風が変わった。サイファは馬上でそれを感じる。木立は自然とまばらになり、そしてなだらかな丘を道は下り始めた。
「リィ、まっすぐでいいの」
「いいよ、急ごう」
 リィの声に馬は疾駆する。深い芝草の生えた道を馬は易々と駆けた。
 辺りは明け初めかけていた。夜明け前の曙光が一瞬、東の空を銀に染め、そして消える。
「海だ!」
 サイファが叫んだ。丘を下りきったそこは広い砂浜。どこまでも続く広大な海が二人の眼前にあった。
「おいで、サイファ」
 リィは馬から下り、砂浜を歩く。サイファは一度、馬の鬣を撫でてから彼に従った。
「ごらん」
 指差す先に、光。
「あ……」
 リィはサイファを背後から抱きしめる。緩く安堵して体を委ねるサイファに、リィは光を指し続けた。
 今しも、太陽が昇ろうとしていた。藍色は追いやられ、淡い紫が現れる。と見る間もなく、それは鮮やかな青に変わった。
「お前の目より、少し濃いな」
「あなたの目より、少し薄いね」
 顔を振り向けもせず、サイファは言う。声音に含まれたかすかな笑いにリィは満足する。
 その間にも陽は昇り続けた。ほんの束の間、見落としかねないほどの短い時間、空は緑になり、そして淡い黄色が差してくる。
 次いで現れたのは、輝かんばかりの金色。海の上に太陽は昇り、そして水には一条の光の道。
「綺麗……」
 うっとりと呟くサイファの声を、リィはこの上ないものと聞いた。
「これを見せたかった」
 耳許で囁く。声もなく、サイファはうなずく。
「見たこと、あったか?」
「わからない、あったかもしれないけど」
「けど、なんだ?」
「いま見たのが、一番綺麗。こんなに綺麗なもの、見たことない……」
 言ってサイファは吐息をつく。胸に当てた手は、そのままリィの腕に触れ、彼の手に重ねられた。
 それこそが、リィにとっては何よりの褒美だった。もしも誰かがいまの自分たちを目にしたならば、なんと見ることだろうか。リィはサイファから見えないのをよいことに苦く嗤った。
 腕の中に安らう神人の子。人間と恋仲になる者もいるという。恋人同士に、見えるだろうか。見えたとしても違うことをリィは知っている。たまらない思いだった。
「リィ」
「うん?」
「ありがとう」
 振り向いた彼は、サイファがこの日に見た一番綺麗な夜明けのよう、リィの目には美しく微笑んでいた。
「どういたしまして」
 仄かに笑ってリィは言い、肩をすくめてあらぬ方を見やる。その仕種にサイファが笑った。
「ねぇ、リィ」
 すでに昇りきった太陽を眩しげに見ながらサイファは尋ねる。
「まだ遠いの?」
「いや、そんなことはないが?」
「なら、馬。帰しちゃっていい?」
「いいよ、俺は」
 サイファは答えにうなずいて、リィの腕に抱かれたまま馬を呼ぶ。さくさくと砂浜を踏みながら馬は駆け寄り嘶いた。
「ありがとう、乗せてくれて」
 馬の首に手を伸ばし、サイファはそっと撫で鬣を指で梳く。心地良さげに馬は再び嘶いて、そして向きを変えては駈け去った。
「少し歩きたい。いい?」
「もちろん」
 馬の後姿を目で追っていたリィはサイファに微笑む。あのように速く駈け、そして従順な獣を見たことはなかった。神人の子が呼ぶからこそ来てくれたのだろう。だが、その背に乗った思い出は、いつまでも忘れがたく心に残るだろう。サイファのぬくもりとともに。
「リィ、行こう」
 サイファの呼び声に腕を離せば、途端に彼は駆け出した。
「待てよ」
「嫌」
 砂浜に、サイファの軽い足跡はほとんど残っていなかった。リィは自分の足跡を振り返る。重たい跡がくっきりと砂に押されていて、知らず苦笑した。
「リィ!」
「いま行く」
 駆け寄った。するりと逃げた。笑い声。リィもまたいつか笑っていた。
「可愛いサイファ、ちょっと待てってば」
 いい加減、息が上がってきた。膝に手を置き、リィは呼吸を整える。そこにサイファは軽やかに駈け戻ってくる。
「リィ」
「うん?」
「あなたに聞こえればいいのに」
「なにが」
 問うた言葉にサイファはほんの少し、寂しげな顔をした。リィは手を伸ばす。腕の中、飛び込んできた。
「夜明けの光に、歌が聞こえるの」
「歌?」
「うん。歓喜の歌が、聞こえる」
