以来、サイファは暇さえあれば一室に篭るようになった。小屋に住んでいたときと同じよう、日々の日課は変わらない。それを済ませたあとは、自分の時間だった。 付与魔術を習得するには長い時間がかかった。サイファにしてさえも。正確で完全な真言葉。正しく発動させるため、脳裏に描くもの。いままで考えることもなく行使できていた簡単な呪文でさえ、付与魔術と混ぜ合わせるのは困難だった。はたして習得できるのか不安になるほどに。 「なにかあった時のために扉は開けておけよ」 リィにそう言いつけられていたサイファは、自分の練習室の扉を開け放ったままにしている。そしてそんなリィを笑うのだ。 「心配しすぎ」 疲れた体をほぐそうと、サイファは立ち上がり伸びをする。頭上に掲げた腕からローブの袖が滑り落ち、左腕に嵌めた金の腕輪が目に入る。 「難しい……」 そっとそれに触れては溜息をつく。いまだかつて、魔法の習得を難しいと感じたことはなかった。制御に困難を感じたことはあっても、発動させること自体は易々とできたのだ。 それが付与魔術となるとまったく勝手が違った。ごく単純な魔法でさえ、付与することができない。 再び溜息をつき、サイファはまた練習へと戻る。彼の体の周りには、がらくたとしか見えない物が転がっている。失敗した付与魔術の品の、残骸だった。 リィは暇を持て余していた。あのようなことを言うのではなかったと、今更ながらに後悔している。 「可愛いサイファ、お師匠様は暇で仕方ないよ」 呟いてみはするものの、彼の姿はここにない。相変わらず練習室に篭ったままだった。 確かに呼べば出てくる。遊びに行こうと誘えば嫌がりはしない。けれどいま最も夢中になっているのは付与魔術の練習なのだ。 「つまんねぇな」 リィはサイファ気に入りのあの寝椅子に体を伸ばし、ちらりと練習室のある方を見る。もっとも、正確にそちら、と言うわけではない。空間は曲がりくねり入り混じり、塔の内部は目に見えこそしないけれど、まるで迷路だった。 「さて、と」 勢いよく飛び起きてみる。両手で頬を叩いて気持ちを入れ替えようとした。その手が止まる。 「怒ってもくれないもんな」 ざらざらと、無精ひげが生えていた。あまりにも彼が嫌がるものだから、わざとそのままにしてあることもある。だが、今は違う。サイファがいない今、毎日きちんとひげを剃るなど、する気にもなれない。 「見てるくせに」 いないと言っても、同じ塔の中にいるのだ。毎日、顔は合わせる。日課に加える指示もする。それなのにサイファはリィの無精ひげに頓着しない。 「あぁ、つまんね」 言ってもう一度寝椅子に伸びてしまった。その顔に苦笑が浮かぶ。 「いったい、何年経ってると思ってんだかね、あいつは。気づいてねぇんだろうな」 目の前に、両手を持ってきた。少し、衰えたような気がする。いつまで、サイファの側にいてやれるだろうか。いることが出来るだろうか。貴重な時間。無駄にしてしまった気がしてならない。 神人の子の時間に対する感覚が、ここまで大雑把だとは思っても見なかった。せめて一年単位くらいは気づいて欲しい。 「無理か」 苦笑が深くなる。永遠を生きる神人の子にとって一年など、数えるにも値しないものだろう。 「あいつの単位は百年位かね」 そう思えば、どこか苦しい。サイファにとって、付与魔術を習得するまでの数年は束の間。リィには長い、かけがえのない一瞬。 「可愛いサイファ、早く還っておいで」 柔らかい声音とは裏腹に、リィは目許を覆いそのままじっと動かなかった。 リィが予想したとおり、サイファは時間の流れなど認識していなかった。ようやくある程度は形になるものができてきた。 「なんにしよう……」 ぽつり、言っては考え込んだ。彼の周囲には、いまは整然と物が並んでいる。それは腕輪であったり、首飾りであったり。あるいは羊皮紙であったりした。そこに込められている魔法も様々だ。守護の魔法があるかと思えば、開いて定められた通常言語を唱えるだけで炎が噴き出す仕掛けになっている羊皮紙などと言う物騒な物もある。 だが、サイファが悩んでいるのは物の形ではなかった。形はすでにリィが決めている。 「指輪がいい。後はお前の好きにしていいから」 と、習い初めの頃に言われていた。サイファはそれを思い出しては微笑んだ。 リィの大きな手に、どんな指輪が似合うだろうかと思う。たとえ実用品であろうとも、リィに渡す限り、彼に似合う物にしたい、そして彼が気に入る物にしたい。 「困ったな」 物はそれでいいとして、問題は魔法だった。いったい、なにを封じればいいのかわからない。一度使えば効力を失う類の魔法は論外だった。いまの技術では、攻撃魔法を永続させるのは無理だった。 