もうもうと埃が舞い上がった。サイファは口許を覆いながら咳き込む。書庫に入った途端、また本が崩れたのだ。 「もう、嫌」 大きく手を振って埃を払う。リィに言いつけられた本はすぐ見つかった。それからサイファは口許に笑みを刻む。 呪文を詠唱し、手を振る。本はあっという間に順序良く積み上がった。それに小さく歓声を上げ、埃を吸い込んでは咳をした。 「大丈夫か」 「うん。でも、いい加減になんとかして」 「まったくだ。本が傷んでかなわんな」 書庫に入るたびに崩れるほど、積みあがってしまった本を見てリィが溜息をつく。天井まで一杯になった本に目をやってリィは怯んだ。 「お前、よく崩すだけで済むな」 「なにが?」 「俺が入ったら、書庫ごと崩れるぞ」 リィの言葉にサイファは笑う。神人の子の、軽い身のこなしが書庫の内部での移動を可能にしている。リィと違う自分がどこか誇らしく、なぜか少しばかり寂しいサイファだった。 「だから、なんとかして。もうひとつ建てる?」 「いや……」 サイファの問いかけにリィは言い淀んだ。サイファは書庫から出、リィの側に立つ。彼はそんなサイファを促して明るい陽だまりに立った。 「リィ?」 瑠璃色の目を覗き込む。何かを言いかけて止まってしまったまま、彼はまだためらっていた。 「どうしたの」 そっと腕に手をかける。はっと気づいたよう、リィが慌てて笑みを作って見せた。 「リィ。どこか、変」 「そうだな、ちょっと考え事」 「書庫のことで? 変なリィ」 首をかしげてサイファは笑う。そんな訳はないと知っていて言った言葉にリィが苦笑する。ほっとサイファは息をついた。 「まぁ、違うわけでもないんだが」 「そうなの?」 「あぁ。……あのな」 「うん」 「ちょっと、留守にする」 言った途端、サイファの顔が曇った。非難するよう、視線が突き刺さる。それを嬉しく思うリィだった。 「帰ってきたばかりじゃない」 「長くなりそうだから一度帰ってきたんだ」 「そんなこと、言わなかった」 「言ってる暇があったかよ」 「なかったけど。どうして? どこに行くの。私は一緒じゃだめなの」 まるですがりつくような目をサイファはした。リィには腕に触れているサイファの手が、熱いほどに感じられる。 それほどまでに離れたくないと言う気持ちは嬉しかった。それは反面、昨夜なにをされたのか完全に理解していないと言う証でもあった。 リィは自分の感情を面に現すことも、心に見せることもせずおかしげに笑って見せた。 「可愛い俺のサイファ。そんなに寂しいか?」 「いいでしょう、別に」 ぷい、と横を向いたサイファの頭を乱暴にかき回し、嫌がる彼の頬を摘まんでリィは上っ面だけで笑い転げた。 「連れて行ってもいいけどな。人間が一杯いるぞ」 「嫌」 「だろ?」 「どうして、そんなとこに行くの」 「ちょっとお師匠様の御用」 「茶化さないで、リィ」 「いいだろ。内緒だ。まだな」 「酷い」 「誰がだ? こんなにお前を可愛がってるってのに」 「だって、ずるいじゃない」 言ってサイファは目をそらす。何か驚かせよう喜ばせようと計画していることはわかる。けれどやはり、寂しかった。 一人は嫌だった。が、リィと共にであっても人間のたくさんいる所には行きたくなかった。 サイファは自分を地上の生き物だと思っている。人間と同じように。けれど人間はそうは思わない。父なる種族と同じよう、神人の子もまた神々に属するのだと思い込む。 崇拝されるのは、煩わしかった。何が出来るわけでもない、ただ寿命を持たないだけの地上の生き物。そんなもののどこが良いのか、サイファにはわからなかった。 自己を否定する気はまったくなかったけれど、崇め奉られるほど高等な生き物だとも思っていない。それがなぜ人間にわからないのだろうかと思う。 「ほんの一月くらいだ。待っててくれよ」 「リィ」 「なんだ」 「あなたは……平気なの」 サイファは口ごもる。そして言い換えた。リィはそれを楽しげに見ていた。彼が何を言いかけ、そしてやめたのか、リィには掌を指すように言い当てることができる。 「寂しくないのかって?」 あえて問いかければ、声に笑いが含まれる。