リィはサイファの指先を捉える。手の中に握り込み、彼が不審を覚えるより先に離した。
「冷えてきた。戻るぞ」
 言ってリィは彼の頭に手を置いた。サイファはリィの笑みが嬉しくてならない。彼に褒められるのは、いつだって嬉しいことだった。
「リィ」
「なんだ」
「競争」
 言うだけ言ってサイファは泳ぎ出す。リィを待ちはしなかった。後ろから、リィの笑い声が聞こえてくる。あっという間に追いつかれた。
 抜かれないよう、泳ぎを早める。ちらり、こちらを見たリィはまだ余裕の顔をしていた。サイファはむきになって泳いだ。けれどリィは易々と彼を抜き、充分に力を残して岸辺に上がる。
「ほら」
 リィは不満げな表情を浮かべているサイファに手を差し伸べる。こんな些細な遊びに負けて悔しがる幼い神人の子が可愛らしくてならない。
 だからあえて手を差し伸べてみたくなるのだ。生まれてからの年月だけならば、遥かに彼のほうが長い。それでもリィは大人のふりをしたかった。彼を子供扱いしたかった。
「嫌」
 けれどサイファは手を掴まなかった。
「どうした?」
「ローブ。取って」
「なにをいまさら」
 笑ってリィは言うけれど、水を滴らせながら彼のローブを取り、自分も体を覆った。
 子供扱い、そう思ったはずなのに彼の見せる羞恥に胸が高鳴ってしまう。なにもない顔をして見せるのがどれほど大変なことか、リィはそっとうつむき苦笑する。
「ありがとう」
 岸に上がり、サイファは背を向けてローブをまとう。水中で戯れているのとは訳が違う。少なくとも、露な肌をこのような形で見られるのは恥ずかしかった。
 サイファは濡れた髪をさばく。ふと、手に花が触れる。リィの作った花飾りはまだ彼の髪にあった。サイファはそれを抜き取り、しばし眺めた。このまま枯らしてしまうのは嫌だった。
「どうした」
 サイファは振り向き、リィに向かって笑みを作る。そして花を泉に放した。ふわり、花がほどける。リィが魔法を解いたのが、感じられた。
 リィはサイファの横に歩み寄り、自分を飾っていたサイファの花飾りを同じよう、泉に放つ。リィがしたようサイファも魔法を解き、花が崩れるままにした。
「綺麗……」
 泉の流れに従って、二つの花は混じりあう。オレンジにクリームが溶けいる。サイファはうっとりとそれを眺めた。リィはそんな彼を黙って見つめた。
「戻るぞ」
 流れ流れて花はもう区別もつかない。泉一杯に広がるようにも思えるそれをいつまでも眺めていたそうなサイファの腕を引き、リィは踵を返す。
「うん」
 まだ見ていたかった。けれどリィがそれ以上を望まないならばサイファはそれに従うつもりだった。花よりも、リィを選ぶ。そうできる自分を嬉しいとも思いながら。
「可愛いサイファ、ご機嫌だな」
「直せって言ったの、あなたでしょう」
「言ったか?」
「言ったもの」
 抗議をするよう、サイファはリィの瑠璃色の目を覗き込む。が、そこに見たのはかすかなからかいの気配。
「リィ!」
「なんだ」
「あなた、わかっててしてるね?」
「なんのことだかなぁ。さっぱりだ。どうしたんだ。可愛いサイファ?」
 あからさまにとぼけるリィの背をサイファは叩き、それから彼の腕に自分のそれを絡め合わせた。
「どうした。寒いか?」
「平気。少し冷えたけど」
「もうちょっと早く出るんだったな」
「ねぇ、リィ」
「なんだ」
「私が冷えたくらいだもの。あなたは大丈夫なの」
「なにを言うか、お師匠様に向かって」
 リィは笑い声を上げた。不思議そうに見てくるサイファに向かってリィは精神の触手を伸ばす。神人の子並みにとは行かないけれど、リィはさほど温度に左右されなかった。そしてそれが魔術師と言うことなのだ、それをサイファに言葉を使わず伝えた。
「ふうん、良かった」
 けれど言ったサイファはまだ不思議そうだった。わずかに首をかしげているのは、なぜ言葉を使わなかったのか納得が行かないのだろうとリィは思う。
 リィはただ、そうしたかっただけだった。精神の接触を彼が許すのはリィにとっての歓びだった。その意味を彼が知らないとしても。


 冷えた体は充分に温まっていた。リィはもう眠っている。サイファは居間に一人。眠れなかった。暖炉の前、寒くもないのに震えていた。
 理解できない恐怖かもしれない。サイファは思う。あれほど強力な護身呪をリィは使った、つまりそれだけあれはリィにとって邪悪を意味するものだったはずだ。
 だが、サイファは現れた悪魔を見て、邪悪だとは感じなかった。あの場にあったのは、単純にして強力な力。神人の子にとって、魔力は善悪をつけるものではなかった。
 強いて言うならば、あれは混沌だった。そして神人は秩序。どちらが善でも悪でもない。