 それはどのようなものだろう、とリィは思う。神人の子の耳にしか聞こえないものだろうか。そう思えば哀しい。聞こえないことではなく、それを聞かせたいと思っているサイファに応えることができない人間としての自分が。
「新しい世界を寿ぐ、喜びの歌。あれが聞こえればあなた、若返るよ」
 胸に頬を押し付け、けれどサイファは笑った。
「お前なぁ」
「なに」
 だから、リィも彼に合わせる。寂しさを癒すより、戯れがいいならば応えるまで。
「それほど年取っちゃいねぇって!」
「そうなの? 人間の年齢はわからないもの、私」
「まだ……年寄りってほどじゃねぇよ」
「少し間があったけど? 若くはないんでしょ」
「そりゃ、まぁな」
「若返れたらいいのにね。そうしたらもっと追いかけっこ、できたよ?」
「どんなに若くても、お前についていかれるか」
「どうして?」
「子供の遊びに大人は付き合ってらんねぇの」
「だから! 年なら私のほうが上。知ってるでしょ」
「知ってるよ。でもお前、子供だもん」
「違うもの」
「どこが? 神人の子としてだって充分若いだろ」
「若いよ。でも子供じゃないもの」
「同じだな」
 リィはひっそりと笑った。反ってそれがサイファを拗ねさせる原因になるとわかっていても笑ってしまった。
「なにが」
「人間の子供と」
「どこが」
「子供ってなぁ、自分を子供じゃないと言い張るもんなんだ」
 言い放った途端、サイファが黙った。きっと腕の中で唇を尖らせているのだろうと思えば微笑ましい。なだめるよう、きつく抱けば上がる笑い声。
「痛いでしょ」
「なにしても痛いって言う」
「だって、痛いことばかりするんだもの」
「それじゃ、俺が極悪非道みたいだろ」
 その言葉にサイファは顔を上げ、間近からまじまじとリィの顔を見つめた。次いで少しずつ広がっていく笑み。
 言葉の上での否定など、必要なかった。ただの言葉遊びだと二人ともがわかっていた。こうして見つめあえば、それで充分だった。
「ねぇ、リィ」
「なんだ」
「どこまで行くの」
「すぐそこだよ」
「そこって、どこ?」
 わざとらしく拗ねて見せ、上目遣いにリィを窺えば、大きな手が頭を抱えて髪を撫でるのをサイファは感じる。
 リィの腕に包まれていれば、何も怖いものなどなかった。どこよりも安心できるサイファだけの場所だった。
「見たいか?」
「うん」
 その安住の場からサイファは放たれ、少しばかり不機嫌になる。もう少しぬくもりの中にいたかった、と。
「ちょっと待ってろって」
 苦笑しながらリィが言うのに、サイファはうなずく。きっとまたすぐに遊んでくれるはずだから。
 サイファが見ているうち、リィは胸の前に手を上げた。そして力強く打ち合わせる。
「あ……」
 今まで隠されていたものが出現した。強力な幻影が施されていたとは、まったく気づかなかったサイファは愕然とそれを見た。
「すごい」
 知らず、呟く。高く聳える塔が、リィの建設した塔が、そこにあった。
「どうだ。少しはお師匠様を尊敬したか?」
 からかいの口調でリィが言うのに、サイファはうなずくばかり。まだ目をみはっていた。
「おいで、可愛い俺のサイファ」
 差し伸べられた手を取って、サイファはリィの後ろに従った。
 扉の前、リィが立ち止まる。訝しげな顔をしたサイファを振り向き、繋いだ手をほどいた。
「手、貸せ」
 何かと問うこともせず、サイファは示された場所に手を置く。ふっと扉が輝いたかに見えた。
「封印?」
「そう。当面、勝手に出入りできるのは俺とお前だけ」
「……うん」
 また、小屋で過ごしたように暮らせるのかと思えば嬉しかった。広い場所で、リィと二人。崩壊する本の塔に悩まされることなく、心ゆくまで練習も学習もできる。
 音もなく広いた扉をリィは抜け、サイファを振り向く。慌ててサイファは彼の後を追った。
 外から見るよりずっと、広い塔だった。空間を魔法でいじってあるのは明白だった。これを作り出すため、リィはどのような修練を積んだのだろうと思う。いつか、自分にもできるようになるのだろうか。サイファは思い巡らし、そしていつまでもリィの側にあればいいのだと思いなおした。




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