リィはサイファを離し、さっさと旅の準備を始めてしまった。サイファは彼を手伝いながら、まだ名残惜しげに辺りを見やっている。
「あとは食いもんだな」
 言ってリィは袋の中にいそいそと食料を詰めた。それはリィがいない間にサイファが焼いておいたパンであったり菓子であったりした。
 自分では少しも食べる気が起きなかった物であっても、リィが喜んで食べてくれるならばサイファは作っておいて良かったと思うのだ。
「リィ、果物持って行っていい?」
「あぁ、採っておいで」
「うん」
 喜ばしげな声を上げ、サイファは表に出た。雪は残念なことにもうやんでしまっている。あるいは旅立ちにはそのほうが良いのかもしれないけれど、サイファは雪景色が好きだった。
 はじめてリィと過ごした冬のことを思い出す。かつて話してくれたよう、リィは雪遊びをたくさん教えてくれた。二人、ついには転げまわって雪だらけになるまで遊んだことを懐かしく思い出す。
 思い出に唇をほころばせながら、サイファは木々になる最後の果実をもいでまわった。
「リィ、雪がやんでしまったの」
 小屋に戻るなりそう言えば、リィがほっとしたよう笑う。
「そのほうが俺は助かるんだがな」
 言いつつサイファの持つ籠の中を覗く。そして口許を緩ませた。
「なに?」
「ちゃんと俺の好きなのも採ってきてくれたんだなと思ってな」
 そう言ったリィの言葉にサイファは答えず、ぷいと横を向くだけ。それにリィは声を上げて笑い出した。
「もう、いい加減にしてよ」
「悪いな」
「それで?」
「なにがだよ」
「どうやって旅するの」
「うーん、どうしようかなぁ」
「そもそも、どこに行くの」
「ミルテシアの南東辺り」
「辺りって、どういうこと」
「地名言ったってお前にゃわからんだろ」
「それは、そうだけど……」
 納得行かない、と言いたげな顔をするサイファの頭をリィは撫で、それから首をひねった。
「お前を転移させられれば早いんだがなぁ」
 さすがにまだ心許なかった。自分が転移することはできるけれど、生きた他者を転移させるほうがずっと難しい。万が一にも出現点を誤れば、木っ端微塵に砕け散ってしまう。愛しいサイファをそんな目にあわせる気はさらさらなかった。
「歩いていくしかないか。面倒だがな」
「ねぇ、リィ。馬は乗れるの」
「……乗れるけど?」
 一瞬、戸惑う。人間の、それも庶民の間で乗馬の習慣がほとんどない大陸にあって、その答えをサイファはなんと聞いたことだろうか。
 わずかにサイファの顔を窺う。彼は何も気づいた様子はなかった。そのことにほっとし、そして気の回しすぎだと気づいては苦く笑う。
 サイファは人間の習慣など、ほとんど知らない。親しく付き合った人間といえば生まれてこの方リィ一人なのだから。それを知っていてさえ、余計なことを考えるのは、リィのやましさがさせるのかもしれない。サイファはリィがどのような親を持ち、どのような家庭に育ったかなど、気にもしないだろう。けれどリィは知られたくなかった。
「人間の使うような道具がなくても?」
「道具って、あれか? 鞍とか手綱とか、そういうもんか?」
「そう」
「それは……ちょっと無理だな」
「じゃあ、一頭でいいね」
 嬉々としてサイファが言う。リィには彼が何を考えているのかわからなかった。
「サイファ?」
「馬、呼ぶから。たぶん、来てくれると思う」
「どういうことだ?」
 リィの疑問にサイファは答えず、小屋の外に出ては遠く声を張り上げ呼ばわった。神人の子の、澄んだ声が森にこだまし、そして消える。
 サイファはしばしの間、耳を傾けるような仕種をし、そして満足げに小屋へと戻る。
「野生馬がね、いるの。あなたに会う前はよく一緒に旅をしたから」
「前って、お前。けっこう経ってるぞ」
「うん。だから、たぶん群れの仲間かその子供とか孫とか。誰か来ると思う」
 確信ありげにサイファは言い、リィの目を覗いては瞬く。勝手にやってしまったけれど、それでよかったのかと問うように。
 リィは笑みを浮かべ、サイファの頭を撫でた。無言であっても、それで彼は褒められたことを知るだろう。そしてサイファが安堵の笑みを漏らすに至って、それは事実となる。
 リィは彼に悟られないよう、呆然としていた。この秋の終わり、冬も近い時期に野生馬がいるとはまず思いがたい。冬備えを始めたはずの野生馬が呼び出しに応えるとはさらに信じがたかった。
 けれどそれができるのが神人の子だった。あまりにも自分とは違う。人間など及びもつかない様々な物を彼は持っている。