 サイファは神人の子であった。神人が人間との間に儲けた子供。ある意味でそれは混沌にこそより近い。少なくとも、神人よりは。
 そしてサイファが悪魔に感じたのは、淡い親和。神人に持つのとさして変わらぬもの、あるいはあの悪魔とのほうにより近いものを覚えたような気もする。少なくとも、邪悪であるとはまったく感じなかった。
 それが、恐ろしかった。自分はあのリィが邪悪だと断じるものに近いのか。そう思うだけで体に震えが走る。
 暖炉の前、膝を抱えてサイファは自分の体を抱いた。震えは去らなかった。リィがこれを知ったならば、何と言うだろうか。膝に埋めた顔から小さな音が聞こえる。歯の根が合わなかった。
 悪魔召喚の際、サイファが見せた恐慌の原因はそれだった。決して悪魔を恐怖したわけではなかった。リィがそれを誤解したことから、サイファは言いだせなくなってしまったのだ。だから、余計に恐ろしかった。
 リィが自分を邪悪と感じたならば。もうこうして教えを受けることもないだろう。たまらなく寂しかった。一人きりで生きてきて、そして一人で生きていくのが常の神人の子。
 しかしサイファは人の温かさを知った。いまここで放り出されたならば、どうやって生きていくのかわからない。リィに出逢う前は、そうしてきたのに。
 たった数年。神人の子にとっては瞬きよりもまだ短い時間。それなのにどうやって自分が生きていたのか、サイファには思い出すことが出来なかった。
 何もかもがただ、怖かった。一人で震えているのも、ここに座っているのも。
「サイファ」
 突然、リィの声がした。驚きに振り返る。寝室の扉が開いていた。彼はそこにはいない。ほっと息をついてサイファはまた膝に顔を埋めた。
「可愛いサイファ、おいで」
「嫌」
「いいから、おいで」
「放っておいて、平気」
「いいから。来なさい」
 投げやりなサイファの声に、リィの口調が厳しくなる。サイファはよろめくよう、立ち上がり、寝室の戸口に立つ。
「なに」
 リィは寝台に横たわっていた。眠っていたのだろう、どこか茫洋とした顔つきだった。
「なにがそんなに怖い? うん? おいで」
「怖くない」
「嘘つけ。俺が指先引っ掛けてるのも気づかなかったくせに」
「え……」
 にやり笑ったリィに、サイファは慌てて心を探った。確かにそこにリィの精神の指先がある。まるで気づいていなかった。そのことに呆然とする。それでは、彼は知ってしまったのだろうか。青ざめてリィを見つめたサイファに、彼は笑い、寝台の上掛けをめくって見せた。
「おいで」
 ぽんぽんとシーツを叩く。何を考えたわけでもなく、サイファは彼に従った。熱いほどのぬくもりのあるそこに潜り込む。体にまわされたリィの腕はもっと温かかった。
「ほら、震えてるじゃねぇか。何が怖くない、だ。うん?」
「リィ……」
 サイファは彼を呼び、言葉を探す。言うべきものが見つからなかった。目を閉じ、リィの精神の指先を捉えた。接触を強くする。それからゆるり、心を開放した。いっそ、見てしまえばいいのだと。
 リィは知る。サイファが何を恐れていたのかを。心の中で笑った。彼にも届くよう、明るく。
「リィ、なにを」
 サイファは言った。言葉ではなく、心で。
「馬鹿なことを考えてるからだ。俺がお前を放り出す? ありえない」
 リィも答えた、精神で。嘘のつけない接触にサイファはそれを信じるよりないだろう。戸惑う気配が伝わってくる。
「どうして」
「可愛い俺のサイファ。お前は俺を捨てるか?」
「そんなことない」
「ならどうして俺を信じられん?」
「私……」
「もうちょっとちゃんと教えてからにするべきだった。悪魔召喚は形式が大事。俺が邪悪だと思ってるわけじゃない。そういうものだから、そうしただけだ。怖がらせたな」
 会話は、一瞬だった。精神の中でなされるそれは、言葉を使った会話よりずっと早く、正確だった。疑問の余地も、間違える可能性もない。
「本当に?」
 リィのぬくもりの中、サイファは声を出す。紛れもない真実を精神は伝えてきたけれど、いまはリィの声が聞きたかった。
「本当だ」
 言ってリィは彼の髪を撫でた。しっとりと重たい黒髪が、手に馴染んでいる。無邪気な神人の子が、あとどれくらいこうしていてくれるのだろうかと思う。
 リィは嘘はついていなかった。サイファは開け広げに心を見せた。リィはそうしなかった。それだけの違いだった。心の中に障壁を設ける方法など、サイファはまだ知らなかった。必要もなかった。リィはまだ当分の間、それを教えたくない。そう思う卑怯な自分を自覚していた。




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