ゆらり、揺れたサイファの体にリィが手を伸ばす。 「大丈夫か」 慌てて抱きしめた肩はまだ荒い息をついていた。 「うん、平気」 かろうじて言う言葉など、信用できない。リィは唇を噛む。 自分が悪かったのだ、とリィは知っていた。サイファは気づきもしていない。万が一、他者に下僕化の魔法をかけられたときのための対抗呪文を覚えるため、リィはサイファに下僕化の魔法をかけた。 目を見開いたまま硬直した。自分の意思で一切を制御することができないのは、恐ろしいだろうとリィも思う。本当ならば、意思さえも剥ぎ取ることができる。 さすがにそこまでする必要はない、とリィは身体の自由だけを奪った。リィの眼前にいるのは、身動ぎひとつままならないサイファ。 一瞬、理性が吹き飛びそうになった。彼の意思も剥ぎ取って、自分の人形にしそうになった。咄嗟に魔法を解く。それがいけなかったのだ。急激に解かれた魔法にサイファが眩暈を起こした。 「すまなかったな」 しがみつく小さな手に感じる罪悪感。リィはまともに彼の顔を見ることが出来なかった。 「平気。どうしたの、リィ」 不思議そうな声がする。自分の腕の中から。危うさに、腕を離そうとすればサイファのほうから抱きついてきた。 「つらいか」 「ううん」 「すまん」 「変なリィ。大丈夫って言ってるのに」 サイファが笑った。何も気づいていない。リィは隠れてほっと息をつく。背中に編んだ彼の髪を撫でれば手に心地良かった。 「まだ、早かったな」 「そんなことないもの」 「どうだか」 「本当に平気。もう、覚えたと思う」 「そうか?」 からかって、みたくなった。リィは腕を緩めてサイファの目を覗き込む。もう、平静でいられた。 「じゃ、試してみるか」 「どうやって」 問いかけるサイファにリィはちょうど草叢から顔を出した兎を指差す。サイファは心得てリィから離れ、少しの間目を閉じた。 リィが確認する間もなかった。兎はサイファの詠唱と共に完全に動きを止めた。 「よくできた」 サイファの頭に手を乗せれば、振り返って彼は笑みを浮かべる。それから首をかしげた。 「間違ってたら、直して」 言うだけ言ってサイファは再び真言葉を組み立てた。リィが驚く番だった。まだ、教えていない。いま下僕化の魔法をかけたばかりのサイファは、その対抗呪文を自ら考えて編み上げた。兎に放つ。怯えた目をして兎は元の草叢へと駈け戻った。 「たいしたもんだ」 「本当?」 「あぁ、よくできた。正解だ」 リィに褒められ、サイファは紛れもない喜びに顔を輝かせる。リィは不安だった。 「リィ?」 珍しく、それが顔に出たのだろう。サイファが不審げな顔をしてリィを覗き込んだ。 「いや……」 「言って」 「うん……。お前はすごいな、と思ってな。いつか俺なんぞいらなくなる。そう遠くないうちにな」 「なにを馬鹿なことを言ってるの」 「サイファ?」 青い目が、目の前で燃え上がっていた。リィは知らずサイファの頬に手を寄せる。 「あなたが必要じゃなくるなんて、ありえない」 「サイファ」 「私をどこにやるつもりなの、リィ」 「可愛いサイファ、ごめんな」 茶化した言葉でリィはサイファを抱きしめる。嫌がりはしない神人の子を、意味など知りもしない神人の子を。 自分の不安の源が、何に端を発しているのか彼が理解するのは何百年も後のことだろう。もしかしたら生涯、理解などしないかもしれない。そう思えば体の奥底が痛む。それでもリィは彼の穏やかな毎日を守ることを選ぶ。 「変なリィ」 腕の中から見上げてくる神人の子の目許が仄かに赤みを帯びている。リィはわずかに口許を緩め、珍しく露になった彼の羞恥を眺めていた。 「そうだな」 「リィ、なんか変。本当に」 「どこがだ」 「ねぇ、リィ。あなた、私に魔法かけていない?」 不本意そのものといったサイファの口調にリィは突然笑い出す。その彼の背中をサイファは遊びよりはいささか強く、叩いた。 「悪い。かけてなんかいないぞ」 「本当に?」 「だいたいお前に魔法なんかかかるか」 「いま、かけたじゃない」 「あれはお前が受け入れる気になってたからだ。たとえ俺でも神人の子をそう簡単に魔法で操れるもんか」 「ふうん。そうなの?」 「お師匠様としては認めたくないがな。お前が受け入れなきゃ、かからんよ」 「なんか、嫌」 そう言ってサイファはリィの胸に自分の頬を押し付ける。