見上げてくるサイファの視線からリィは目をそらし、無言で腕を引いては別の部屋へと誘った。
「リィ」
「うん?」
「どこに行くの」
「内緒」
 言えばサイファが喉の奥で笑う。そう答えるとわかっていたのだろう。期待にあふれた視線を浴びるのをリィは楽しんだ。
 当たり前の、どこにでもある扉を抜けた。がらんとして、書庫以上になにもない。棚すらなかった。
「リィ、ここはなに」
「まぁ、見てろって」
 にんまり笑い先程と同じよう、少し離れているよう指示した。それを確かめて詠唱を始める。サイファはそれを耳に聞きながら、不思議な感覚に囚われていた。
 同じ呪文に聞こえる。けれど違う。どこが違うとはっきり指摘できないのがもどかしい。極度の集中のせいだろう、額に汗を浮かべているリィに精神を接触させるのははばかられ、サイファはじっと見ていることしか出来なかった。
 と。一瞬の閃光が走る。サイファは知らず目を覆っていた。恐る恐る目を開ければ、残光に視界がぼんやりと滲む。けれどそれでいてさえ、鮮やかな緑が見えた。
 少しずつ、視力が戻ってくる。そこにサイファが見たものは、小さな木立に狭い庭。そして懐かしい、あの小屋。
「リィ!」
 歓びに声を上げ、サイファはリィに駆け寄りそして慌てた。リィの体がぐらり、傾ぐ。飛んで行って抱きとめた体は力を失って重たかった。
「すまんな」
「いいの。平気、リィ?」
「大丈夫」
 答える声にも張りがない。サイファは突然の不安に駆られ、言葉もなかった。このようなリィを見たことはなかった。いったい彼になにが起こったのか、わからない。
「リィ……」
 小声で呼んだ。肩に置かれた彼の手が慰めるよう、そこを掴む。サイファは小さく首を振る。
「リィ、座って」
 言うだけ言って、サイファは無理やり彼を座らせた。手に触れた緑の草は、柔らかく湿って甘い香りを放つ。それでいて、生きてはいなかった。リィの魔法で擬似再生されたのだ、とサイファは知る。感嘆に息を呑み、そして眼前のリィの顔を窺った。
「すまんな、ちょっと疲れただけだ。大丈夫」
「嘘」
「ほんとだって」
 かすかに笑った。彼の目許に浮かんだ疲労の影にサイファは触れた。掌にリィが軽く頬を押し付けてくる。
「リィ、お願い」
「なんだ」
「私を感心させようとしないで」
「いいだろ、それくらい」
 拗ねた声でリィは言う。サイファの喜ぶことをしたかった。それくらいしか出来なかった。それ以上は、出来なかった。
「お願いだから」
 リィはじっとサイファを見つめた。目の前で、不安に慄いている神人の子の顔を。晴れた夏空の色をした目が、淡く揺れていた。
「可愛いサイファ」
 サイファの髪に手を伸ばした。唇を噛み、少しばかり首を振る。けれどそのままサイファはリィの胸にと抱きとられた。
「怖がらせたな」
「うん」
「お前を喜ばせたいんだよ、俺は」
「そんなことしなくても、いつも楽しいもの」
「それでも」
 リィはわずかに苦笑した。喜ばせたい意図も目的も違うけれど、サイファが喜ぶならばそれでいいのだとも思う。そしてそれ以上には決してしてはいけないとも。
「リィ?」
「平気だって」
「嘘」
 唇を引き結び、サイファはじっとリィを見た。やはりいつになく精彩を欠いていた。
 サイファは少し考え、思考を凝らす。呪文を組み立て詠唱し、手の中に現れたのは一つの果実。
「お前……」
「好きでしょ。あげる」
「可愛いサイファ」
 リィは何も言えなかった。教えてなどいない魔法をサイファは使った。ほんの少し前、自分が使って見せた転送の呪文を彼は正確に発動させた。
「リィ?」
「もらうよ」
 果実に歯を立てた。酸味の強い果汁があふれる。間違いなく、生の果実だった。ゆっくりと、体から疲れが拭われていく。酸味のおかげで気力が戻ったせいもあるだろう。時間のせいもあるだろう。けれど、サイファの見せた能力に感じた一抹の寂しさがリィを正気づけていた。
「俺が要らなくなるのも、そう遠いことじゃないな」
 ぽつり、リィは言う。サイファに聞かせるためではなかった。独り言のつもりだった。手の中の果実から、果汁が手首に伝った。
「馬鹿なことを言わないで」
 サイファは彼の手を取り、手首に唇を寄せた。果汁を舐める神人の子をリィは呆然と見ていた。
「酸っぱい」
