無精ひげのリィに頬ずりされて、サイファは身をよじって嫌がった。けれどそれがなぜとなく、嬉しくて楽しい。ふと、不安になった。
「可愛いサイファ、どうした?」
「なんか、変なの」
「なにがだよ」
「だって、嫌なのに、嫌じゃない」
 首をかしげて不思議がっているサイファをリィは笑った。
「久しぶりだからじゃねぇのか」
「なにが?」
「お前な、付与魔術教えてからどれくらい経ってるか、わかってるか?」
「どれくらい……って?」
 目を瞬いてサイファはリィを見つめた。リィは困り顔で笑っている。
「私、わからない」
「だろうなぁ。わかってたらこんなに長い間お師匠様を退屈させたりしないはずだもんなぁ」
「リィ!」
「なんだよ」
「なに。あなた、拗ねてるの」
「悪いかよ」
「どうして?」
「だってな、サイファ。二十年も俺のことほったらかしにしたんだぞ、お前」
「二十年?」
 サイファは呟き、また首をかしげる。それを見てリィは、やはり神人の子にとってはたかが二十年でしかないのだと思う。
「すっかり年取っちまった」
「嘘」
「ほんと、ほんと」
「どこが? 全然変わらないじゃない」
「そうか?」
「うん」
 うなずくサイファにリィは哀しげな顔を作って見せ、自分の手に視線を落とす。
「ほら」
 その手をサイファが取った。と、彼はリィの手を自分の頬に押し当てた。それからまたうなずいて微笑む。
「変わってないよ、あなた」
「そうか?」
「うん。そんなに時間が経ってたなんて、信じられないくらい。人間ってもっと早く変わっちゃうんでしょう? ねぇ、リィ」
「うん?」
「嘘ついて、ないよね?」
 唇を引き締め、サイファが問う。リィは笑った。長い間、ずっと離れていたに等しいのに、彼にとっては束の間。そして自分にとってもいま、それは束の間となった。
 サイファは変わらない。少しも変わらず、笑いかけてくる。どこか哀しく寂しい。たとえ彼と過ごす一生が、人間には夢にも似た幻のような生き方であったとしてもかまわない。リィは手に馴染んでいて、そして懐かしい彼の髪に手を滑らせサイファの頭を引き寄せた。
「つくわけないだろ」
「うん」
「可愛いサイファ。信じろよ、俺を」
「うん。ねぇ、リィ」
「なんだ」
「ごめんなさい」
「なにが?」
「だって」
 ふっとサイファが腕の中から目を上げて微笑う。
「あなた、寂しかったでしょ。一人にしちゃったから」
 そしてそんなことを言ってはリィの言葉を失わせるのだった。
「あぁ、ほんとに困った子だよ。こんなにずっとお師匠様をほっといて」
 からかいの口調でリィは言い、サイファを抱いた腕に力を入れる。時間が経っているなど信じられないのはリィも同じだった。サイファの変わらない温かい体。少しも成長したように見えない幼い神人の子。
「可愛い俺のサイファ」
「なに?」
「なんでもねぇよ」
 呼んでしまっていたことに気づいてリィは言葉を濁す。彼がここいる歓喜に気持ちが緩みかけたのを知り、気を引き締めた。
「変なリィ」
 サイファは露知らず笑ってリィの頬に手を触れる。ざらざらとした感触に、また同じ時間が続くのを喜んだ。
「それで?」
 リィは腕の中で寛ぐ彼を促す。きっと、出来たからこそ出てきたのだ。それを思えば見てみたかった。彼が自分のために作り上げたのは、どんな物なのか、知りたかった。
「うん……」
 不意に自信のない顔をしてサイファが見上げてきた。リィは励ますよう、彼の頭に手を置いて唇を緩める。
 一度サイファは大きく息を吸った。そして決心したのだろう、小さな物を取り出す。
「はい、これ」
 目をそらし、掌に乗せたものを差し出した。リィは目をみはる。そこにあるのは、一見して信じがたいものだった。
「お前、もしかしてこれを取りに出かけたのか」
「そう」
「よく……」
 絶句するリィの目の前にまた手が突き出される。リィは苦笑し受け取った。そして触れてみて確信に変わった。
「真の銀、だよな」
「うん」
「よく、手に入ったな」
「あなたに作るものだから……」
 サイファは小声で呟く。聞かせたいのか答えたくないのか、その曖昧な態度さえ愛おしい。
