サイファは背後からリィに抱かれていた。低い詠唱の声が聞こえている。禍々しいそれにサイファは身をすくめかけ、平静を保つ努力をする。リィに言われていた。
「取り乱さないように。危ないから」
 そう言われた訳がはじめてわかる。あらかじめ危険を回避するため、そして呪文を覚えるため、サイファの精神の触手はリィのそれと結び合っている。それがかすかな安心感を与えてくれた。
 リィの詠唱にしたがって、地面に文様が浮かび上がる。幼いとはいえ神人の子、サイファにはそれが何を意味するものか理解できた。心の中で呟く。
「護身の文様……」
 リィの声にならない同意が返ってくる。絶え間なく呪文を唱えながらリィは舌を巻く。やはり人間などは及びもつかないものを持っている、と。
 リィはそれかけた意識を呪文に戻し、最後の一節を唱えた。
 と。二人の眼前に現れたのは、言葉にできないおぞましいもの。リィは眉を顰めてそれに耐えた。悪魔がそこにいた。完全に、リィの支配下にある魔族に、二人を害することはできない。そう思っていたのが油断だったのかもしれない。
「嫌……!」
 悲鳴にもならない声がした。暴れる精神が、恐慌を伝えてくる。サイファのいつにない取り乱しようこそリィは恐れた。
「サイファ!」
 手の一振りで悪魔を元の世界へと追い払う。かすかに漂う硫黄の匂いを残し、不満の声を上げた悪魔は煙と消えた。
「サイファ、落ち着け」
 声もなく、震えていた。膝をつきそうになる体を支え、仰のかせれば、目の焦点があっていない。
「リィ……嫌……」
 うわごとのよう、呟く唇に指先を触れさせる。青い目に正気が戻る。
「黙ってなさい。いいね」
 うなずきながらまだ震える体をリィは抱き上げ、歩き出す。彼の歩みともに地面の文様は消え去った。
 リィもまた、口をつぐんだままだった。足は泉へと向かっている。予定の行動ではあったが、サイファが怯えたことだけが、予定外だった。
 きつく唇を引き結んだままのサイファを泉の側に下ろし、立たせる。体がふらついていた。それを片手で支え、リィはサイファのローブに手をかける。
 それにサイファが激しく抗った。乱れた編み髪が肩を打っている。リィはあえて厳しい表情を作り、サイファの抵抗を封じた。
 予定では、呪文を教えその後、彼自身にやらせるつもりだった。が、今となってはそれもできない。リィは唇を噛みながらサイファのローブを剥いだ。
 呆然とするサイファを横目にリィもまたローブを脱ぐ。サイファが抗うより先に手を引いて泉の中へと連れ込んだ。
 指先が震えていた。恐怖と、それ以上に羞恥だろうとリィは思う。が、このまま放置はできない。泉の深い場所に達したとき、ようやくリィは口を開く。
「力を抜きなさい」
 無理だとわかっている。それでも従わせなければならなかった。サイファの肩を押し、首の後ろに手を添える。
 強張ったまま、サイファの体は動かない。それに向かって何も恐ろしいことはない、そう笑みを見せた。決して、リィ自身が恐怖しているなど、彼に悟られてはならない。
「大丈夫だから」
 深呼吸するサイファの肩を再び押した。今度は素直に泉に体を浸す。首に添えた手は、まだサイファの震えを感じていたが、リィは迷うことなくサイファの体を支える。
「力を抜きなさい」
 再び言われた同じ言葉にサイファは目を閉じる。従おうと努力してはいた。が、恐ろしさに乱れきった精神はまだ体から力を抜く、と言う簡単なこともできずにいる。
 唇を噛む。リィの指が触れた。サイファは目を開け、戸惑った顔をし、はじめて唇を噛んでいたことを知る。深い呼吸を繰り返した。少しずつ、心が静かになっていく。
 開けていた目を閉じる。やっと、リィに従うことができた。少し薄れた恐怖より、そのことがサイファには嬉しかった。
 泉に浮かび上がった体を片手で支え、リィは内心でほっと息をつく。サイファが落ち着かなくては、果敢ない人間の身には何もできない。
 胸まで水に浸かったリィはサイファの体にそって手を動かす。触れられはしないかと体をすくめかけたサイファを無言でたしなめ、リィは続ける。
 淡い光が二人を覆う。サイファは温かい魔力に包まれたのを感じた。リィのそれはサイファにこよない安堵を与える。
「可愛いサイファ。受け入れなさい。怖くないから」
 ほんのわずか、たったそれだけがリィには障害になる。サイファは気づいてもいないだろう。拒んでいるつもりなどないはずだ。
 だが、神人の子の強固なまでの意思は、人間には例えようもない障害になる。そして知った、サイファは恥ずかしいだけなのだ、と。まだ結び合わせたままの精神がそれを伝えてくる。リィは苦笑し、それを感じたサイファがほんのりと頬を染めて目をそらした。