 さも嫌そうに言って顔を顰める。それからサイファはリィの肩に頭を預け目を閉じた。
「あなたはリィでしょう」
「それが?」
「どうして、要らないなんて言うの」
「お前に教える魔法なんて、すぐなくなっちまうぞ」
「だから? リィはリィじゃない。それでいいの。リィと一緒にいるのが楽しいから私はここにいるの。魔法、教えられなくなったら、リィは違う人間になっちゃうの? 違うでしょ」
 珍しく一息にサイファは言い、どうだとばかりにリィを見上げてはねめつけた。
「楽しいか?」
 知らず苦笑が浮かぶ。リィには止められなかった。いまならば、サイファはそんな顔を見ても何も言わないでいてくれるだろう。情けない師匠の顔をしても、今は許される。そう思った。
「楽しい」
「どこが?」
「全部」
「どんな?」
「いっぱい、遊んだでしょう。雪遊びだって教えてくれた。海にも連れてきてくれた。あんなに綺麗な海見たの初めてって、私言わなかった?」
「言ったな」
「あなたと一緒だから綺麗なの。わかる、リィ?」
「そんな曖昧なこと言ったってわかるわけねぇだろうが」
 リィは笑い飛ばす。サイファの言葉を。愛しいサイファに見せたくない姿をさらした甲斐があった。これほど嬉しい言葉が聞けるとは。
「うまく言えないの。わかってよ」
 不満げにサイファは言い、リィの胸に顔を押し付ける。リィは彼の体を抱きながら、それでいい、と心に呟いた。
「春になって、あったかくなったら海で遊ぼうな」
「うん」
「夏になったら、泳げるぞ」
「誰もいない?」
「なんでだ?」
「だって、恥ずかしいじゃない」
「誰も、いないよ」
 必要とあらば、どんな魔法を行使しようとも人気など排してみせる。リィは内心でうなずき決めた。
「楽しみ」
「待ってろよ、楽しい事はいっぱいあるからな」
「うん」
 ふっと笑ってサイファが見上げてきた。リィはその視線をしっかりと受け止める。
「可愛いサイファに楽しいこと、いっぱいさせてやるからな」
「ねぇ、リィ。なんで?」
「うん? お前、俺のこと大好きだろう?」
 ちらり、唇の端でリィは笑った。心の中にだけ、苦さを忍ばせ明るくそして意地悪く。
「知らない!」
「言えよ、それくらい」
「だって」
「お師匠様、大好きだろ?」
「……うん」
「俺もサイファが大好きだからな。喜ばせたいの」
「リィ」
「なんだ?」
「私が可愛い?」
「とってもな」
「なら、無茶はしないで。お願い」
「可愛いサイファのお願いだから仕方ねぇな」
「もう、リィってば。ちゃんと聞いて」
「聞いてるよ」
 リィは盛大な笑い声を上げ、サイファの髪をくしゃくしゃにする。嫌がって首を振るのも愛おしくてたまらない。
「あ……」
「どうした?」
「リィ、これ」
 髪をもてあそぶリィの手首をサイファは捉えた。細い絹の編み紐がかかっていた。輝きを放つかに見える黒い紐。
「まだしていたの。もう取ってよ」
 わずかばかりサイファが頬を赤らめた。それは彼の髪だった。あの時リィの手首に結んだ編み紐を、ずっとしていたとは知らなかった。
「どうしようかなぁ」
「どうして。もう要らないでしょ」
「いいだろ、別に」
「嫌。恥ずかしいの」
「じゃ、宿題をひとつ」
 リィは自分の思いつきに頬を緩める。嫌だと言うならば離さない。要求を飲むならばいい物が手にはいる。我ながらあくどいと思わざるを得なかった。
「なに」
 にんまりした顔を見られたのだろうか、とリィは危ぶむ。それほどサイファの声には警戒があった。
「付与魔術を教えてやる」
「本当? 嬉しい。楽しみにしてたの」
 顔をほころばせたサイファに笑みを向け、リィは安堵した。言葉を続ける前に彼の髪を撫で、そして一房の短い髪を指で弾いた。
「覚えたら、お前が納得できるものを俺にひとつ寄越せ。そうしたらこれは外してやるよ」
「そんなのずるいじゃない」
「どこがだよ」
「納得行くものなんて、いつになったらできるかわからないでしょう」
「そう思うなら、頑張って練習するんだな」
 話しはこれで終わり、とリィはサイファの体を離した。立ち上がって手を差し伸べれば、期待と不安の入り混じった顔をしてサイファが見上げていた。




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