神人の王が、至高王がまします世界は平和で安全だ。人間が争いさえしなければ、旅人が野宿しようとも、安眠を貪ることができる。
 しかしリィは不安を感じる。獣がいる。この若い神人の子が、その程度のことで煩わされるものではないことは知っている。
 魔法を覚える過程でたくさんのことを彼は学んだ。事実と知っていたものを追認したものもある。リィは物心ついたときから神人の子は死なないと、神人が永遠であるのと同じように知っていた。
 そして学んで事実と理解した。だから、この幼いまでの神人の子はリィがたとえ守ろうとしなくとも生きるだろう。獣の牙にかかっても、よほどのことがなければ死にはしないだろう。
 だから手を掲げたのはただの自己満足、と皮肉に彼は思う。守護の必要性も、理由もない。ただ自分がそうしたいだけだと彼は思う。
「リィ?」
 腕の中から柔らかい視線が見上げてくるのにリィは微笑み、そして掲げていた腕を下ろした。
「お前がやんな」
「なに」
「結界。張ってごらん。できるだろう?」
 神人の子のために張ろうとしていた結界だった。リィはそれを止めて彼自身にやらせることを選ぶ。いずれどこかで必要にならないとも限らない。慣れておいたほうがいい、と。そのようなことをサイファに言うことはなかったが。
「嫌」
「お前ねぇ」
 たった一言で拒絶するのにリィは呆れた。仮にも師匠の言うことなのだから聞け、と常日頃言っているにもかかわらずサイファが嫌がるには、何か理由があるのだろう、と思いはするのだが、それが何かかわからない。
「どうして」
 問われたサイファの視線が泳ぐ。辺りはもう夜の闇に包まれていた。サイファはリィの顔色をうかがい、そして人間の目には見えていないことを確認してほっと息をつく。
「サイファ」
 再び促され、渋々サイファは言うのだった。
「だって、あなたが作ったほうが綺麗だもの」
「そりゃ、まだお前は慣れてないからな」
「そうじゃなくて」
 説教の始まりそうな気配を感じたサイファが指先をリィの口許に触れさせ言葉を止める。リィはそれに少し体を引き、次いで小さな明りを灯した。
「リィの魔法の色合いが、好きなの」
 表情がさらされるのが恥ずかしいのだろう。小さな小さな明りであっても、神人の子の目にはしっかりと何もかもが見えているはずなのだから。
 それを思ってリィはかすかに笑った。
「リィ!」
 彼の表情を誤解したのだろう。サイファが抗議の声を上げ、真正面から見据えてくる。言葉の勢いにたじろいだふりをしてリィは軽く謝罪した。
「そりゃ、嬉しいがな。でも何事も練習。やんなさい」
「……はい」
「返事が悪いなぁ」
「はい」
 幾分、大きな声でけれど不満げにサイファは返事し、それにリィは頭に手を置くことでたしなめに代えた。
 何を思ったのだろう。サイファはそっと笑い、そして結界を作り上げる。リィの目には、未熟ながら美しい物に見えた。
「綺麗なもんだけどな」
「あなたのほうが綺麗だもの」
「どこが?」
 不思議そうにリィは言う。わかっているくせにそう言っているのだろう、とサイファは見上げて彼をいたずらに睨む。
「わからんって」
 子供じみた仕種にリィはサイファの頭を抱え込む。夜風に互いのぬくもりが心地良かった。サイファが腕の中で身じろぐ。離して欲しいのか、と腕を緩めれば、少しばかり伸び上がって首筋に頬を寄せてくる。それから笑ってリィの頬を叩いた。
「痛い」
「ん? 悪い」
「違う。ひげ、早く剃って」
「そう言われてもなぁ。帰るまで待てよ」
「じゃ、離れて」
「はいはい」
 我が儘な神人の子が愛おしくてならない。苦笑してリィはサイファを離し、改めて抱きなおせば、満足げな吐息が聞こえてきた。
「リィ」
「なんだ?」
「どうして違うの」
「なにがだよ」
「同じ結界なのに、私が作るのとあなたが作るのとでは、違うでしょう」
「あぁ、それか」
 リィとしても不思議に思わないわけではなかった。もちろん、魔法を習得し始めたばかりの頃は、だったが。同じ疑問をサイファが持ったのが嬉しかった。
「個性、だろうな」
「みんな違うの」
「隠さなきゃな」
「隠せるの」
「できるよ」
「私も?」
