気持ち良さそうに髪を撫でられているサイファを促し、二人は小屋へと戻った。夜露が体を冷やす、リィはそう言って。けれどそれにさえサイファは笑った。
「リィ、心配しすぎ」
「そうか?」
「うん」
 が、そう言うサイファは決して不愉快そうではなかった。リィはそれに愛しげな目を向け、サイファを座らせては書き記していた物を見せる。
「なに?」
 覗き込もうとするのを手で止めた。
「お前が本をちゃんと積み上げられないのは、たぶん言葉を理解していないせいだと思う」
「喋れるのに」
「そう、人間の言葉をわかってはいる。使えてもいる。でも真言葉と同じようには理解していない」
 違うか、そう彼の目を見つめた。サイファは答えない。目を伏せ、一心に考えていた。そしてようやくうなずく。
「そうかもしれない」
「言葉を記号だと思っているから、うまく魔法を制御できないんだろうな。そこで、だ。読んでごらん、これ」
「なに?」
「物語り」
「どうして?」
「うーん。真言葉だったらな、直接に精神を繋ぐのが正確だがな。そもそも人間の言葉は正確性に欠ける」
 リィがそう言えば、かすかにサイファは唇を歪める。やはりそう思っていたのだな、とそれでリィは確認したのだった。
 サイファは神人の子だ。彼らは言葉を持って生まれる。人間のよう、幼いときに習い覚えるわけではないのだ。そしてその言葉は神人の使う言葉だった。
 神人の言葉、神聖言語は人間の言葉よりずっと正確で緻密だった。それを自らの言葉としているサイファにとって、人間の言葉はあまりにも不確実で曖昧だと感じることだろう。
「だからな、意味が正確じゃないもんを精神で伝えることはできないだろう?」
「うん、わかる」
「読んで、お前が心から理解するより他にない。頑張んなさい」
「はい、リィ」
 サイファは笑みを浮かべてリィを見る。学ぶことへの強い憧れとリィへの完全な信頼が目に表れていた。ふと、リィは不安になる。これほどの信頼を捧げられる価値が自分にあるのだろうか、と。
「読んで」
 それを振り払うよう、強いて笑顔を作ってリィは言う。
「声に出して?」
「そう」
 サイファの声に含まれたわずかばかりの不満にリィは顔をほころばせる。今度の笑みは本物だった。
「サイファの物語。ある日かわいい――」
「どうした?」
「……もう少し、何とかならなかったの?」
「なにがだ」
「恥ずかしい」
「どこがだ」
「だって……。ねぇリィ」
「うん?」
「あなた、どうして私を可愛いって言うの。恥ずかしくないの?」
「少しも」
「よく平気でそういうことが言えるね」
「嫌か?」
 リィはからかったわけではなかった。けれどサイファはそう感じた。唇をきつく結んで目を険しくさせる。その彼の頭に手を置いて、リィは目を覗き込む。
「嫌なら、やめるぞ?」
「……嫌じゃない」
「ならいいな?」
「うん。でも」
「なに」
「誰かの前で言わないで」
 見上げたサイファの目がわずかばかり潤んでいる。知り初めたばかりの、それは羞恥だろうか。リィは笑みを形作ったままうなずいてみせる。
「わかった」
「本当?」
 疑い深い声にリィは笑い声を上げる。それにやっと警戒を解いたサイファも表情を緩めおずおずと笑った。
「声に出すのが恥ずかしかったら、黙ってでもいいから。良く勉強しなさい」
「はい、リィ」
 柔らかく彼の髪を撫でれば、何もこだわりなどない嬉しげな声を上げる。リィはいつまでこのサイファのままでいるだろうか、そう思う。
「ま、明日からでいいけどな」
「どうして」
「明日、ちょっと留守にするから」
「どこに行くの」
「内緒」
「ずるい」
 機嫌よく笑っていたはずのサイファだったが、リィのはぐらかしを耳にした途端、またあらぬ方を向いてしまった。
 このところ、こうして自分に勉強や練習を言いつけて留守にすることが度々あった。サイファはどことなくそれが不快だったのだ。
 理由も言わずリィがどこかへ行く。なぜ、言えないのかと思う。問いただしても決して言いはしなかったし、まず彼に聞くこと自体が無駄だった。
「まぁ、そう言うなよ。可愛いサイファ」
 そう言う彼の言葉をサイファは聞いていなかった。顔をそむけたまま、リィの書いた物語を持ち立ち上がる。そして物も言わずに自分の部屋へと下がった。背後からリィの溜息が聞こえた、そんな気がした。


 翌朝遅くに目覚めたとき、やはりリィはすでにいなかった。わざとサイファはそうしたのだった。自分を置いて行く、とわかっているのに見送るのは嫌だった。
「リィ……」