サイファはリィを睨み、そしてふっと目を伏せた。 「そんなこと、言ってないもの」 「不思議だな」 「なにが?」 「俺にはそう聞こえたんだけどなぁ。空耳かな、うん?」 「リィ。幾つなの、あなた」 「なにが? 年齢か?」 「そう」 「なにが言いたい?」 「耳が遠くなったのかと思ったの」 「お前なぁ……」 「なに」 「どうしてそういうことは知ってるんだよ。人間のことろくに知らんだろうが」 呆れて言えば、サイファがにやりと笑う。彼の目にあった憂いが少し薄れたのを見て取ったリィは心が軽くなるのを覚えた。 「だって、人間は年を取ると耳も聞こえなくなるし、目も見えなくなるんでしょう。皺々になって、背中も曲がったり」 「どこで覚えたんだ、そんなこと」 「本で読んだもの。あなたはいつそうなるの」 「まだずっと先! 若かないけどな年寄りでもねぇぞ」 「ふうん、そうなの」 「年寄り扱いしたら、しばらく水汲みさせるからな。自力で。魔法は禁止」 「酷い!」 「だったら慎め」 「はい、リィ」 殊勝げに言う声がわずかに笑いに震える。リィはそれを見て見ぬふりをし、わざとらしくサイファが嫌がるよう、頭を撫でた。 人間は老いると言うことを知っている神人の子ではあった。けれど実感として知りはしなかったし、おそらく親しい人間の死にも立ち会っていないのだろう、とリィは思う。 彼がはじめて知る、親しい者の死が自分なのかもしれない。それを思うだけでリィの心は激しく痛んだ。 その想像からリィは強いて目をそらす。そして手の中の本に目を移した。ぱらぱらとめくる。間違いのないことを確認し、サイファに手渡した。 「俺がいない間の宿題な」 「うん」 「ちゃんと勉強してろよ」 「はい、リィ」 「ちょっとは寂しくないだろうしな」 「知らない、そんなこと!」 赤くなって唇を引き結んだサイファをこれ以上苛めることはせず、リィは笑みを作った。そして今度はサイファの好むやり方で彼の髪を撫でる。 驚いたことにサイファはそのまま体を寄せてきた。以前からそうであったかもしれない。けれどわずかばかりどこかが違う。リィにはそれを確かに示すことが出来なかった。 「サイファ?」 問いかけたはずの声は言葉にならなかった。心の中で呟いただけ。けれど返事はあった。知らず彼の精神に指を伸ばしていた。 「早く帰ってきて」 囁きほどの小さな声。心の声はそれさえも大きく響く。真実の響きを伴って。 「わかってる」 「本当?」 「嘘ついてるか? 俺が。探ってみればいい、できるだろ?」 「できない」 「どうして」 あっさりとサイファが言ったのがリィは不思議だった。本質的に人間である自分よりサイファは遥かに魔法適正がある。精神を探りまわすことなど造作もないと思っていた。若さゆえに自分が築いた障壁に気づくことはないだろうと願いながら。 けれどサイファは否定した。そして顔を上げ、精神の接触を断って言う。 「あなたと私は違うもの。私は細かいことが苦手なの。あなたみたいに上手にできない。いつかはできるようになりたいけど、今はあなたを壊してしまうから」 婉曲な言葉だった。心で言ったならば、もっとずっと直接的な言葉だっただろう。そう思えばリィは苦笑するしかない。 サイファが言ったのは、正に種族の差だった。神人の子の精神の強靭さに、人間の淡い精神は耐え抜けない。一瞬の過ちはすなわち廃人だった。 それでサイファの接触が、いつもおずおずとして不器用な、そして怯えた触れ方だったのがわかる。彼としてはそれが精一杯だったのだとようやくにしてリィは知った。 「嘘はついてないよ、信じな」 だから、リィは言葉で言うしかない。サイファはそれを信じるしかない。ほんの少し、哀しそうな顔をしてからサイファは笑った。 「信じる」 そう言ったサイファの体を抱きしめる。苦しそうにサイファは身じろぎ、腕の中からリィを見上げては瑠璃色の目を見つめる。 「いつ行くの」 「名残惜しんでるといつまで経っても行かれないからな。すぐにでも行く」 「そう」 目を伏せ、サイファはリィの胸に顔を埋める。そうしていれば、ずっとここにいてくれるのではないかとでも言うように。 |