ふっと恥じらいを浮かべ、サイファは泳ぎだす。泉の中央へと向かい、深みに体を浸した。
「サイファ! 危ないぞ」
 言いながらリィは彼を追う。しかし口調が含んだ笑いに気づいたサイファは従うことなく、彼から逃れるよう、泳いだ。
「どこが?」
 するりとリィの横を抜け、水飛沫を上げた。思い切り水を浴びたリィが顔を顰めるのにサイファは笑う。
「まったく。……もう大丈夫なのか」
「平気」
 さらり、返しサイファは振り返ってはリィの側へと戻った。
「リィ?」
 視線に気づいたサイファが訝しんで問う。リィは慌てて何もない、と首を振る。
「嘘」
 言ってサイファはリィの腕を取った。なにをするつもりか、リィが思っているうちに腕は引かれ、そしてあっという間に水中だった。
「……こら!」
 うっかり飲み込んでしまった水を吐き出しながらリィは拳を振り上げる。サイファは器用に泳ぎながら笑っていた。
「まぁ。元気になったならそれでいいけどな」
「大丈夫だって、言ってるでしょう?」
「そうか?」
 言葉にうなずいたサイファだったが、リィの目には決してそうは見えなかった。まだかすかに青ざめた顔をしている。リィをこれ以上不安にさせないよう、幼い神人の子が必死に耐えているのが彼にはよくわかった。
「綺麗なもんだ。水精みたいだな」
 だからリィもあえて気づかないふりをした。サイファがそれを望むならばそれでいい。いつも手助けできる場所に自分はいるのだから、と。
「水精? なに、それは」
 何気なく言った言葉にサイファが反応した。思えば彼は水精を知らないのだ。そのことがリィには少しおかしい。
「お前、水を操ろうと思ったら、どうする?」
 すでに基礎は教えてあった。サイファならば易々と応用するだろう。リィはどのような形で表出するか、楽しみで仕方ない。
「こう……」
 サイファはわずかに眉を顰め集中しては真言葉を思い浮かべる。掲げた彼の手に従って泉の水が持ち上がった。高く低く、水柱はほとばしる。逆巻く水が滝となり、そして跳ね上がってはまた柱と戻る。
 再び詠唱。水柱は柔らかい矢となって、リィの胸を打っては弾けた。そしてリィを取り巻き、その銀髪を撫でるように掠め水の矢はまた柱になった。
「なるほどな」
 感に堪えない様子でリィがうなずく。それをサイファは不思議そうに見ていた。
「リィは、違うの」
「お前と俺とじゃ世界を認識する方法が違うんだよ」
「どうして」
 二人ともが口に出さずともわかっていること。けれどサイファは問うた。リィは笑みを浮かべて答えなかった。
「あなたは、どんな風に水を扱うの」
 する必要のなかった質問を誤魔化すよう、サイファはそれを尋ねる。今度はリィも答えた。
「いまはなぁ……ちょっとまずいんだがなぁ」
「なぜ」
「ま、見りゃわかる」
 リィは諦めて情けない顔をした。彼の唇から漏れる真言葉は先ほどのサイファの物と寸分違わない。けれど現れたものはまるで違った。
「リィ!」
 サイファが悲鳴を上げる。リィの呪文の支配下に置かれたのは紛れもなく水だった。だが、それは人の形を取っていた。
「どうして私なの!」
 言ってサイファはリィの胸を叩く。笑って逃れるリィの呪文は解けなかった。
「人間は擬人化して考えたほうが楽に維持できるんだ」
「だから、どうして私なのって聞いてるの」
 言ってサイファはじとり、リィが現した水精を見やる。どこから見ても彼そのものだった。それが透明であると言うことを除けば。ふわりと肩を覆う髪も美しい顔も、皆サイファだった。
「だから今はまずいって言っただろうが」
「どうして」
「お前が水精みたいに見えちまったんだから仕方ないだろ」
「なぜ」
「さっき泳いでたのが綺麗だったんだ」
「そうじゃないの、それが何で私になるの」
「お前な……。言葉は思考、考えたものに影響されんの。ちゃんと聞いてたか」
「聞いてたけど……」
 納得いかないと言いたげにサイファはリィを見つめる。
「だからこういうことになっちまったの。わかる? これでしばらく俺は水精を行使できんぞ」
「どうして?」
「あのな。誰かに見られてみろ。とっても恥ずかしいんだぞ」
「どこが?」
「人間は水精を綺麗だと思ってんだ。それがお前の姿だったりしてみろ……」
「嫌、絶対に嫌! 誰かの前で使ったりしないで!」