 リィは軽く目を閉じる。たとえ神人の子といえども、真の銀を手に入れるのは難しかっただろう。人間の世界に流通するものではない。神人たちの好む金属だった。彼は父なる種族の許へと行ったのだろうか。自分のために頭を下げに行ったのだろうか。
「サイファ」
 リィは彼をきつく抱きしめ、抗議を甘受するつもりで頬寄せた。声は上がらなかった。
「気に入って、もらえる?」
 かすかな小声。不安に揺れていた。
「ちょっと待て」
 己の立場を思い出し、リィは苦く笑って思考を凝らす。感じたのは不可思議な魔法。確かに魔法が封じてある。だが自分が教えた覚えのないものだった。
「リィが疲れないように。その……長生きできるように」
 ぽつり、言ってうつむいた。その髪をかきあげ、リィはサイファの目を覗き込む。青い目が揺れていた。
 そっと彼の精神に接触する。懐かしい感覚に、サイファの心が喜ぶのをリィは感じては溺れかねないほどの歓喜に呑まれた。
 身をよじって抜け出して、探索する。見つけたものは彼のかけた呪文。魔法を行使するための体力を支え、使い手の生命さえも守護する複雑なそれだった。
 リィは感嘆する。このような高等魔術を使いこなすようになったとは。薄い不安が忍び寄り、そして解消された。繋いだままの精神はサイファにリィの心を知らせた。すぐさま、サイファは否定する。
「あなたの側にいたいから私はここにいるの」
 と。わずかな憤りを含んだ心の声にリィは笑って謝罪する。今でもそう思っていてくれることが嬉しかった。
「素晴らしい。よく出来た」
 接触を解いてリィは微笑む。あのまま繋がっていては、二度とサイファを離せない、いまはそんな気がしてならなかった。
「気に入ってもらえる?」
「もちろん」
「ちゃんと見た?」
 不満そうに言う声に、リィは苦笑し視線を落とす。掌に乗っている物、サイファが魔術付与を施した指輪。真の銀の滑らかな輝きが淡く光るそれには精緻な彫刻が施されている。
「ほら」
 言ってサイファが指輪に触れて向きを変えた。そしてリィはまた目を丸くする羽目に陥るのだった。
「見てないでしょ」
 まるで子供のよう、サイファは言って顔をそむけた。そんな彼の頭をリィは抱え、なだめながら視線は指輪から外せない。真の銀だけでも驚きだと言うのに、彼は指輪に石を嵌めていた。
「よく晴れた夏空の色だな」
 サイファの耳許でリィは言う。同じ色を知っていた。生きた青を知っていた。その色を選んだサイファの意図がどこにあるのかリィは知りたいと思う、痛切に。
「ほんとは、違う色にしたかったの」
「そうか? 俺はこれがいいけどな」
「だって、もっと綺麗な青にしたかったから」
「例えば?」
 からかいの口調に、サイファはそっぽを向くことで返事に代えた。それでも足りないと言いたげに、どこかを見たまま言うのだ。
「知らない!」
 そんなサイファにリィは大きく声を上げて笑う。サイファは明言したに等しい。瑠璃色にしたかったと、リィの目と同じ色がよかったと。そして彼はそれを最も美しい青だと思っていると。
「可愛い俺のサイファ。俺はこれが一番だ」
 あらぬ方を向いてしまったサイファを背後からそっと抱く。ふっと体が緩んでリィにもたれた。
「よかった」
 安堵の溜息だろうか。サイファは漏らしリィの肩に頭を預けた。
「可愛いサイファ」
「なに」
「こういうもんはな、渡すんじゃないよ」
「どういうこと?」
 顔だけ振り向けサイファは問うた。すぐそこにある目に、唇にリィは惑いそうになる。だから頭を抱え込む。胸の中、抱きしめてしまえば少なくとも目には触れない。
「サイファは俺のこと大好きだろう?」
 答えるとは思っていなかった意地の悪い質問に、サイファは素直にうなずいた。リィは彼に知られないよう苦く笑い、そっと息をする。
「だったらこういうもんはな……」
「なに?」
「ちゃんとお前が嵌めてくれなきゃ」
 意味が、わかるだろうか。わからないはずだ。知るはずはない。だからリィは言う。密やかな楽しみのために。それがいっそう、苦しさを募らせることになろうとも。
「そういうものなの?」
 不思議そうにサイファは言い、無造作に指輪を取り上げる。そして少し笑ってリィの指にするりと通した。




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