 リィの心に浮かんだのは、けれど畏怖ではなかった。彼のようになりたいと言う憧れでもなかった。異種族である、永遠の命を持つサイファと、終生を共にすることが出来ない人間としての自分を悲しんだだけだった。
「リィ?」
「どうした?」
「それは私が聞きたいの。どうしたの」
「別に。どうかしたように見えたか?」
「うん。少し」
「少し、なんだ?」
 自虐的にリィは問う。決して彼が知ることがあってはならない。そんなことを決心しなくともサイファが知るはずもないことだと、わかってはいたが。
「少し、寂しそうだから」
 言ってサイファは目を伏せる。それを感じさせてしまったことにリィは後悔する。
「そうだな。やっぱり引越しは寂しいもんだからな。新しい所を楽しみにしてるのと同じくらい」
「あなたも?」
「当然。お前と暮らした場所だからな」
 からかいの声音で言えばサイファが唇を引き結んで横を向く。本気で怒ったわけでもなかろうが、それだけサイファがここを離れがたく思っていることはリィを狂喜させた。
「あ……」
 ふと、サイファが窓の外に目をやる。その顔がほころんだ。
「リィ」
 言われてリィも外を見る。実に驚くべきものがそこにいた。夜の闇を固めたような黒馬が立っていた。寒気に吐き出す息が白く凝って、馬がここまで駈けてきたのだと知れる。
「行こう」
 サイファはリィを誘い、外に出た。馬に親しげな手を置き、馬もそれを受け入れるよう鬣を揺する。どこか疎外されたような思いにリィは苦笑し、小屋を振り返ることで溜息を飲み込んだ。
 背後でサイファが馬に何かを話しかけているのを聞きながら、リィは小屋に封印を施す。準備を始めたところで話し声が絶え、サイファが自分の一挙手一投足を見つめていることを感じた。
 そのことにわずかばかりの満足を覚えた。サイファが魔法を覚えようとしているだけであっても、彼の視線を感じているのは喜びだった。
 静かな詠唱に続いて手を振り上げ振り下ろす。淡い輝きに包まれて小屋は封印された。リィは光が消えたのを確認してからさらに呪文を唱えた。
「今のはわからなかった」
 振り返ったリィにサイファが問いかける。熱心な思いにリィは微笑み、ちらりと小屋を見やった。
「向こうから魔法通路を開くって言っただろ」
「うん」
「だからこっちにも誘導できるように扉を作っておかないとな」
 言われたことをサイファは深く考える。そして呪文を思い出す。ゆっくり心のうちで復唱した。リィがそこに接触し、間違った発音を正す。何度か繰り返すうち、それは完全なものになった。
「それでいい。練習しなさい」
「はい、リィ」
 嬉しげに笑うサイファの髪を撫で、微笑めば馬が催促するよう嘶いた。
「行くか?」
「うん」
 返事をしたものの、サイファは小屋をもう一度眺める。それからリィには聞き取ることのできない言葉で何かを呟いた。
「あなた、後ろね」
 サイファは馬に軽やかに飛び乗り、リィに手を差し出す。リィは苦笑して彼の手を借りることなく馬上にあった。
「どうして?」
「なにがだ」
「手。出したのに」
「格好悪いだろ、お前の手にすがったりしたら」
「どこが? いいじゃない」
 無理やり後ろに顔を向けてサイファは不思議そうに言う。それからリィが嫌がったわけではないことを確認したのだろう、唇をほころばせて言った。
「行くよ」
 サイファが鬣を掴む。と、リィの心構えができるより先に馬は走り出す。まるで風の背に乗っているようだった。
 滑るよう、森の景色が流れて行った。それは留まる自分たちの向こう側で森が去っていくのかと錯覚するほど。
「サイファ!」
「なに」
「さっき、なに言ってたんだ」
 耳許で切れる風の音に負けないようリィは叫ぶ。それに気づいてサイファは馬に速度を落とさせた。
「なにって、別になんでもないもの」
 サイファの背を抱くよう馬の背にあるリィに、彼の顔は見えなかった。けれど少しばかりうつむいたのはわかった。
「そうか、お師匠様に秘密を持つのか、お前は。うん?」
「そんなんじゃないって言ってるでしょ。小屋にね……お別れしたの」
 わざわざ、神人の言葉で小屋に別れを告げるとは。リィは愛しさにたまらなくなる。力ある言葉に、あの小屋は住む者がいなくなったとしてもしばらくの間は元のまま立ち続けるだろう。その願いをこめたのだと思えばリィの唇には自然に笑みが浮かぶ。
「それでこそ俺の可愛いサイファだよ」
 鬣を握るサイファの邪魔をしないよう、リィはそっとサイファを抱きしめる。くすぐったげな笑い声を上げ、そして彼は嫌がらなかった。




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