眠りの中、なにかを感じてリィは目覚めた。半身を起こして耳を澄ますような仕種をした後、彼は寝室を出て行った。
 塔の中は薄暗かった。真っ直ぐでいて、その実曲がりくねった廊下を進んでいく。彼の少し前に明かりが灯り、そして通り過ぎると消えていく。
「やっぱりな」
 ある扉の前で立ち止まったリィは呟いてそれを開けた。
 そこは夜だった。月影に、緑の草が色を抜いたように淡く翳っている。建つのは懐かしい小屋。リィはかすかに笑って小屋へと入り込む。
 居間の暖炉に火は入っていなかった。リィは立ち止まらずサイファの部屋ではなく、かつての自分の寝室の扉を開ける。
 そして微笑んだ。寝台の上、丸くなって眠っている神人の子がいた。枕を抱いて、小さくなって。上掛けからはみ出した素足が窓から差し込む月光に青白い。
「可愛いサイファ」
 リィは彼の側で囁いた。はっとして飛び起きようとする彼を押しとどめ、リィは長い黒髪に指を滑らす。
「どうした?」
「なにが……」
「こんな所で寝て。どうしたんだ」
「……別に」
「寂しくなっちゃったか、うん?」
「そんなこと、ないもの」
「そうか?」
 笑って言えば彼の腕が伸びてくる。首に絡まるそれをリィはほどこうとはせず、そのままサイファの横へと潜り込む。
「ねぇ、リィ」
「なんだ」
「どうしてわかったの」
「なにが」
「私がここにいるの」
「お師匠様に隠し事が出来ると思ってたのか?」
「リィ!」
 からかいに抗議の声が上がる。リィは取り合わないでサイファを腕の中にすっぽりと包み込む。安堵の溜息が聞こえた。
「リィ」
「うん?」
「ずっと、一緒にいればよかった」
「なんだよ、急に」
「だって、二十年も経ってるんでしょ。人間には、長いでしょ」
「馬鹿な子だね」
「どこが?」
 真剣に言っているのに聞く耳持たないリィにサイファは不機嫌になる。けれどあまりに温かくて声が緩んでしまうのだった。リィが言うような人間にとっての長い時間、離れていたとは信じられなかった。リィのぬくもりに包まれることなく時間が過ぎ去ってしまったのだとは、とても。
「長くないとは言わないけどな」
「でしょう、だから……」
「聞けって。お前が夢中になってるのを見てるのは楽しかったしな、俺はかまわんよ。寂しかったがな」
 笑い飛ばした声が、苦くはなかっただろうか。リィは危ぶむ。サイファは共にいたかった、そう言った。何度も言葉が心の中にこだまする。リィは目を閉じ焼き付ける。二度と忘れはしないと知っていてなお。
「でも……。それに見てたの?」
「見てたよ。気がつかなかったか」
「うん」
「心配だろ、なんかあったら大変だ」
「リィ、相変わらずだね」
「どこがだよ」
「心配しすぎ。でも……」
「うん?」
「安心した」
「そうか」
「変わってないね、リィ」
 ぽつり、呟く声に滲んだ不安。それでリィは知った。サイファがなぜ、この懐かしい小屋の、それも自分の寝室で眠っていたのかを。
 怖がっていたのか。自分の不注意な言葉に。あのようなことを言うのではなかったと臍を噛んでも遅かった。
 確かに長い月日だった。彼に言ったよう軽いものではない。だが、それでもそこにサイファがいた。決して遠くに行ってしまったわけではなかったのに。
 神人の子にとって二十年とはどれほどの月日なのだろうか。知識として知るだけの概念なのだろう、少なくともいまはまだ。
 知識だけでしかないからこそ、恐れた。時間が経ったとも思えないのに、リィの時間は過ぎている。人間は変化するものと知っていた。リィもまた、変わってしまったかもしれないと恐れた。
「可愛いサイファ」
 そっと彼の髪を撫でれば、胸に顔を押しつけてくる。強く抱きしめても嫌がりはしなかった。むしろ、自分から体を押しつけてきたことにリィは軽い驚きを覚える。苦い歓びが湧き上がり、そしてリィは目を閉ざす。目を開けたとき、リィはいつものリィだった。
「俺は変わらんよ」
 だからリィは大嘘をつく。人間である限り、定命の人の子である限り、逃れられない老いが来る。そしてその後に死が。いまはまだ、遠い先であることを願うばかり。
「うん」
 腕の中でうなずく神人の子を、永世を生きる定めを持った子を、ひたすら慰めたかった。決して一人にはしないと、誓えるわけもない言葉。リィは言えなかった。
