リィは心を見せてくれた。嘘など少しもついていなかった。自分を恐れても疎んじてもいなかった。それなのにサイファの震えはまだ止まらない。
「可愛いサイファ、まだ怖いか」
 リィの声にサイファはうなずく。何が怖いのか、もう自分でもわからなかった。
 ゆっくりと、リィの精神の触手が伸びてくる。サイファは受け入れた。心の表面を撫でるようにしていたそれがサイファのそれと絡み合う。
「俺を信じなさい」
 かすかに笑いを含んだ声がした。サイファはそれを耳で聞いたのか、心で聞いたのか区別がつかない。全身を、心の中までもリィのぬくもりに満たされる。
「可愛い俺のサイファ」
「嫌」
「なにが?」
「……恥ずかしい」
「なにが?」
 笑いを滲ませてリィは問うた。サイファには、何が恥ずかしいのかなど、わかっていない。繋がった精神が、それに確信を与えている。
 案の定、サイファは黙った。リィはそれを容認と取って、サイファの心の奥深くまで入り込む。人間のそれとはあまりにも違う精神。彼の身に流れる血の半分は人間のものだと言うのに。
「リィ」
 少しずつ、恐怖がほぐれてきたのだろう、寛いだ呼び声だった。なにを感じているのか知りたくてリィは彼の心を探る。見つけたのは幸福だけだった。
 指先を絡めるよう、精神の触手を絡め合わせる。応えるサイファのそれをリィは離さない。その甘美な感覚をリィは淫靡だと思った。サイファはただうっとりと漂った。
 リィはそれを知る。彼が気づかないよう巧妙に、心の障壁を厚くした。この純粋な心を持った神人の子に、見られたくないものが幾らでもある。
 苦く笑った。声が漏れたのだろうか、薄く目を開けたサイファが見上げてくる。
「どうした?」
 何もなかった、お前の気のせいだ、と言わんばかりにリィは問う。サイファは安堵して再び目を閉じた。
 絡んだ心の指先を、リィはほどく。と、すがりついてくる物。彼の心。
 箍が、外れた。
 ふっと、リィは笑みを浮かべ、ゆっくりとそれをほどいた。伝わってくる不満をリィはなだめ、サイファの心を静かに撫でた。
 かすかな溜息が胸元から聞こえた。リィは唇だけで笑う。すがりついてくるのは、心だけではなかった。背中に回された腕が、きつく服を掴んでいる。
 サイファは愛撫だと気づくだろうか。リィは思う。気づくはずはなかった。精神の指先で、掌でリィは彼の心に触れていた。
 サイファの吐息が熱かった。全身で、リィにしがみついている。リィは体で抱きとめ、心でも包み込み。
 そしてリィは欲望に耐えていた。それだけは、してはならない。最後の理性が言う。あるいは、神人の子であるサイファには、この方がずっと深く強い交流なのかもしれないことをどこかで察しつつも。
 それでも人間のリィは耐える。彼の肌にだけは触れない。心と心を絡み合わせ穏やかとは言いかねる快楽を感じあう。きっとサイファはそれを快楽だと知りはしないことをリィは悟っていた。
 そしてリィの思いのとおり、サイファは体が軽くなるのを覚えた。ただそれだけだった。もう恐怖はどこにもなかった。あるのはリィがここにいる幸福感だけ。
 不安から抜け出し、上り詰め、そしてとろりとサイファは酔った。それが体になされたそれより遥かに勝る快楽だったとは、ついに気づきもせず。うっとりと目を開けばそこにリィの瑠璃色の目。仄かに微笑っていた。
 なぜか気恥ずかしくてサイファは彼の胸に顔を埋めた。よりいっそう、彼に添う。力強く抱いてくれる彼の腕。リィの匂いがした。
「リィ……」
 何を言おうとしたのだろうか。言葉にならなかった。戸惑いさえもいまは心地良い。とろとろとリィに漂っていた。
「寝ちまえよ」
 サイファは答えず。リィに酔ったまま、眠っていた。
 眠れないリィは、腕の中の神人の子を感じていた。弛緩した体。何をされたのか、理解していないだろう。陵辱した気分だった。口の中が、苦い。
 まるでサイファの恐怖がリィに移ったようだった。正気に戻った今となっては、リィは彼が真相を知ることを恐れている。
 無垢な神人の子は、自分のしたことを許すまい。そう思えばたまらなかった。
 サイファの心はリィを受け入れた。だがリィは思う。もしも意味を理解していたならば、彼の選択はどんなものであっただろうか、と。
「まさかな」
 受け入れるとは、思えなかった。幼い彼が、意味を知るのはいつだろうか。そして知らせるのは誰だろうか。
 呟き声に身じろいだサイファの体をリィは抱き直し、目を閉じる。きっと、その誰かはサイファと抱きあった誰かだろう、と。そして自分ではないだろう、と。死すべき定めにある我が身をはじめてリィは呪った。


 嫌な夢を見た。目覚めは苦いものだった。リィは一人で寝台を抜け出す。サイファは口許に笑みを刻んでまだ眠っていた。
 リィは薄く笑って彼の髪を撫でる。起こさないよう、そっと。
 そしてしばしの後、リィは小屋の前にいた。リィの心とは裏腹の、素晴らしい好天だった。澄んだ空気に淡い果実の香りが漂っている。リィはそれを摘んでは籠に入れていく。
