リィは脇目も振らず階段を上っていく。サイファはその後ろに従いながら、止まってみたくて仕方なかった。
「リィ、待って」
「どうした」
「ゆっくり見たい」
「あとで」
 たまりかねてそう言ってみたけれど、リィは意にも介さず上って行ってしまう。サイファは諦めて肩を落とし、また階段を上り始めた。
「可愛いサイファ、開けてごらん」
 どうやら最上階に近い辺りらしい扉の前でリィがにんまりと笑った。サイファは首をかしげてリィを見る。彼は答えることなく手振りで扉を示すだけ。
「開けるの?」
 無駄な問いかけをし、サイファは扉に手をかける。ゆっくりと押した。
「あ」
 そこは居心地の良さそうな広い居間だった。小屋にあったものとは比べ物にならないほど広い。けれど装飾など華美ではなく、小屋の居間をそのまま持ってきたかのようだった。
「どうだ?」
 声にサイファは振り返り、口許をほころばせた。
「素敵」
「本当に?」
「どうしてそんなことを言うの」
「だってお前、まだちゃんと見てないからな」
「どこが?」
 せっかく気に入ったのに、リィがなぜそのようなことを言うのかサイファにはわからない。唇を引き締め、じっとリィを見た。
「おいで」
 リィはサイファの脇を抜け、するりと居間に入り込む。そして手招いた場所。サイファは目を丸くした。
「ほら、気がついてなかっただろ。せっかくお師匠様が用意したってのにな」
 わざとらしくリィが肩を落として見せるのに、サイファはかまわず彼の元へと駆け寄った。リィの足下にあるのは大きな寝椅子だった。大人二人がたっぷり横になれるほど大きなそれをいったいリィはどこから持ってきたのだろう。サイファはふわりと笑った。
「覚えてたの?」
「もちろん」
「嬉しい」
 言ってサイファは寝椅子より先にリィに飛びついた。
「そりゃ、良かった」
 飛んできた神人の子を、リィは抱きとめ、けれどよろめく。サイファが腕の中で笑った。
「リィ」
「なんだ」
「ありがと」
「どういたしまして。お前が喜んでくれりゃ、それでいいさ」
「ねぇ、リィ」
「うん?」
 わずかに苦笑を滲ませて、リィはサイファを抱えたまま寝椅子に腰を下ろした。ありえない希望のためにこれほどゆったりとした寝椅子を用意したのだとは、誰にも言えないことだった。
「どうして私が嬉しいといいの?」
「お前な。質問ははっきり的確に。なにが言いたいのかわかんねぇだろ」
「だから、リィは私が嬉しいとなんで嬉しいの」
「なんでって、サイファが可愛いから」
 リィが言った途端にサイファは黙った。ふっとリィは不安になる。せめてこの神人の子が、安らげる場所でありたい。それだけでいい。それを自分の手で奪ってしまったのだろうか、よもや。
「可愛いサイファ、どうした?」
「……恥ずかしいの。放っといて」
「お前なぁ。なにが恥ずかしいんだよ、うん?」
 リィは笑って安堵した。彼が何か気づいたわけではない、と。気恥ずかしくて照れているだけならばこんなに嬉しいことはない。リィは腕の力を強め、嫌がるほどに抱きしめた。
「リィ、苦しいでしょ」
「なにが恥ずかしいのか言ったら離してやるよ」
「嫌」
「じゃ、離してやんない」
「リィ!」
 抗議する神人の子の甘い声。腕の中から聞こえてくるそれがいつまでも続けばいいとリィは思う。その意に反してリィは腕をほどいた。
「さぁ、見せたいもんは他にも一杯あるからな」
「どんな?」
「それは見てのお楽しみ」
 喉の奥で笑ってリィは言う。立ち上がって手を差し伸べれば期待にあふれた目をしてサイファが見つめ返してきた。
「おいで、可愛い俺のサイファ」
 その呼称を嫌がることもなく、むしろ気づきもせずにサイファは笑って立ち上がった。嬉々として後ろについてくるサイファの気配にリィはそっと目を閉じた。
 いくつか階段を上り下りし、廊下を何度も曲がった。サイファにはもう自分がどこにいるのかわからなくなりつつあった。
 方向感覚が狂ってしまっている。そのことに漠然とした不安を覚える。神人の子である彼はあらゆる意味で人間より鋭い感覚を持つ。そのサイファが方向を見失ったのだから、恐れ方は人間のそれより激しいのかもしれない。
「リィ」
「なんだ」
「いま、どこ」
「あぁ……」
 頼りない声にリィは振り返る。そして軽く唇を噛んだサイファの顔を見た。
「塔の中はほとんど魔法空間だからな。慣れるまでは少し怖いだろう。大丈夫だよ、俺がここにいるから」