「いずれな」
「教えて」
「まだ、早い」
「ずるい」
 小さな呟きとも言える抗議にリィは笑う。好奇心旺盛な彼を導くことは楽しかった。はじめは人間が使えるよう、魔法の体系を確立させたいと思っていただけにしろ、いまは彼を一人前の魔術師にしたくてたまらない。
 どれほどのことを成し遂げるようになるのか、痛切に知りたいと思う。自分が死んだ後も生き続ける神人の子の行く末を見続けることができないと知りながら。
「なぁ、サイファ」
「なに」
「お前、どんな所に住みたい?」
「どこでもいい」
「もう少し考えてから言えよ」
「だってどこでも、どんな所でもいいもの」
「あのなぁ」
 リィの呆れ声にかぶさるよう、かすかな声が何かを言った。
「聞こえなかった。なんだって?」
「リィがいれば、どこでもいいって、言ったの」
 リィに寄りかかる自分の体温に、皺の寄ったローブをサイファは掴んでいた。ほんの少し、けれど強く。
「可愛いサイファ。俺はどこにも行かんよ」
「約束して」
「する」
 あまりにもあっさりと言ったせいだろうか。サイファは唇を引き結び、不満げだ。そんな彼の髪に指を滑らせ、リィは微笑む。
「一緒にいるよ」
「本当?」
「だから、どんな所に住みたいかって聞いてるんだろう? 違うか?」
「……うん」
 リィのからかうような声音を聞いて、ようやくサイファは安心する。何が不安なのか少しもわからない。こうやってここにリィはいるというのに、どうして突然に約束などしてもらったのかわからない。
 髪を撫でているリィの手を感じている。ゆったりと抱かれた体のぬくもりがここにある。サイファは頬を摺り寄せそれを確認し、やっと笑みを浮かべた。
「で、どんな所がいい?」
 リィが話を変えたがっていることを感じ、サイファは胸に頬を寄せたまま微笑う。
「リィは?」
 尋ね返したサイファの声に、リィが体の力を抜いた。サイファにわかるほどでは、なかったけれど。
「そうだなぁ」
 あえて明るい声を出し、リィは言う。実の所まるで何も考えていなかった。旅した場所を思う。サイファに出会う前、歩き回った土地を思い浮かべ首をひねる。
「あぁ、そうだな」
「なに」
「海の側がいい」
「どんな所?」
「お前、見たことないか?」
「あると思うけど。大陸中を歩いてるから。でもよくわからない」
 神人の子は、自己の意識が覚醒する前に旅をする。遊び歩くと言ったほうが正しいのだろうが、その旅を覚えている者もありいない者もある。サイファは後者らしい。
「じゃ、決まりだな。海の側にしよう。お前、きっと気に入る」
 リィの言葉に腕の中、サイファがうなずく。リィに彼の顔は見えなかったけれど、きっと嬉しそうな顔をしているのだろう。それだけはよくわかった。
「それで、どんな小……家にするの」
「いま小屋って言いかけただろ」
「家って言った」
「言いなおした、と言うんだ」
 笑ってリィが彼の頭を小突けば、仕返しのようサイファが背中を叩いてくる。
「よせよ、痛いだろ」
「だって」
「いいから。どんな家かって? お前、塔って見たことあるか」
「あるよ」
「神人の?」
「人間のも」
「じゃ、その人間のほう。ああいうのがいいな」
「どうして」
 サイファの声に混じるわずかばかりの不満をリィは聞き逃さなかった。魔法のかすかな明りの中でも青い彼の目を覗く。
「嫌いか?」
「醜悪だもの」
「うーん。ま、そうならないよう努力しよう」
「リィが好きなら、いいよ」
 諦めたのだろうか。サイファは言い上げていた視線を下ろしては再びリィの肩に頭を預ける。
「図書室があってな、呪文の練習ができる部屋もいるな」
「広い居間が欲しいな」
「どんな」
「寝椅子が欲しいの。いまは、置けないでしょう」
 初めて言った要求に、リィは嬉々として返事する。それから二人、いつか持つかもしれない塔の事を、二人の家とも言うべき住居のことを話していた。
 眠りの優しい手が下りてくるまで。会話が間遠になり、そしていつしか互いのぬくもりに包まれて二人は眠った。




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