サイファは暗い書庫の中に佇む。ぼんやりとしているのは嫌だった。きちんと積み上げられた本を再度確認し、正しいことを知る。
「いまなら」
 できるかもしれない。思いつきに顔をほころばせ、小屋へと戻る足取りは軽かった。
 明りをつける必要はない。けれど暗い所にいるのが嫌でサイファは魔法の明りを灯す。こんなに簡単にできるのに、他の事がうまくできない。
 それには理由があるはずだとリィは思った。そして物語をくれた。今、本を積むことができた。ならばこれもできるはず。
 サイファはいつもリィがしているよう、小麦の粉を用意する。それから他にも色々。ゆっくりとリィがしていたことを思い出し、そのとおりにする。
 そこまでは以前も試したことがあった。手順は覚えている。なぜ、失敗するのか。きっと、人間の言葉を心から理解していなかったから。
 リィはいつも不必要にはっきりと呪文を詠唱した。身振りも正確にサイファに見せていた。間違いなくサイファが身につけることができるように、と。
 サイファは用意したものを見る。人間の言葉で認識する。自らの内にある神人の言葉ではなく。そして真言葉を詠唱した。
「できたかもしれない」
 緊張に頬を紅潮させ、サイファはそれを手に取った。そこにあるのは一塊のパン種。時間を早められたそれは、すでに発酵の必要もなくふっくりと膨らんでいた。
 再び呪文。パン種はいくつかの塊に分かれ、成形され、順序良く並ぶ。サイファの手の一振りでそれは狐色に焼きあがったパンになった。
「できた……!」
 かすかな歓声を上げ、サイファはパンを手に取る。焦げすぎはしなかった。割ってみる。生焼けでもなかった。口に運ぶ。香りも良いそれはリィに負けないほど、良い味だった。
「……帰って、くるかな」
 自分の呟き声にサイファは驚く。視線は扉へと向かっていた。リィはまだ帰らない。
 人間だから、きっと腹をすかせて帰ってくるだろう。そうしたらこれを自慢してやるのだ。サイファはその光景を楽しみに想像する。
 リィの言うとおりだった、と。自分にもできるようになったと。いったいリィはなんと言って褒めてくれるだろう。
「リィ」
 そしてサイファは不安になる。彼は食事の用意をするのは自分が楽しいからだ、と言った。あるいは彼の楽しみを奪ってしまったのかもしれない。
 怒るだろうか。サイファは首を振る。リィはこのようなことでは怒らないはずだった。きっと、喜んでくれる。自分がまたひとつ、何かをすることが出来るようになったことを喜んでくれるはず。
 リィはまだ帰らない。夜もふけた。月は中天にかかり、間もなく西へと沈むだろう。リィは帰らない。
 サイファは眠りもやらず彼の帰りを待つ。神人の子である彼は、人間ほど眠りも必要ではなかった。幾晩か起きていても負担ではない。
 彼がここにいないことのほうがずっと、負担だった。一人きりの小屋は、冷たくて暗かった。明りを灯しても風を入れても、なお。
 月は沈み日は昇り。そしてリィはまだ帰らない。夕暮れを迎え、月の出を知り。けれどまだ帰らない。
「リィ」
 最後に呼んだのはいつだろう。サイファは一人、彼を待っていた。幾日経ったのか、よくわからなかった。
「神人の子だもの」
 呟きに苦さが混じる。時間の感覚も人間とは違う。一日一日を彼らのよう、区別することが苦手だった。夜明けから始まる一日を知ってはいる。それを数えるのが、苦手だった。
 風が、扉を叩く。何度リィが帰ってきたのだと思っては飛び出してしまっただろう。ちらり、視線を向けるだけでサイファは動かなかった。
 テーブルの上にはリィがいない間に作り上げた様々な物が乗っていた。パン、菓子、ジャム。いつもリィがしているのを見ていた物。
 彼と同じようにできた。サイファは思う。そのはずなのにサイファの舌には少しもおいしいとは思えなかったけれど。
 それは風の強い日だった。日課になっている掃除を済ませサイファはテーブルにつく。無論、魔法を使ってしたのだ。
 リィと出会ったころ、細かい作業を魔法でするのがこれほど大変だとは知らなかった。今は易々とできる。
「そうか」
 ふと思いついてサイファは思考を凝らす。唇に指先を当て、考えをまとめた。リィが帰ってきたら怒るかもしれない。そう思った。
 けれどサイファは唇を歪めて実行を決意してしまった。
「知らない、リィなんか」
 呟いた声にもサイファは耳を塞ぎ、魔法を編み上げる。維持し、確定させる。解き放ったとき、思ったよりずっと難しいことを知った。