温かい胸の鼓動が速かった。まだ笑いの衝動が残っている、と感じたサイファはリィを見上げ唇を引き結んだ。 「試してみるか?」 「なにを」 「魔法。かけられてみればかかってないのがわかるぞ」 「どういう理論なの。でも、何をかけるつもりなのかは知りたい」 不機嫌を収めたサイファの目の中にあるのは、深い信頼。それのみ。リィは苦くならないよう、笑って答える。 「そうだな。魅了でもしてみるか?」 言った途端、サイファが飛び退った。リィはゆったりと彼を見る。すでにその頬に上った羞恥を見ていたから、怖いものなどなかった。一日のうちに何度も彼のそんな顔を見られるなど、幸運以上のものだと喜びつつ。 「なんてことを言うの、リィ!」 「怒るなよ」 「どうして怒らないでいられるの!」 「だって、お前、魔法かけられてると思ったんだろ」 「だから、なに」 「そもそも、なんの魔法がかかってると思ってたんだ。うん?」 「それは……」 言い淀んだサイファに向かい、リィはにたりと笑って見せた。まだ幼いまでに若い神人の子の胸の内など、お見通しだった。 「可愛い俺のサイファ。逆らえなくって変だと思ったんだろう?」 サイファは答えない。リィは追及をやめない。言葉は柔らかいまま。 「俺のことが大好きで、変だと思ったんだろう?」 「知らない」 「そうか、俺は嫌いか。サイファ?」 「どうして好きから嫌いになるの」 「じゃ、どっちだ。うん?」 「知ってるくせに! ずるい!」 真っ赤になって言い募る神人の子を、これ以上いたぶるつもりはなかった。リィは笑ってサイファを招き寄せ、彼の意思で自分の胸に抱きつくままにさせた。優しいぬくもりが痛いものだなど、サイファが知る必要はないのだ、リィは心に呟きそっと抱き返した。 「ご機嫌直せよ」 「知らない」 「可愛いサイファ」 「知らないもの」 「じゃ、今日はここまでかな。もうひとつついでに教えようかと思ってたのになぁ」 途端にサイファが勢いよく顔を上げた。おかげで頭がリィの顎に当たる。 「あ……、ごめんなさい」 衝撃に、目の前が白くなったリィが顎先を押さえて呻くのにサイファはおろおろと目を向ける。伸ばした指先でリィの顎を捉えた。 「お前……」 サイファの指先から生命力が流れ込んでくる。魔術師が不得意とする治癒魔法。リィも何かの弾みに一度教えたきりだった。彼が細かい傷を負うたびに必要もなくかけてはいたが、習得を確認したことはない魔法だった。 「痛い?」 懸念に、青い目を曇らせているサイファを見ているだけで痛みなど、消えてなくなる。それを言葉にすることなく、リィは微笑んで彼の手をどけた。 「大丈夫だ」 「本当?」 「さっきのお前が大丈夫なら、俺だって同じくらい平気だ」 「だって、私は痛くなかったもの」 言いながらまた触れようとする指先にリィは自分の指を絡めてしまう。触れられたくなくてしたことだったのに、かえって接触を強めてしまった、そうリィは後悔するけれどもう遅かった。 「お前がちゃんと治癒魔法覚えてたからな。平気だ、痛くないよ」 リィの自分よりも深く青い瑠璃色の目をサイファは覗く。その中に真実を見つけようとするかのように。 それにリィは微笑み返し、さりげなく指を解いた。リィの目の中、サイファは何を見たのだろうか。何を見たにしろ、サイファも笑みを浮かべリィを見つめ返す。 「ねぇ、次。何を教えてくれるの」 「ちょっと危ない物」 「どれくらい?」 「人間だったら生命の危険があるくらい」 さらりと言ったリィにサイファは目を見開く。期待に胸が震えた。恐ろしいよりも興味のほうがずっと大きい。それはおそらく、定まった命を持たない神人の子だからだろう。 「どんな?」 「まず、本当に危ないからな」 「うん」 「集中を欠かないように。お前はともかく、俺は死ぬぞ」 「はい、リィ」 彼の真剣な言葉にサイファもまた真摯にうなずく。それを見てリィは決心する。下僕化以上に早いだろう。まだ、半人前に過ぎない彼に教えるのは、早すぎる。けれど一度で下僕化を覚えた。対抗呪文を自分で編み上げた。ならば、無理ではないはずだ。 「おいで、平らな地面が必要だ」 言いつつリィはサイファがついてくるのを待たず、歩き出す。決心したはずなのにまだ、迷っていた。 |