「恥ずかしいことはないから。いい子だから受け入れなさいって」
 茶化した口調に、まだ言葉を禁じられたままのサイファが唇で形作ったのは一言。
「だって」
 と。こんな場合だというのに、愛らしくてならなかった。リィは呪文を維持したままサイファの額に触れる。
「ちゃんとしておかないと、危ないんだからな」
 けれどあえて、そんなことを言った。危険を表せば、サイファは従う。リィの身を案じて。やはり、リィの思ったとおりサイファは一切の感情を封じ、魔法を受け入れる。リィの胸が痛んだことなど、知りもせず。
 リィは思いを振り払い、呪文を続行した。清浄な光に満たされ、サイファは驚きの声を上げそうになる。普段のリィの魔法とは違う、もっと鮮烈な感覚だった。
「いいよ」
 ふっと光が消え、リィの声を聞くまでどれほど時間が経っていたのだろう。サイファははっと、気づいては水の中に体を浸す。
「いまの、なに」
「浄化の呪文。わかってただろ」
「うん」
 尋ねはしたものの、心の中に流れ込んでくる真言葉は意味を誤りようもない。サイファが次には自分でできるよう、リィははっきりとそれをサイファの心に刻み付けていた。
「さっきのは……」
 言った途端、サイファが体を震わせる。リィは彼に手を伸ばしかけ、しかし止めた。肌に触れられるのをサイファは嫌がるだろう、と。
「悪魔召喚、まだお前には早かった。俺の過ちだったな、許せ」
 逸りすぎた。リィはようやくそれを理解していた。いかに魔法の適正が高いとは言え、否、だからこそ。彼は神人の子だった。相反する属性とも言える魔族との遭遇は、もっとしかるべき対策をした後であることが望ましかった。
「怖かった……」
 水中で思い出してしまったのだろう、顔を覆ったサイファをどうしてやることもできない自分をリィは嫌悪する。
「許せ、サイファ」
 その言葉にサイファが驚いたよう、顔を上げた。そして激しく首を振る。彼はリィを驚愕の渦に叩き込むことをした。
「……サイファ?」
 リィは戸惑う。肌を見られるだけでもあれほど抵抗したサイファが、腕の中にいる事実に。肌が触れ合っているのを、彼はなんと思っているのだろうか。
「リィは悪くない。私が未熟なだけ」
 言い募りながらサイファはリィの裸の胸に頬を寄せる。リィは鼓動が聞こえてしまうことを、恐れた。
「ちょっと背伸びしすぎたな、お互いに」
 努めてさりげない口調で言い、リィはサイファを引き剥がす。が、サイファはリィの行動を不思議そうに見る。
「嫌じゃないのか? 可愛いサイファ、恥ずかしいだろうに」
 わざとらしく、言った。悲鳴を上げて逃げればいいのだと。苦く笑う口許は、意地悪をしているようにしか、見えないだろう。
「驚いたけど、もう平気。リィだから」
 リィは水中に沈みそうになる。なんということを言うのか、この神人の子は。
「リィ?」
「いや……、ちょっと驚いただけだ」
「本当? ねぇ、リィ」
「なんだ」
「ああいうことするなら、先に言って」
「恥ずかしかっただろ、やっぱりな」
「違うの、そうじゃないの」
「なにが」
 リィの意識はただサイファの裸身に向いていた。他の何かを言っているなど、少しも浮かびはしなかったのだ。それに気づいていささか慌て、けれど不審を抱かせない程度にゆっくりと精神の触手を引き戻す。
「あなたは人間だから……」
 サイファは精神の接触が途切れたことに気づきもせず、言葉を濁した。
「あぁ、あれか」
 やっと、リィは納得する。人間にとって、するべきではないし、中々できるものでもないが、悪魔召喚はやってできない事ではない。
 だがサイファは違う。おそらく、リィには想像するしかないが無闇に恐ろしいものであったのだろう。
「わかった、ちゃんと教えてからにする」
 言ってサイファの頭に手を伸ばした。編んだ髪は、とっくにもつれてしまっていた。魔法を解き、草を外す。水中でサイファの黒髪がなびいた。
「あんまり驚かせないで」
「すまん」
「私を感心させようとしないで」
「うん? どういうことだ」
「あなたはリィでしょう。私をびっくりさせなくても、リィはリィだから」
 意味の周囲を巡り巡るような言葉。それはきっとサイファが理解できない何かを含んでいるせいなのだろう。
「可愛い俺のサイファ」
 リィは曖昧なサイファの言葉に笑みを浮かべてうなずく。彼がそれを理解する日に自分はいないだろうことは意識の外に追いやって。




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