リィは馬を駆るサイファをさりげなく誘導していた。でき得る限り人家に近づかないようにしているとは、サイファは気づかなかっただろうと、誘導の巧みさを密かに誇った。 二人はミルテシアの甘い香りを放つ森の中をゆったりと進んだ。急ぐ旅ではない。気持ちの良い場所を見つけては早いうちに留まってしまう事も度々あった。 「サイファ、今日はこの辺でとまろう」 だからリィがそう言ったとき、サイファは何も疑問に思わなかった。もう夕方ではあったけれど、木立の中には薄い日が射している。冬の陽は遠くかすかだった。 「ねぇ、リィ」 不意にサイファは問いかける。何か、普段とリィの態度が違う気がしたのだ。 「なんだ」 「どうかしたの」 「どうして?」 「いつもと違うもの」 「そうか?」 言いながらリィの顔がはっきりと笑いを噛み殺したのにサイファは気づく。それに向かって呆れて笑い、そしてサイファは横を向く。 「変なリィ」 それから首をかしげて馬の鬣を梳いた。黒馬は精悍で丈夫だった。何日乗り続けても少しも疲れた様子を見せない。 「重くて悪いと思っちゃいるんだがなぁ」 ぽつりとリィは言い、サイファの後ろから馬に手を伸ばす。リィには彼のするよう、裸馬を御すことは出来なかった。 「なにが?」 振り返ったサイファが不思議そうに問うた。 「なにって……二人も乗っけたら重たいだろう?」 「あぁ……」 ふっと、サイファはうつむいて笑う。細かく肩が震えていた。 「どうした?」 「だって。私、重くないもの」 「サイファ?」 彼が何を言っているのかわからなかった。リィは首をひねってサイファの腰を掴んだ。 「リィ?」 問いに答える間もなく、リィはサイファを抱き上げる。快い重さだった。 「リィ!」 「重いとは言わんが、軽いとも言わんぞ」 「いいから下ろして」 「だめ」 無下に言った言葉にサイファが笑い出す。緩く彼の腕が首に絡む。心騒ぐ胸をリィは必死に抑えていた。 「どうして重くない?」 言わないと下ろさない、とはっきり口調で告げ、リィは目の前のサイファの目を覗き込む。青い目は面白げに揺れていた。 「あなたは私を生き物だと思ってるでしょう」 「ほかになにがある」 「馬は思ってないの」 「どういうことだ?」 「あなたにとっては、私は生身だけど、馬は私を地上の生き物だとは思ってない。そんな感じ。巧く言えないもの」 「俺は馬じゃなくてよかったよ」 「リィ?」 「可愛いサイファを抱っこできるからな」 「下ろして、すぐに!」 「可愛いサイファ。そんなこと言うと下ろしてやらないからな」 「いいもの。重たいのはあなただから。私はちっとも疲れないもの」 「疲れたりなんかしないぞ」 「嘘。きっとすぐ下ろしたくなるんだから」 「全然。ずーっと抱っこしててやろうか?」 「嫌」 言いながらサイファはけれど破顔する。緩くリィの首にかけていた腕をサイファは強く絡めなおす。リィの耳許に、サイファの忍び笑いの声が聞こえた。 「可愛い俺のサイファ。何がおかしい?」 「別に。リィってやっぱり変だね」 「どこがだ?」 心底、不思議そうに言ったリィをサイファは笑う。サイファからしてみればリィは変な人間だった。少しも自分のことを特別扱いしない。だからサイファはリィが大好きだった。 リィが人家を避けていることに、サイファは実を言えば気づいていた。いくら深い森のミルテシアとは言え、王都もあれば街もある。人間はいたるところにいるはずなのだ。 旅に出てからずっと、まるで人に会わないなどありえることではない。リィが避けているのでないとしたならば。 サイファはそれが嬉しかった。多少の苦笑は伴うものの、リィと二人きりで馬の背にのんびり揺られるなど、初めてのことであったし、誰に邪魔されるのも嫌だった。 「リィ」 「うん?」 「なんでもないの」 「変な子だね、お前は」 口許を緩ませ、リィはわざとらしく頬ずりをした。