 たいした量は取らなかった。二人分の朝食に。至高王いまします大陸は、豊かだった。馥郁たる香りを放つ果実も、空腹を満たす獣も、必要ならば幾らでもそこにあった。
 だから人間も神人の子も、必要以上には何物をも荒らさない。冬場でさえ、気をつけて探せば食料が手に入るというのに蓄えを作るのは、冷たい白い世界への名残の楽しみだった。
 いまはまだ夏。食べ物はふんだんにある。リィがするのはただ自分とサイファの好みの物を集めることだった。
「リィ」
 振り向けば、サイファが立っていた。小屋の戸口から、気恥ずかしげな顔をしてリィを見ている。自分の物と同じような色合い形のローブなのに、彼が身につけるとなぜああも美しく見えるのだろう、リィは思う。そして顔にも出さずただ微笑んだ。
「起きたか?」
「うん」
 言いながら、無意識にだろう、サイファがローブの胸元をかき合わせている。意味などわからなくとも昨夜のことは彼に何らかの影響を与えたらしい。
 悪影響でなければいい、リィは願う。
「おいで。腹減っただろう?」
「あなたほど、食べ物は要らないって言ってるでしょう」
「付き合うのが礼儀だって、言ってるだろう?」
 いつものやり取りだった。リィは彼から隠した心の中で安堵する。サイファが笑って駆け寄ってくるに至って、それは深いものに変わった。
「お茶、淹れてくる」
「いい」
「どうして」
「ちょっと手抜き」
「なに?」
 サイファが問う間もなく、リィが手を閃かせた。詠唱が聞こえなかったサイファは目を見はる。小屋の中からコップが飛び出してきてはリィの持つ籠に収まった。と、思う間もなく次にミルク缶が飛んでくる。
「リィ!」
「なんだ」
「危ないじゃない」
 頭上を掠めた缶にサイファは憤る。決してそれが自分にあたることはないと知っていてリィに言って見せるのは、サイファの甘えだった。
 だからリィは取り合わない。笑っていなすだけだった。そうしていればサイファは存分に甘えて見せるのだから。
「ほら」
 コップを渡し、ミルクを注ぐ。サイファはおずおずとそれを口に運んだ。
「ミルクだね」
「なんだと思ったんだよ」
「だって、手抜きって言うから」
「手間を省いただけだ。物は本物」
 呆れてリィは笑い、サイファの目を覗く。もういつもの彼だった。昨夜の名残を引きずってるのは自分だけか、思えばわずかに苦いものがこみ上げてはくるけれど、サイファが笑っているならば、それでいいとばかりにリィはすべてを飲み込んだ。
 単純な朝食だった。旺盛な食欲を見せるリィをサイファは笑う。
「どうしてそんなに食べるの」
 そう言って。いつもの質問ではあったけれど、今朝ばかりは答えが違う。が、リィはいつもどおりに答えるだけ。
「人間って言うのはそういう生き物でな」
 と。よもや昨夜のことで空腹だとは言えないし、また言うつもりもなかった。
 自分ひとり、先に食べ終えてしまったサイファはリィの隣で髪を弄んでいた。さばき、指を通す。風になびくたび髪は絹糸のように輝いた。
 横目でそれを見ているリィは、サイファが普段となんら変わらないのを確認する。今日は一日ずっと、確かめてばかりいそうだと苦笑しながら。
「リィ」
「うん?」
「あなたと私と。見ているものがずいぶん違うね」
 不意にサイファが言ったのは、そんなことだった。笑っているくせ、青い目の中にあるのは紛れもない苦悩。
「そうだな」
 リィはうなずき、サイファの手を取る。サイファは仄かに微笑って目を伏せた。
 リィは思う。昨夜見たサイファの心の中を。こうして触れあえる。同じ物を食べ、同じ言葉で話している。
 けれど自分たちは異種族だと、痛切に感じた。サイファもまた感じていたとは。それを思えば心の中が温かい。
「お前が見ているのと同じ世界が見たい。そう思う」
「うん」
「無理だと、わかっちゃいるけどな」
「私も……あなたが見るように見えたらいいのに」
「無理だよ、可愛いサイファ」
「どうして」
「わかってるだろう?」
 見上げてくる目の痛切さにリィは打たれた。定命の身を恨んだ自分と同じほど、サイファが定められた時を持たない命を悲しんでいるとは。
 そっとリィはサイファの心に指先を伸ばす。きつく掴まれた。溺れる子供のように。笑ってリィは手を伸ばしてはサイファの頭に置く。
「どこにも行かんよ、俺は」
 髪を撫でながら言ったリィの言葉は嘘だった。サイファは真実と取っただろう。リィだとて、そうであればいいと願う。けれど死すべき定めの身だった。サイファはいまだ理解してはいない。けれどいずれ遥か先であろうことを祈りはするけれど、リィは死ぬ。それを思えばつらくてならなかった。自分の思いよりも何よりも、この無垢な神人の子を残していかなければならないことが、つらかった。




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