 誰もいない狭い小屋の中、彼の寝室を覗く。きちんと調えられたベッドに人影はない。悔し紛れにシーツを叩き、サイファは居間へと足を向けた。
 テーブルの上には、ちゃんと朝食の用意がしてあった。サイファは溜息をつく。こういうことは本来、弟子の自分がするべきことで間違っても師匠たるリィがすることではないはずだ。
「いらないのに」
 かすかな呟きは自分で思うよりずっと子供のように響いた。それに驚き、サイファはテーブルにつく。しばらく、朝食を眺めていた。
 リィも同じ物を取ったのだろう。数日前のパンと、少し古くなったチーズ。茹でた卵に果物を乗せた菓子。このくらいならば自分にもできる。そうサイファは思う。リィのするように上手に菓子を焼くことはできなかったけれど、卵を茹でるくらいならばできる。菓子を切って出すことだってできる。
 それなのにリィはそれを自分でしてしまう。サイファがするのを嫌うのではなく、自分がするほうが楽しいから、そう言って。
 そして普段だったら、共に席につくのだ。神人の子であるサイファは人間であるリィよりずっと食事を必要とはしない。
「いらない」
 サイファは言って皿を向こうに押しやる。そして同じ動作で引きずり寄せる。細い指で、卵の殻をむき始めた。
「……おいしくない」
 茹で卵は、誰が作っても茹で卵であるはずなのに少しもおいしくなかった。飲み込みにくいそれを何とか食べ終え、パンとチーズも食べてしまう。やはりおいしくなかった。
「もう、何日か前だもの」
 リィがパンを焼いたのは。焼きたての、ほかほかと湯気を上げるパンを割ってまだ熱いそれにかぶりつくのは、人間ほど食事を必要としないサイファにとっても楽しみなことの一つだった。ことにリィのパンは。以前、他の人間の焼いたパンを食べたことはあったけれど、彼のほどおいしいとは思わなかった。
 果物の乗った焼き菓子に手を出してみる。まだかすかにぬくもりがあった。今朝焼いたのだろう。それを口にしてサイファは顔を顰める。好きな味なのに、ちっともおいしくなかった。
 諦めて立ち上がり、テーブルの上を片付けてしまう。渋々と昨夜の物語を持ってきては勉強を始めた。
 顔を上げるたび、目は扉へと引きつけられる。そのたびにサイファは嫌な顔をしてわざとらしく目を紙にと落とすのだった。
 自分のことが書いてあった。リィに出会ってからのこと、習い覚えたこと。失敗や成功や、様々なこと。リィらしい、サイファが恥ずかしくて目をそむけたくなるような言葉で書いてあった。
 しかしそれは自身の物語であった。そのせいなのだろう、サイファは人間の言葉を今までにはない方法で理解した。心の中に言葉が染みとおっていく。
 笑みを浮かべ、サイファは立ち上がる。扉を開け書庫へと向かおう、そう思って。そして開いた扉の向こうは夜の闇だった。リィはまだ帰らない。
「リィ」
 寂しい声がした。自分の声だとわかるまで、少しかかった。サイファは唇を引き結んで足を踏み出す。
「知らない、もう」
 これほど遅くなるならば、そう言ってから出かければいいものを。そう思ったけれど、もしかしたらリィは言いたかったのかもしれない、そうも思った。
 リィを見送らなかったのはサイファだった。けれどそのことにさえサイファは首を振る。食事の準備をしていくくらいならば、何か書置きくらいしていけばいい、と。
 書庫の扉を黙って開けた。神人の子の目は人間より鋭い。星明りがあれば、充分に見えた。魔法の明りを灯す手間もかけずサイファは中に入り込む。
 積み上げられている本を確認する。リィが並べたとおり、きちんと分類されていた。本に手を伸ばし、乱雑に崩す。
 サイファの手は、決して乱暴ではなかった。丁寧に本を扱っている。それは貴重なものだから、と言うわけではなくリィが大切にしているものだから。そのことに思い当たりサイファは夜の暗闇で顔を顰めた。
 充分に崩した、と確かめてサイファは深呼吸する。魔法の手順を確認する。慣れた手順だった。何度も練習したのだから。
 そして魔法を紡ぎ、解き放つ。本は浮かび上がり、そして積み上がる。元の場所へと。サイファは大きく息をつく、指先で本に触れた。
 一冊ずつ、題名を読んでいく。最後まで読み終えたサイファの顔に笑みが広がった。信じられない、と言いたげにもう一度、読む。間違ってはいなかった。
「リィ、できた!」
 振り返ったサイファの顔に、失望が浮かんだ。リィはどこにもいなかった。




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