。それも理解していた。サイファを知ったいま、神人にかつてほどの反感は抱いていない。むしろ、彼を生さしめた神人の存在に感謝したいほどだった。 同時に、魔法への情熱も捨てがたく残っている。これを捨ててしまっては、自分の存在意義を問われることにもなるだろう。 リィは決断を迫られていた。今すぐではない。けれど近いうちに新しく誰かを迎え入れる時期が来ていた。 サイファはそれをどう感じるのだろうか。知りたいとも思う。彼ではない誰かに自分が魔法の訓練を施す。それをサイファはどう見るのだろうか。 どうも思わないだろうな、リィは心の中で苦く笑った。それは希望であるのかもしれない。どうも思って欲しくない、黙って受け入れて欲しい、と。身勝手な願いだった。 「リィ?」 「うん?」 「どうしたの」 「なにが」 「急に、黙ったから」 「拗ねてんのはお前だろ。可愛い俺のサイファ」 「そんなことないもの!」 振り返ったサイファの目の中にある淡い喜びにリィは目を細め、仄かに微笑って抱き寄せた。 「やっぱり、変なリィ」 「そうか?」 「うん」 幼子のするよう、サイファはリィの胸に額を摺り寄せ、喉の奥で笑う。そのせいかもしれない。リィは唐突に決意した。 「サイファ」 リィの声音が変わったのに気づいたサイファは顔を上げる。じっと、師の言葉を待つ弟子の顔をしていた。リィはそれを好もしげに見やり、言葉を探す。 「おいで」 何も、見つからなかった。リィは立ち上がり彼を促す。サイファは質問を挟むことなく従った。 どこに行くのだろうか、と疑問に思ってはいた。前を歩くリィの背をサイファは見ている。何か普段と違うことが始まろうとしているのだけはよくわかった。 楽しみで、どこか不安だった。けれどリィが側にいる。なにも怖いことなどなかった。サイファは薄く唇に笑みを浮かべていた。 リィが立ち止まったのは、呪文室の前だった。サイファは首をかしげ、黙って入ってしまったリィのあとを追う。リィは室内でこちらを向いて立っていた。 「爆炎」 一言だけ言ったリィが壁の一点を指す。サイファは問い返しもせず、リィの指した場所に向かって魔法を放つ。 炎が壁を舐めた。高温の、青くさえ見える炎が一瞬にして広がる。壁の一点は溶け消えるかと思われた。もしもそれが呪文室でなかったならば。 魔法を吸収無効化する呪文室の壁は、変わらずそこに立っている。否、淡く光っていた。魔法の直撃を受けた壁は赤熱していた。 「光の矢、できるだけ」 ひとつうなずいてリィが新たな指示を出す。サイファは魔法を編み上げ、放つ。繰り返し、リィの指示するままに。攻撃魔法もあった、防御魔法もあった。明確な指示がなく、サイファの思考を試すものもあった。 どれほどの時間が経ったのだろうか。リィがもういい、と言うまでには。リィはサイファを見つめた。息一つ乱していない。単なる練習の一環と思っているのだろうか。それにしては重たい練習のはずだった。 これほどの魔法を立て続けに放たせたことはなかった。その技量があるとは認めていた。だが試したことはいまだなかったのだ。 それなのにサイファはいとも易々とやってのけた。リィは内心で舌を巻く。すでに一人前、と言ってよかった。この手を離れるのか、と思う。新しい誰を迎えるために、離したいのだろうか。自問する。そんなわけはなかった。誰を弟子に取ろうとも、サイファはただ一人、サイファであった。 「今日は終わり。明日もう一度」 「はい、リィ」 「質問しないんだな」 「話してくれるはずだから」 サイファはためらうことなくそう言って少しばかり笑って見せた。戯れにしていい質問と、してはいけない質問がある。いま後者であるとサイファは理解しているだけだった。 「まぁな」 リィは苦笑してうなずき、サイファの背を抱いた。汗すらかいていなかった。人間とは、違うのだろうとリィは思う。体力だけで魔法を行使しているのではないのだろう。 「リィ?」 「疲れたか?」 「少しは」 その程度か、思えば笑いが込み上げる。半日以上立て続けに大きな魔法ばかり使わせたと言うのに。 「先に戻ってな」 「あなたは」 「ちょっと、な」 言葉を濁したリィにサイファはそれ以上の問いの無駄を知った。諦めて肩をすくめ、サイファは背を返す。扉の前で振り返った。 「ご飯、用意しておく?」 リィが見たサイファはいつもの彼だった。そして自分の抱いた不安を知った。サイファに脅威を感じる必要などどこにもないというのに、リィは彼を恐怖した。 圧倒的な、人間には到達することのできない魔術師としての素質に。それを恐れ羨み自己憐憫に陥った。リィは深く呼吸する。 「頼むよ」 唇をほころばせてサイファが駆けて行く。後姿に髪が踊った。リィは一人、呪文室で頭を抱える。 あってはいけないことだった。彼をその生まれゆえに特別視などしてはいけない。それをしたならば、すぐにでもサイファは離れて行ってしまうだろう。その辺の人間と変わらない、と言って。 「馬鹿だな、俺は」 ぽつり呟いた声がかすかに震えているのにリィは顔を顰める。もう恐れてはいなかった。一瞬の気の迷い。彼を神人の子としてではなく、魔術師として羨んだ。自分以上の才能を持つ弟子に対して師が抱く、健全な喜びのそれとして。 「可愛い俺のサイファ、ごめんな」 聞こえるわけもない、知ったはずもないことにリィは謝り頭を垂れる。そして顔を上げたとき、リィは普段どおりの表情をしていた。 「さて、と」 改めて呪文室を見渡す。軽く腕を組んで考えた、どんな試練を組み込もうかと。 リィは確かに人間で、魔法の素質自体はサイファに劣る。だが、リィは魔術師だった。サイファより経験を積んだ、すでに名の通ったと言っていい、魔術師だった。 サイファが付与魔術を極めている間、リィも寝椅子で呆けているだけではなかった。様々な魔法を研究し、近隣どころか、ミルテシア王国中で、あるいは大陸で魔術師リィ・ウォーロックの名を知らぬものはいない。 リィは以前、神人の介入を恐れたものだった。が、彼らはやはりと言おうか人間ごときに関わる気はないということだろう、良くも悪くも何一つ反応はなかった。 リィはそのような魔術師だった。既知の魔法をどのようにでも駆使することができる。若くはないとは言え、老人でもない体力はまだ劣ってもいなかった。 「まだお前にゃ負けんよ」 不敵に呟きリィは呪文室に魔法を施していく。明日と言う記念すべき日を迎えるために。 |