目覚めは心地よいものだった。サイファはふと隣を見た。リィはそこで眠っていた。
「夢かと思った」
 ぽつり、呟く。そして自分の言葉に気恥ずかしくなっては彼の胸に顔を埋める。
「ほんとお前は可愛いね」
 リィの喉が動いた。咄嗟にサイファは飛び起き、リィの顔をまじまじと見つめる。
「起きてたの」
「寝てたよ」
「嘘」
「ばれたか」
 リィはくしゃりとサイファの髪を撫で、彼の腕を引く。素直に胸に抱かれたサイファの頭をリィは愛おしげに撫でた。
「どこに行ってたの」
「どこだと思う?」
 リィはからかうよう、サイファの問いをはぐらかす。案の定、サイファは苛々とリィの背を叩いた。
「怒るなって」
 言って彼の頬に自分のそれを摺り寄せれば、抗議の声。
「なんだよ」
「痛いから嫌」
「なにが」
「無精ひげ。剃ってからにして」
 言われてはじめてまたひげが伸びていたことに気づき、リィは掌でそれをこすった。それをサイファがおかしな物でも見るような顔をして笑った。
「笑うなよ」
「だって、不思議なんだもの」
「見慣れたくせに」
「それでも」
 サイファの手がリィの頬に伸びた。サイファにとっては不思議以外の何物でもないリィのひげの手触り。こうして手で触るのは好きだった。
「なんだよ」
 笑ったサイファにリィは問う。
「別に。なんでもないもの」
「言えよ」
「嫌」
「言わないと、頬ずりするぞ」
「絶対、嫌!」
 言いながら、サイファはさほど嫌そうな素振りはせず、リィの頬に手を添えたままだった。
「ねぇ、リィ」
 すぐ側で、自分の腕の中でくつろぐ神人の子に見惚れていた。おかげでサイファが何を問おうとしたのかリィにはわからなかった。
「ねぇ、聞いてる?」
「すまん。ぼうっとしてた」
 慌てて、けれどそれを面に表さず、リィは苦笑するにとどめてサイファを見つめる。青い目が仕方ない、とばかりに細められた。
「だから、どこに行ってたの。いい加減に答えてよ」
「別に隠してるわけじゃないんだけどなぁ」
「なら、言ってよ」
「当ててみろよ」
「リィから聞きたいの」
「それじゃ俺がつまらんだろ」
 そう、リィは呆れて見せ、サイファの頬を摘まんだ。
「もう、痛いでしょ」
「嘘つけ」
「なにが」
「痛いわけないだろ。俺がお前を痛い目に合わせるか。うん?」
「……あわせるじゃない」
「いつ?」
 問うてからリィは後悔する。聞かなければ良かった。それほどサイファは哀しげな顔をした。
「ごめんな。一人にして」
「そんなこと、言ってない」
「言ってなくてもいいの。俺が悪かったと思ってるんだから」
「……うん」
 擦り寄ってくる神人の子。愛おしくてならない。彼を傷つけたくないから、一人にした。一人にして、寂しがらせた。どちらがよりよい手段だったのか、リィにはわからない。
「サイファ」
「なに」
「一緒に朝ごはんにしよう、な?」
 言えば珍しく素直にうなずいた。いつもならば一言くらい、要らないと言うのに。それほど寂しかったのかと思えばリィの胸は痛んでならなかった。
「起きる」
 誰に言うともなく言って、サイファはリィの腕から抜け出した。ベッドから降りれば、寒かった。
「あ……」
 サイファは窓の外を見やる。
「お。降ってきたな」
 サイファの視線をリィも追う。外は雪だった。
「寒いだろ。暖炉に火をいれないとな」
「そんなに寒くないもの」
「俺が寒いんだって」
 笑って寝台を降りたリィをサイファは見つめる。すぐに彼は居間へと行き、魔法の気配がした。大急ぎで火を熾しているのだろう。
「無精して、魔法使って」
 くすりと笑い、サイファはそのまま口許を押さえた。寒くないはずだった。人間ほど自然に左右されないはずの体だった。それなのに不思議と寝台から出たときには信じられないほど、寒さを感じた。
「変なの」
 それだけでサイファは忘れてしまった。なぜかを考えることもせず。
「サイファ、早くこいよ!」
「いま行く」
 寒くはなかったけれど、火は恋しかった。サイファはリィの元へと駆け出していてた。


