自分を行かせたくない、そう思っている神人の子を残していくのはリィだとてつらかった。だが、人間の多くいる場所に行けば、嫌な思いをすることも確かなのだ。 「可愛い俺のサイファ」 たいしたことはない、強いてそんな口調を取り繕ってリィは彼の名を呼ぶ。そっと髪を撫でれば子供のように首を振って嫌がった。 「サイファ。頼みがある」 「なに」 「欲しい物があるんだが、聞いてくれるか?」 珍しいリィの言い振りに、サイファは渋々と顔を上げた。瑠璃色の目がいつにない色味を帯びていた。 「リィ?」 不審げなサイファの声にリィは、はっと心づき笑顔を作る。 「なにが、欲しいの。私にできるの」 「んー。どうしようかな、なくてもいいんだが」 「もう、いいから早く言って」 「そう言うなって」 煮え切らないリィの態度に業を煮やしたサイファは体を振りほどき、リィの顔を真正面から見つめた。 「あのな……」 そんなサイファをリィは喜ぶ。自分から彼を離すことは、今日に限ってはできそうになかった。 「なに」 「お前の髪を一筋くれ」 「髪? なんで。いいけど、別に」 訝しげな顔をしてサイファは自分の髪を手に取った。人間の髪と見た目こそ大差はない。けれどサイファの髪はもつれることはなかったし、何よりずっと美しかった。 「ここから転移する。戻ってくるときの目標にするから。まぁ、お守りみたいなもんだな」 さらり、リィは言った。顔を上げたサイファの目が驚きに見開かれる。 「遠くに行くんじゃないの」 「そうだよ」 「ここから、できるの」 「できるよ。お師匠様を信じなさいって」 自信ありげに笑ったリィの腕にサイファは手をかける。一度、唇を噛みしめそれから再び髪を手に取った。 「サイファ?」 彼は細く髪を編んでいた。何も言わず、静かに。 「リィ、ナイフ貸して」 「なにするんだ」 「いいから、貸して」 「だめ」 「それなら、いいもの」 ふいと顔をそむけ、サイファは小屋の中へと戻ってしまう。そしてリィの前に戻ったときには手にナイフを持っていた。 「こら、やめなさい、いいから」 自分の言った戯れにも似た言葉にサイファが過敏に反応するとは思ってもいなかったリィは慌てて止める。 だがサイファは彼に向かって仄かに笑みを向けただけで、細く編んだ髪をぷつりと切り落とした。 「あぁ、もったいない……」 リィは思わず目を覆ってしまった。美しい黒髪が一房、無残に絶たれている様に心を痛める。 「髪なんて、伸びるもの」 サイファは気負わず言い放ち、リィの腕を取った。そして編んだ髪を彼の手首に巻きつける。結び目を指で押さえ、一言唱えた。 「……取れて失くさないように」 魔法で強化した結び目は、リィが自分の意思で取らない限り、取れてしまうことはないだろう。行かない自分の代わりに、それがずっと彼の側にあれば少しでも気が休まる、そんな気がした。 「失くすもんか」 結ばれたばかりの髪にリィは手を触れた。何よりも心強い守りの気がした。たとえ呪文を誤って転移の途中、虚空で崩壊するようなことになったとしても、自分の魂だけはサイファの元へと辿り着ける。そう思う。そしてリィは苦笑と共に首を振った。 「リィ?」 「ちゃんと帰ってくるよ」 「当たり前でしょう」 少しばかり不安げなサイファの髪に手を滑らせた。額にかかる髪を払い、白い額にそっとくちづける。 「リィ!」 気恥ずかしさに抗議するサイファを横目に、リィはすでに転移魔法の詠唱をはじめていた。 サイファがじっとそれを見ている。いつか自分も使えるようになりたいと。リィと共にどこにでも行かれるように。 そんな彼の気持ちを察したのだろう、リィはかすかに笑ってそして、大気に溶けた。 「リィ……」 何事もなく日々が過ぎていく。毎日の日課は、リィがいなくとも欠かさない。彼が置いて行った宿題とやらの勉強も怠らない。 それでもサイファは時間を持て余して仕方なかった。何をしていてもつい、振り返ってしまう。そこにリィの姿を捜してしまう。 「つまらないな」 呟いた声が想像以上に大きくて、狭い小屋に響くのが癇に障ってどうしようもなかった。 雨が降っていた。あの手間のかかる書庫は、降り始める前に対策を済ませている。それを思い出してサイファは一人笑う。 またと言うべきか案の定と言うべきか、書庫に入った途端に本が崩れはじめそうになった。サイファは慌てず、そっと魔力の掌でそれを支えた。 「信じられない!」 ふっと下を見たサイファは驚くべきものを見てしまった。床が濡れていた。 「リィ、なに考えてるの。