 サイファは肩で息をつき、何度も深呼吸をしては整える。どこかに無理があるのだろう。このままではうまく働かない。掃除の手間をなくそうとしたけれど、いまの自分にはまだ無理だとわかっただけだった。
 風が扉を叩く。苛立たしげにサイファは見やり、わざとらしく視線をそむける。もう一度考えの中に没入しようとしたとき、扉が開いた。
「ただいま」
 リィの声だった。サイファは振り返り、彼の姿を認めた途端、何もかもがどうでも良くなる。自分で考えるよりずっと早く飛び出していた。
「リィ!」
 笑い顔を浮かべた彼が立っていた。両腕を広げて。その中に飛び込みサイファは彼の胸に頬を摺り寄せる。
「遅くなってすまなかった。こんなに時間がかかるとは思ってなくてな」
 サイファは無言で首を振る。けれどリィの胸を激しく叩いていた。
「可愛いサイファ。怒るか喜ぶか、どっちかにしろよ」
「帰ってこないかと思った」
「馬鹿だね。可愛いサイファ。俺がお前おいてどこに行く?」
「だって」
「思ったより、遅くなった。そう言っただろ」
「何にも言わないで行っちゃったもの」
「お前の機嫌が悪かったからだろ」
「書置きくらい」
「まぁ、そう拗ねるなよ。可愛い俺のサイファ。帰ってきたよ。ただいま」
「拗ねてなんかないもの!」
「そう言う態度を拗ねている、と言うんだ」
 笑うリィの声を聞いていた。いつの間にか自然にサイファの唇にも笑みが浮かんでいる。思い切り、リィの胸を叩いて離れた。
「おかえりなさい」
 微笑んで、サイファは言う。その言葉にリィが顔をほころばせてはサイファの頭を抱え込み、何度も彼の髪を撫でた。
「リィ」
「なんだ?」
「見て」
 振り向き様、テーブルの上を見せた。いままで目に留まっていなかったのだろう、リィの目が見開かれる。
「お前が?」
「そう」
「上手にできたみたいに見えるな」
「でしょう」
 幼い誇りを滲ませて言うサイファをリィは見つめ、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「実はすごく腹が減ってる」
「だと思った」
「そうか?」
「うん」
「早速、味見といこうかな」
 嬉々として言うリィを見ているのが嬉しかった。この数日の不在など、どうでも良くなってしまった。サイファはテーブルにつくリィの後姿に視線を向け、肩をすくめて茶を淹れた。
「はい、リィ」
「……ん」
「ねぇ。どこにいたの」
「……うん?」
「どこに行ってたの」
「……あぁ」
「リィ!」
 生返事に業を煮やしてサイファが詰め寄ればリィが苦く笑う。ようやくパンを置いて茶を飲んだ。
「実の所、寝てもいない」
「どういうこと」
「だから、いまはとりあえず食べて、それから眠らせてくれ」
「話してくれたらすぐにでもベッドに行かせてあげる」
「頼む、サイファ。ベッドが先」
「嫌」
「いい子だから、な?」
「悪い子でいい」
 馬鹿馬鹿しい言いあいが、楽しかった。不意にサイファはパンを手に取る。口にした。あれほどおいしくなかったパンが、いまはこんなにもおいしい。そのことに軽い驚きを覚えつつ、サイファはリィを見やった。
「なぁ、サイファ」
「なに」
 口調に混じる懇願に、二人ともが気づかないふりをしている。会話の駆け引きが楽しい。サイファが思っている以上に、リィはそれを喜んでいた。
「頼む。寝かせて。本当に今にも寝そうなんだぞ。このまま喋ってたらテーブルに突っ伏して寝ちまうぞ」
「知らない」
「そう言うなよ、な?」
「じゃ、先にこれだけ聞かせて」
「なんだ?」
 サイファはリィの背中に疲労を見て取っていた。この数年ではじめて見た重い疲労の影を案じてもいた。本気で意地悪をするつもりなどないのだ。リィもそれは感じているだろう。
「それ、おいしかった?」
 パンを指差す。それからリィが何気なく取っていた焼き菓子も。注意を払っているようには見えない指だったけれど、リィの目には見えた。かすかな緊張に震えていたことが。
「すごく旨かった。上手にできたな」
 ふわりとサイファの顔に笑みが広がっていく。何も言わず、ただ顔をほころばせただけ。
 リィにとってのかけがえのないもの。手を伸ばし頬に触れた。安心したよう、手に手を重ねる。この顔を見るためだけであっても帰ってきて良かった。リィはそう思う。彼を置いて去ることなど、考えにも浮かばないというのに。




モドル   ススム   トップへ