 満足そのもの、といった体でリィが溜息をついている。久しぶりにリィと取る食事はサイファにも旨みを思い出させてくれた。
「お前も食べるか?」
 まだ果実を齧ったまま、リィはサイファに問う。
「酸っぱいから嫌」
 言えばリィが唇だけで笑う。
「なに」
「子供だな、と思ってな」
「あなたより年は上」
 言うだけ無駄なことをサイファは言う。やはりリィは意に介さずにやりとした。
「そう言う問題じゃないんだな」
 自分の言葉におかしくなったのか、仰け反って笑い出した。まったくおかしくてならなかった。サイファがなぜ自分が笑うのかわからないだろうことを考えれば、なおおかしい。
 そしてわずかに哀しくもある。けれどリィは少しもそんなことは思っていないと言いたげに大笑いをし、果汁に濡れた手でサイファの頭をかき回した。嫌がるのを承知の上で。
「リィ! 嫌だって言ってるじゃない」
 案の定の怒り方にリィは内心で安堵する。ふいと席を立って、髪を拭きに行ってしまったサイファの後姿を目で追った。
「ねぇ、もういいでしょ」
 まだ濡れた髪を気にしなからサイファが戻ってきて言ったのはそんなことだった。
「なにがだ」
 わかっていて、リィは言う。口許が笑ってしまったのをサイファに見られた。彼が笑い返してきたから、きっとわざとだったのを知られてしまっただろう。
「海の側にな」
 だからリィはあっさりと言う。いままで焦らされてのが嘘のような口ぶりにサイファは拍子抜けし、いったい何を言い出したのかわからなかった。
「どういうこと?」
「お前、書庫をなんとかしろって言っただろ」
「だから、それがどうして海の……」
「わかったか?」
 口をつぐんで目を見開いたサイファにリィは莞爾とした。その顔が見たくて、今の今まで黙ってきたのだ。
「もしかして」
「引越しだ」
 驚くサイファの表情に目的を達したリィは嬉しげに笑う。そして首をかしげた。思ったより、サイファの顔が冴えなかったのだ。
「どうした」
「少し……寂しいなと思って」
「なにがだ」
「だって」
 言葉をとどめ、サイファは周りを見渡す。手狭で使い勝手が悪くて、本があふれてどうしようもない小屋。けれどここは二人で暮らした家だった。
「可愛い俺のサイファ。おいで」
 言葉にサイファはリィの側へと身を寄せる。ゆるく抱かれた体が快かった。
「可愛いね、サイファ」
「なにが」
「全部」
「もう。恥ずかしいからやめて」
「なにがだよ。いいだろ、別に。誰が聞いてるわけでもない」
「誰かが! 誰かの前でそんなこと言ったら、出て行くから、私」
 腕の中からリィを見上げてサイファは笑う。多少は本気だったがリィを一人にすることなど、考えてもいないというように。
「それは困るな、慎もう」
 言葉だけは殊勝に言う。サイファはどうにも信じがたいと思わざるをえなかった。だが、共に暮らして早数年。もっと経っているかもしれない。その間に顔を合わせた人間などいないに等しいことをサイファは思う。だから安心していいのかもしれない、と。
「引越し、するんだ?」
 決定された事実に感傷的になっているのかもしれない。サイファはそんな自分を不思議に思い、リィの腕に甘えた。
「するよ」
「いつ」
「ぐずぐずしてたら、いつまで経っても行かれないだろ。すぐにでも行くぞ」
「そんな。だって、本は」
「向こうから魔法通路を開く」
 実にあっさりと言ってのけた。見上げてくる視線の感嘆ぶりにリィは嬉しくなる。
「リィ、すごいね」
「お師匠様になにを言うか」
 笑い飛ばし、その実リィの機嫌は最高だった。サイファを驚かせたい、そのためだけに出先での魔法の研究を怠らなかった甲斐があるというもの。
「もっと驚かせることも喜ばせることもあるからな、待ってろよ」
 腕の中でうなずくサイファをリィは思い切り抱きしめ、彼の抗議の声が上がるまで離さなかった。




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