「だから恥ずかしいんだって、俺も」
 頭を抱えるリィをサイファは許そうとせず、腕を掲げて打ちかかる。リィは機敏によけながら、サイファを煽った。
「可愛いサイファ。そんな怖い顔してると火精もお前と同じ顔になるぞ」
「嫌!」
「だったら機嫌直せよ」
「ほんとに他で使わない? 誰にも見せない?」
「当たり前だ」
 嘘ではなかった。リィはサイファの無防備を取り出して固めたような姿をした水精を、誰の目に触れさせるつもりもない。
 普段、行使している水精の姿を取り戻すことが出来たあと、こっそり一人で楽しむつもりでは、いたが。実の所、軽やかに翔ける空精はとっくにサイファの姿を取ってしまっていたのだ。おかげで制御の方法はわかっている。
「信じるからね。リィ」
「お師匠様を信じないで誰を信じるんだ。可愛い俺のサイファ?」
 もっともらしく言ったリィの声にサイファは笑ってうなずいた。リィが言うことは本当だ、と。
「サイファ」
 リィが水精を解放した。と、別の詠唱。短い言葉に驚くサイファの髪に花が一輪。淡いクリームの色をした小指の先ほどの百合のようだった。
「リィ?」
「ほら、もっと」
 答えずリィはまた花を挿す。泉のほとりから、次々と花はサイファの元へと飛んできた。
「もう、リィ!」
 抗議しながらサイファは笑い、自分も同じよう詠唱する。遊びのような練習だった。突然始まるそれにサイファも慣れている。
 リィの銀髪に似合う花をサイファは探す。ふっと唇を緩めてサイファが選んだのは濃いオレンジの小花。魔法で編み上げ、花冠を作っては彼の頭上に乗せた。
「うん、上手」
「本当?」
「嘘つくか? じゃ、こんなのはどうだ」
 リィは小さな百合の形をした花をひとつにまとめた。そして作り上げたのは大きな百合の花。花弁の一枚ずつが花で構成されている。ふわり手元に飛んできたそれをサイファは憧れの目で見つめた。
「綺麗……」
「やってごらん」
「うん」
 オレンジの花を集める。形を思い浮かべる。魔法で繋ぐ。どれも難しいことではないはずなのに、リィのようにはできない。サイファの作った花は塊となって泉に落ちた。
「難しいか?」
「うん」
 悔しそうにうなずくサイファを、リィは愛しげに見つめる。難度が高いことは知っていた。繊細な花弁を壊さないよう扱うのはまだ彼には難しい、と。だがやらせてみたかった。集中することでいくらかでも先程の恐怖が薄れるならば。
「練習あるのみだな」
 言った途端、オレンジの花が再び集まる。小花は長い草の葉を芯に編み上がり、まるで複雑な首飾りのよう、リィの首にかかった。
「いまは、これだけ」
 サイファが息をついている。額に浮かんだのは集中の汗か。晴れやかに笑い、リィの花の首飾りを見た。
「上出来。よくやったよ」
 リィが広げた腕の中、サイファは喜んで飛びついた。肌が触れ合うのも気にかけず、サイファはリィの胸に額を押し付ける。
「でも、ずるいもの」
「なにがだ」
「だって、私は草を使ったから」
 真実そう思っているのかは疑わしい、リィは思う。喉の奥で歓喜の声を上げている無邪気な神人の子を思っては、リィは苦く笑う。
「それは工夫の内」
 褒められたいならば、そうしてやろう。事実、卑怯なことをしたわけではないのだから。触れているサイファの肌を、まとわりつく彼の髪を、努めて思考の隅へと追いやってリィは言う。
「お前が選んだ花は、少し小さすぎたしな」
「でも」
「なんだ」
「あの色が、あなたに一番似合うもの」
 不意に意識が遠のきかけた。リィは遠くを見やる。腕の中で恥らう彼を考えないで済むように。けれどそれとは別の場所でリィは笑ってサイファをからかっていた。
「おや。可愛いサイファ、ずいぶん可憐な選択をしたもんだな。俺が?」
「可憐? どこが!」
「酷いな、可愛い花じゃないか。うん?」
「花は可愛いけど。色が似合うと思ったの」
 突然伸びてきた手に驚くことしかできないリィは、見ているだけだった。サイファの手が短い銀髪を撫でている。
「ほら、似合うもの」
 確かめるよう、花冠の位置を直していた。見上げる目にあるのは単純にして強い憧れ。それ以外のものがあるかどうか、リィが確かめることはなかった。




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