「リィ」
 顔を上げて見つめてくるサイファの目をまともに見返すことができそうにないのを、リィは無理やり微笑んで見つめる。
「どうしてここにいるのがわかったの」
 気になって仕方ないのだろう、サイファは同じ問いを放つ。ほっとリィは心を緩ませ苦笑した。
「だからな……」
「私、隠し事なんかしてないもの」
 言葉を遮ってサイファは言い、いたずら半分リィを睨んだ。
「ねぇ、どうして」
 サイファは彼の背に回していた腕を引き抜いてはリィの頬に触れた。そして顔を顰める。また無精ひげが生えている、と。それを見てリィは内心で喜んだ。ようやくサイファが還ってきた、と。
「別にたいしたことじゃないんだがな」
「いいから。教えて」
「扉に封印がしてあるだけ。開ければ寝ててもわかる」
「なんで?」
「質問は的確に」
 くっと喉の奥でリィは笑った。
「ひとつ目。扉にどうして封印がしてあるの。ふたつ目。なんで寝ててもわかるの」
 彼に笑われて、サイファはまるで子供のように反発する。そんなサイファをリィは再び笑い、顔をそむけようとした彼の頭ごと腕の中に抱え込んだ。
「もう、リィってば」
「あんまり可愛いからな」
「もう、いいから教えてよ」
「いいだろ、ちょっとくらい遊んでも」
「あとで遊んであげるから」
「なんだよ、遊んでやってんのは俺だろ?」
「違うでしょ、私だもの」
 他愛ない言いあいに、サイファは笑い出す。そしてこんな風に話すのは久しぶりなのだと思った。これが時間が経つ、と言うことなのだとはじめて理解した。
 リィにとって、この時間はどんなものだったのだろう。サイファは彼の時間に思いを馳せる。彼の時間を共有できないもどかしさを感じ、サイファは唇を噛んだ。
「リィ」
「うん?」
「ごめんね」
「なにがだよ、急に」
「寂しかったでしょ」
 リィは答えずただ彼を抱きしめた。理解してしまったのか、と思えば胸が苦しい。そんなことを知らせたくはなかった。反面、理解して、そしてこうして側にいてくれることを喜ぶ自分がいるのもまた、真実だった。
「お前だって寂しかっただろ」
 そんなはずはなかった。時間が経ったのを気づきもしなかった神人の子が、心から寂しいなどと思うものか。けれどリィは聞きたかった。嘘でもよかった。
「寂しかったもの、私だって。ねぇ、リィ。時間が経つのは私にはわからない。でも一緒にいなかったのは、わかってるもの。その違いがあなたに、わかる? 一緒にいたかったけど、早く作ってしまいたかったの。頑張って、褒めて欲しかったからだけど、でも……」
「なんだ?」
「喜んで欲しかったから」
 急に小声になってサイファはこれ以上伏せようもないというのに顔を伏せる。リィは今度こそ、言葉もなかった。何も考えられない。ひとつのことに占められていた。歓喜に。
「だから、私も本当に寂しかったの。嘘じゃないって、わかってくれる?」
「可愛い俺のサイファ。お前が嘘つくなんて、思ってるもんか」
「本当?」
「お前は俺を疑うけどな、俺はお前に嘘ついたことなんかないぞ」
 いかにも心外だという声を作ってリィは言う。それこそなによりも大きな嘘であるにもかかわらず、サイファは屈託なげな笑い声を上げて受け入れた。
「さて、と」
「なに」
 リィの声の変化を聞き取って、サイファは顔を上げて彼を見つめた。その目の中にリィは不安を読み取り、苦笑する。
「質問の答え。聞きたくないのか?」
 からかって言えば、ほっと笑っていたずらに胸を叩かれた。
「まずふたつ目から。封印ってのは、破られれば寝ててもわかるもんだ」
「私、破ってないと思う」
「言葉の綾だな。お前が通ったことで封印が変化する。それでもわかるんだ」
「ふうん」
「ひとつ目。ここには、お前と俺以外、誰にも入って欲しくない。万が一にも」
 危険な言葉だった。リィは賭けた、サイファが何も感じ取りはしないことに。
「リィ、ありがと」
 賭けには勝った。魔法で擬似再生された月光が、サイファの額を青白く染めていた。リィは微笑んで口を閉ざす。緩く抱きしめ彼を眠らせるために。
 リィは月が翳っていくのを見ていた。暁闇が訪れ、朝日が昇るのを、見ていた。




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