必然的に防御魔法、あるいは補助魔法と言うことになる。だが、とそこでサイファは思い悩む。リィに、たかが自分の防御魔法が必要だろうか。 「リィ……」 振り返り、サイファはリィのいるであろう居間の方角を見た。神人の子の感覚は、魔法空間の迷路にも惑わされず、正しくそちらを向いた。 だからと言って、リィが答えてくれるわけでもない。聞けば済むのだろうか。サイファはそうは考えなかった。リィは言った。 「お前が納得できるものを寄越せ」 そう言ったのだ、彼は。だから、サイファが考えなければいけないことだった。サイファ自身が彼のために作る物。納得して、彼に身につけてもらいたいと思う物。 「不遜かな……?」 呟いてみて、けれどリィは怒らないことを確信している笑みを漏らす。 「決めた」 晴れやかに笑いサイファは練習室を出た。しばらく留守にすると、リィに告げるために。 おかげでリィはまた、それ以前より遥かにすることがなくなってしまった。サイファが何をしに行ったのかは知らない。 いずれ、帰ってくるだろうとはわかっている。だが、不安ではあった。なにか事故にでもあいはしないかと、ここよりも、自分の側よりも面白いことを見つけてどこかに行ってしまうのではないかと。 「帰ってこい、早く」 何度、一人で呟いただろう。二人で住むための塔は、がらんと広くてやりきれない。 修練する以外には、だたぼんやりと座っていることの多くなったリィの頬にはやはり、無精ひげが伸びていた。 「これじゃ、いかんな」 自らに気合をかけるよう、リィは言い立ち上がる。そうでもしなければ寝椅子に転がったまま根でも生えてきそうだった。 ゆっくりと体を伸ばせば節々が軋む。リィは苦笑し、ようやく伸ばし通しにしてきた計画に取り掛かった。 「やっぱり、教えるんじゃなかった」 盛大に溜息をつく。何か他の交換条件を考えるのだった。この数年来、考えなかった日はないほど何度も何度も考えたことだった。 リィは手首に目をやり、苦笑する。神人の子の髪は褪せることなく緩く手首に巻かれていた。 「サイファ」 焦がれて、呼んでみる。無駄だと知りつつ。 帰ってくるなりサイファはほとんど物も言わず練習室に入ってしまった。相変わらず無精ひげの文句も言わない。 「せっかく無精にしてるのになぁ」 リィは困ったよう、笑う。これだけの時間があれば綺麗に伸ばすこともできたはずだった。だがリィはそうしなかった。似合うとは思っていなかったし、サイファが文句を言うのが楽しかったからでもある。無論、後者の理由が主なものだった。 すっかりリィの物になってしまった感のある寝椅子に伸びてひげ共々無精をする。あまり見られた姿ではなかったが、サイファがここにいれば機嫌よく擦り寄ってくるだろう。 そう思えどもリィは首を振る。サイファは篭りきりで顔も見せない。人間と違って食物をさほど必要としない体で付与魔術に打ち込んでいる。 「猫でも飼うかなぁ」 サイファの身代わりに。温かい体を抱きしめることもできない寂しさを紛らわすために。そんな自分に苦笑した。 「猫がどうしたの?」 飛び起きた。サイファがいた。目を丸くしたリィにサイファは笑い、嬉しげな表情を浮かべてリィを寝椅子に戻す。 「どうした?」 「なにが?」 笑って問い返してくる声の懐かしさ。サイファはリィが願っていたよう、横たわったリィの胸の上に顔を置き微笑んでいた。 「珍しいだろ、こんな時間に出てくるの」 「そう?」 「いつも朝の日課が終わると練習室に行っちまうだろうが」 「ねぇ、リィ」 「なんだ」 「寂しかった? 私がいなくて」 喉の奥でサイファが笑った。リィは一瞬のさらに半分、強張った。そして彼が気づくより先に笑って見せる。 「なんで笑うの」 「お前はどうだったんだろうなぁと思ってな」 「寂しかったもの、私」 「本当か? そのわりにゃずっと篭りっ放しだっただろ」 「だって、頑張って作りたかったんだもの」 「それで?」 「なに?」 「寂しかったか、可愛い俺のサイファ」 「うん」 ふっと、笑みが曇った。リィは彼の髪に手を伸ばす。すっかり短い一房などなくなってしまった。真実サイファが寂しがっていたのは良くわかる。だが、自分のそれには及びもしないだろう。 「俺も寂しかったよ、可愛いサイファ」 サイファは言葉を発せず、半身を起こしたリィにすがりつく。緩く腕を回せば抗議された。リィは苦笑し抱きなおす。しっかり抱きしめれば上がる笑い声。欲しいものはそんなものではなかった。 「それで。サイファ」 「なに」 「できたんだろ?」 「どうしてそう思うの」 体を離し、見上げてくる目が笑みに細められていた。懐かしい声が聞きたくて、リィは彼の頬に自分のそれを触れさせる。案の定、悲鳴が上がった。 |