本が傷む――」 文句を言いかけ、彼がここにいないことを思い出す。唇を噛みしめ、サイファは視線を宙にさまよわせた。 ゆっくりと呼吸を繰り返し、取るべき手段を考える。とりあえずなんとかするだけで良いはずだった。あとはリィが帰ってきた後のこと、そう思い定めてサイファは魔法を放つ。 単純な結界だった。リィがするほど巧みではない。だが雨程度ならばしのげるだろう。 「早くなんとかしないと、本が腐るんだから」 小屋のテーブルに頬杖をついて、サイファは思い出し笑いをしながら呟いた。 降り続く小雨の音を聞いているのは楽しかった。人間の耳には、彼の耳にはどう聞こえるのだろうかと思う。 サイファの耳には、天が奏でる音楽に聞こえた。きっとリィには聞こえないのだろうと思えば哀しい。これを聞いて欲しかった。素晴らしいと一緒になって笑って欲しかった。 「つまらないの」 言ってサイファは立ち上がる。無理なことを考えて、一人の寂しさを増やすことはないと思い定めて。 宿題だと渡された本を持って、サイファは自分の寝室へと下がろうと思った。本を読みながら音楽を聞くのも素敵だと思い直したのだ。 しかしサイファの足が止まった。自分の扉の前ではなく、彼の扉の前で。 「まだかな、リィ」 振り返って、いないことを確かめた。そんな自分をサイファは笑う。それから扉に手をかけて開け放つ。リィが出かけたままになっていた。 あとどれくらい、帰ってこないのだろうかと思う。日々を数えるのも飽きてしまった。ぼんやりと室内を見回し、サイファは溜息をついた。 「リィ」 寝台に腰を下ろす。窓から見えるのは雨の庭。草も木も、みな濡れそぼって濃い緑。葉に雨粒のあたる音、草から雫の落ちる音。聞いていると眠気が襲う。 サイファはかすかに照れたよう、笑ってリィの寝台へと潜り込む。 「冷たい……」 いつもは彼がいた。一人の寝台はこんなにも冷たいのだと知った。同じリィのベッドだというのに。枕に頬を押し当てる。リィの匂いがした。 目覚めれば、雨は上がっていた。サイファはリィの寝台に潜り込んだまま本を開く。居間で勉強するよりずっと集中できそうだった。 それからサイファは毎晩リィのベッドで眠った。いつ帰ってくるのだろうかと待ちわびながら。 そしてある日のこと。突然、体が揺らいだ。目を瞬いてサイファは驚く。最初、何が起こったのかわからなかった。 「あぁ、いけない」 指折り数えて理解した。あまりにもつまらなくて、食べること自体を忘れていた。リィがいればうるさいほどに勧めるから、そんなことはなかったのに。そう思えば寂しさが募る。 パンを焼く気にもなれず、菓子を作る気にもなれない。サイファは外に出た。このところ小屋に篭りきりだったせいだろう。大気が快かった。 「そんなことない」 そう思った自分に苦笑する。毎日ちゃんと外には出ている。魔法の練習は欠かしていない。帰ってきたリィに叱られるのは嫌だったから。 それなのになぜか久しぶりだという気がする。サイファは手を伸ばし、果実をもぎ取る。歯を当てれば強い甘みが広がった。 「やっぱり、おいしくない」 それを確認するのが嫌で食べなかったのだとサイファは思った。好きな果実も、リィがいないと少しもおいしいとは思えない。 ひとつを無理やりに食べ終え、サイファは再び小屋へと入ってしまった。良い天気だった。散歩でもすればどれほど心が晴れるかわからない、そんな好天なのに、サイファは薄暗い小屋へと戻った。 真夜中だった。静かに扉を開ける。誰もいない居間を見渡し、そっともうひとつの扉を開け、またひとつ別の物を。 小さな小さな魔法の明りを飛ばした。ベッドの上、丸く潜り込んだ影。リィが見つけたのは自分の寝台に眠るサイファだった。 「ただいま」 起こさないよう、囁いて髪を撫でた。一月をずいぶん越えてしまった。きっと怒っているだろう、寂しがっているだろうと思っていた。やはり、と思う。 「リィ……?」 感覚の鋭い神人の子は、リィが注意を払ったにもかかわらず起きてしまった。はっと体を起こしかけ、それから目の前に立つ男をじっと見る。 「リィ?」 「あぁ、ただいま」 返事はなかった。代わりに延びてきたのは細い腕。屈んだリィの首筋にまとわりついて離さない。 「可愛い俺のサイファ。遅くなったな」 「うん」 「ごめんな」 「嫌」 「寂しかったか」 「知らないもの」 そうサイファが答えるに至ってリィはついに笑い出す。抗議するよう背中を叩かれ、黙ってリィはサイファの横に入り込む。眠っていた神人の子の体は温かかった。 |