途端にサイファは跳ね上がる。 「嫌だって言ってるでしょう」 唇を引き結んで、サイファはリィを真正面から見つめる。それから片手を首から離し、リィの頬を撫でた。 「なにがだ?」 「わかってるくせに」 「うん?」 「無精ひげ。痛いから嫌」 「旅の途中で剃れって言われてもなぁ」 「だったら剃るまで痛いことしないで」 「……気をつける」 「なに、リィ?」 「いやぁ。あんまり嫌がるとやりたくなるんだよなぁ」 「リィ。嫌いになるよ」 「嘘つけ。それくらいで嫌いになったりするもんか」 くっと、リィは喉を鳴らす。その程度の自信はあった。嫌いになる、とサイファは言った。逆説的にそれはいまはリィを好きだと言っているに等しい。本人がどう考えているかは別として、リィはその言葉を喜んだ。 「なるもの」 ぷいと顔をそむけ、サイファはリィの腕から飛び降りる。その体を背後から捉えて抱きしめる。 「サイファ」 冷たい髪に頬を寄せた。 「からかってるだけだよ」 温かい体を腕に抱けば、ゆったりと体を預けてくる。 「わかってる」 窮屈そうに顔を振り向け、リィの目を覗き込む。口許が笑っていた。 「お前……」 「なに? 痛いことはしないでね」 手を伸ばし、頬を触る。ざらざらとした感触にサイファは目を細めた。 「触るのは好きなくせに」 「頬は痛いんだもの」 「もっと伸ばせば痛くないぞ」 「嫌」 「なんでだ?」 「似合わないから」 リィはついに吹きだした。自分でも似合うとは思っていないが、サイファがこうもきっぱり言うとは思ってもみなかった。 「そうか、似合わないか」 「うん。今のままがいい」 「わかった」 できるだけ、今のまま。いつまでその約束が守れるだろう。リィは危ぶむ。いずれ、年老いていく。サイファは変わらないだろう。人間の目で見てはっきりわかるほど、彼は変わるのだろうか。そして変化を見て取れるまで自分は生きていられるのだろうか。 「リィ?」 「なんでもない。おいで」 首を振り、リィはサイファを離す。食事の支度をしに、そして彼を腕に抱いて眠るために。 「可愛いサイファ、起きな」 リィの声に目を開けたとき、まだ辺りは暗かった。見回しては目を瞬く。 「どうしたの」 「ちょっと早めに出かけたい」 「どうして」 「内緒」 その声が、あまりにも楽しそうだったからサイファは自分の体を抱いたリィの腕の中、しっかりと潜り込む。 「サイファ。起きろってば」 首を振り、彼の胸に額を押し付けサイファは起きようとしなかった。 「いいもの見せたいんだから」 「なにを?」 「だから、内緒」 「どうして」 「お前を喜ばせたいの。俺のためだと思って起きろってば」 無茶苦茶な言い分にサイファは笑い出す。そして体を起こしてはリィの手をとって引き上げた。 「サイファ?」 「行くんでしょう」 唇だけでサイファは笑い、軽々と馬の背に飛び乗った。その身軽さにリィは呆れて笑い出す。 「リィ」 「わかったよ」 本当は、とっくに起きていたのだと知った。ただ遊んでいたかったのだとわかった。リィは苦笑してサイファの後ろへと上る。 「行くよ」 準備など何もなかった。いつでも発てるよう荷物もまとめてあるのだから。二人が馬の背に乗れば、それで終わりだった。 サイファがそっと馬の首を叩く。夜明け前に起こされた馬は不満そうに嘶いて、けれどもすぐに走り出す。 「ちょっと急いだほうがいいな」 辺りを見ながらリィが呟く。それを耳許に聞いたサイファはわずかに振り返ってリィをうかがった。 「少しって、どれくらい?」 「もうちょっとでいい」 「うん」 サイファの返事に、まるで馬は人語を解したかのよう足を速めた。森の中、木の根に足をとられることもなく馬は駆ける。 リィはサイファの腰のあたりを抱いて肩に顎を乗せていた。時折、黒髪が頬をなぶる。森の中は暁闇だった。 |