「うん……」
 手を伸ばした。すがってくる細い指。リィは自分の大きな手の中、それを握り締めて前を見る。
「もう少し、な?」
 うなずいたのだと思った。けれどサイファは指を振りほどく。リィが問いかけるより早く、サイファの腕がリィのそれに絡んだ。
「可愛いサイファ」
 リィは苦さが混じらないよう心して笑う。今度は彼が腕をほどいた。かすかに傷ついた顔をするのをなだめるよう頭を撫でて、リィはサイファを抱き寄せる。肩を抱いたまま歩き始めてようやく、ほっとしたサイファの吐息が聞こえた。
 足許さえ、定かではないような気がしてサイファは目を閉じた。そして慌てて開く。気分が悪くなりそうだった。
「ちゃんと目は開けとけよ」
「先に言って」
「そりゃ悪かったな」
 おそらくサイファだとてそうなるだろう、と予想はしていた。そして多少なりとも頼ってもらえるかと思ってリィは黙っていた。己の卑怯な振る舞いに目を閉じたくなってリィはしっかりと目を開けた。言ったそばから自分が眩暈を起こしていては笑えない。
「さて、と」
 ある扉、としか言いようのない扉の前でリィは立ち止まる。無造作にそれを開けて入り込む。サイファには何もない、がらんとした部屋に見えた。ただ無数の空いた棚だけがある。
「ここ、なに?」
 腕に抱かれたままリィを見上げれば、瑠璃色の目がいたずらを企んでいるよう細められた。サイファは唇をほころばせ、リィから離れる。黙って見ていればきっと面白いものを見せてもらえるのだろう、と。
「可愛い俺のサイファ、見てろよ?」
 いかにも自信ありげにリィは言い、少し離れていろと身振りで示す。
 サイファは一歩下がってリィを窺い、何も言わないのを確かめてその場に座った。冷たい床に見えたけれど、仄かな温みがあったことに驚く。
 手で触れれば見た目に反して柔らかかった。その感触にとらわれて、危うくリィの行為を見過ごすところだった。はっと目を移したとき、リィはすでに魔法の準備動作に入っていた。
 リィの豊かな声が真言葉を唱えている。そっと精神の指先を伸ばしてリィに触れた。引き寄せられ、包み込まれる。心でリィの声を聞き、目には動作を焼き付ける。
 サイファが見ているうちに、室内が薄い明りに照らされ始めた。掲げていた手をさっとリィが振り下ろしたとき、床に何かが出現する。サイファが確かめようとする間もなく、再びリィは呪文を唱えそれに従って物は室内を飛びかい、所定の位置へと収まっていく。
「どうだ?」
 芝居がかった仕種でリィはサイファを振り返る。そこにいたのは感嘆に声もない神人の子。あっけに取られて室内を見回していた。
「すごい……書庫の、本?」
「そう。魔法通路を開くって言っただろ」
「うん、聞いたけど、すごい」
「尊敬した?」
「いつもしてるもの」
「本当か、それ?」
「疑うの、私を?」
 心外だといわんばかりの声音にリィは笑う。無論、サイファもわざとらしく尋ねているだけなのだから、すぐにリィにつられて笑い出す。
 そして立ち上がっては辺りを歩き始めた。様々な本がある。いずれも見慣れた物ばかり。あの小屋の横に建てた書庫にあった物だった。
 手で触れてみる。間違いなく、自分の慣れた本だった。ある一冊を抜き出し、ページを繰る。そしてリィに示した。
「どうした?」
「ここ。汚れてるでしょう。本当に書庫の本なんだと思って」
「お前な。お師匠様がしたことに間違いはないぞ」
 気分を害した声を作ってリィは言い、ふいと顔をそむけて見せる。サイファが擦り寄ってくるのを期待して。それは叶えられた。背中に張りついて笑う神人の子の温かい体を感じながらリィは満ち足りた思いで新しい書庫を見回した。
「これでいくらでも増やせるな」
 まだ空いている書架はたくさんあった。以前は広さに限りがあって思うに任せなかったけれど、これならば好きなものを好きなだけ蒐集できる。
「すぐ一杯になってしまうのに」
 からかうよう、サイファが言ってはリィの腕の下に潜り込み、無理やり前へと抜けてきた。
「だったら増やせばいいだろ」
「なにを?」
「空間自体を」
 心持、顎を上げてリィは言う。目を輝かせるサイファの視線を視界の端に感じてリィは心から満足した。




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