甘い黄昏は夕闇に覆われた。空に薄く一番星が輝いている。それに目を留めたリィが指差した。
「綺麗だね」
「あれ、なんていうか知ってるか?」
「人間がなんて呼ぶかは知らない」
 予想通りの答えだったのだろう。サイファが見上げたリィは満足げな顔をしていた。
「神人の子はなんて呼ぶ?」
 けれどすぐそれを教えることなく、リィは言う。
「知ってるくせに」
 ぷい、と視線をそらしたサイファの頭をリィは笑って抱え込む。彼に言えば怒るだろうけれど、子供のような仕種が愛らしくてたまらない。たとえ自分より遥かに年齢だけは上だと知っていてもリィはそのように思うのだ。
「言えよ」
「離して」
「言ったらな」
「苦しいの」
「あぁ……」
 ようやくそれに思い当たり、リィは腕を緩めた。サイファはほっと息をつき、いたずら半分、睨みつける。それからかすかに目を和らげて言った。
「ミカエル」
「どういう意味だ?」
「知らない。リィは?」
 言葉の調子から、サイファは彼が知っているはずだ、と見当をつけて問う。やはりリィはうなずいて言葉を続けた。
「宵の光、と読んだ覚えがある」
「ふうん。どこで?」
「どこだったかな。なんかの本だ、神人のな」
「なら、わかる」
「どうしてだ?」
「だって、神人の言葉だもの」
「神人の?」
「と言うより、神人の言葉を人間の言葉に翻訳したって言ったほうがいいんだろうと思う。でも、元は神人の言葉だから」
「それでお前も知っているわけだ」
「そう。私たちはそうは発音しないけれど」
「どうする?」
「言っても、あなたには発音できない」
 そうだろうな、とリィがうなずく。どこかそれが寂しい。
「――と言うよ」
 だからサイファは言ってみる。やはり、リィは不思議そうな顔をするだけだった。リィの耳には、不可思議な音の連なりにしか聞こえない。そして再現することもできない。
「――」
 サイファは続けて何かを言った。同じようにわからない。かろうじて、違う言葉だとしか。
「なんて言った?」
「やっぱり、わからなかったね」
「そう思って言ったんだろ?」
「わかると、実は困る」
「どうして」
「私の名だもの」
「おい!」
 慌ててリィがサイファの口を塞いだ。いまさら遅いとわかってはいたが、そうせずにはいられなかった。
「もう、離して」
「あのな」
「なに」
「そういうことを軽々しく言うな」
「だって、発音できないでしょう」
「でもな」
「だから、いいの」
「よくない」
「あなたにしか、言わないもの」
「それでも!」
 執拗なまでに繰り返すリィの言葉が心地良かった。サイファは微笑み、うなずく。それを見てようやくリィが息をつき、そして本当にわかっているか、と問うようサイファの目を覗き込んだ。
「わかってる」
 サイファの言葉に、リィは彼の頭に手を置くことで返事に代えた。
 無防備だった。いかに発音できないからとは言え、神人の子がまさか人間相手に真の名を口にするとは思ってもみなかった。リィは動揺を彼に知られないよう、最善を尽くしている。
 けれど、その必要はなかった。サイファはあまりにも幼い。神人の子としてもいまだ若いのだ。まして、人間のことなど何も知りはしない。同族より、信用ならない、と聞かされているに過ぎないだろう。事実、それほど多くの人間を知る機会はなかった。
「本当に、だめだからな」
「うん」
「他の人間に……」
「言わない。同族にも言わないもの」
「同族だから、言わないんだろう?」
「それはそう」
 発音できれば、悪用できる。無論のことだった。だからサイファはあっさりうなずくのだ。魔法と言うものが普遍的に存在する世界において、自らの真の名を握られるのは生命を握られるに等しい。
 それを操ることができるのが、神人やその子供たちだけであっても。現に、リィはそれを人間のものとして確立しようとしている。だから、サイファの危うさが気にかかって仕方ない。
「あなたは、大丈夫だから」
「どうしてだ」
「信じてるから」
「こんなに短い付き合いでよくそういうことが平気で言えるよ、お前は」
 呆れて笑うリィの胸をサイファは叩く。彼自身、理解しているとは言えないのだった。理性で知るより遥かに深い場所でリィを信じている。ただそれしかわからない。そしてそれで充分だと思っている。
「寒くないか?」
 明らかに話題を変えようとしてリィが言う。サイファは彼の腕の中で微笑った。
「さっきも、言ったでしょう」
「まぁな」
 苦笑いの気配に見上げれば、リィが遠くを見ていた。同じほうを見よう、と視線を動かす。日は暮れて、夜空に星々が浮かんでいる。
「ねぇ、リィ」
「なんだ」
「人間はなんて言うの」
「なにが……あぁ、あの星のことか?」
「うん」
 サイファは夜空に散りばめられた数多くの星の中から、正確にそれを指差している。その目の確かさにリィはかすかな驚きを覚えた。そして神人の子の目のよさを思っては、彼にとっては当たり前のことなのだろうとも思う。
「普通は一番星、と言うけどな。まぁ明星とも言うな」
「明星?」
「そう」
「どうして」
「明るいからだろう」
「ふうん」
「なんだ?」
「つまらない」
「そう言うなよ」
 神人の子の、率直な言葉にリィが笑う。夜空に輝く最初の光。それを最も明るいと見做すのは人間の目だからだろうか。彼の目には、他の星も同じよう輝いているのだろうか。知りたいと思う。叶わないことではあったけれど。
「どうしたの?」
 喉の奥で笑ったリィにサイファは目を向け、怪訝な顔をする。笑みで感情を隠したリィはさらに笑いを広げ、サイファに目を向けた。
「たぶん、笑うだろうなと思ったら俺が笑えてきた」
「なんのこと」
「お前。朝、東の空に見える明るい星をなんて呼ぶ?」
「ルシフェル」
「どうしてだ」
「だから、知らない。神人の言葉で暁の光だって」
「なるほどな。美しい響きだ」
「人間は?」
「笑うなよ」
「努力はする」
 あまり信用ならない言葉にリィが笑えば、サイファも約束などどこ吹く風、と早くも笑い出す。それを片手で頭を抱えることでたしなめてリィは言う。
「やっぱりな、明星と呼ぶんだ」
「なにそれ。どうやって区別するの」
「宵の明星、明けの明星ってな」
「面倒じゃ、ないの」
「人間は面倒だと思ってこなかったみたいだな」
「私は面倒だと思う」
「まぁ俺もお前の言った名のほうが綺麗だとは思うがな」
「でも、どちらも人間の言葉だよ」
「それでも」
「私は……」
「どうした?」
「面倒だけど、綺麗だと思う。人間の言葉も」
 少しばかり口ごもったのは言葉を探すためだろうか。それとも照れたのか。そんなサイファをリィは愛しげに見やり、黙って目をそらした。
「リィ」
「なんだ」
「どんな小屋にするの」
「なんだ急に。さっきの話か」
「うん。気になる」
「興味がある、と言え」
 苦笑するリィにサイファはかすかに口許を緩めて言いなおす。それなのにリィが渋面を作ったのはなぜだろう、と思いながら。
「あのな、サイファ」
「なに」
「せっかく広げるんだから、小屋はないだろう?」
 そのことを気にしていたのか、とはたと気づいておかしくなった。どうやら自分は言葉を間違えたらしい。お師匠様の誇りとやらをまた傷つけてしまったのかもしれない。
 けれどリィがその程度のことで本気で怒るわけもなかった。万が一、リィ以外の人間が気安く触れることがあるならば、サイファは全力で抵抗するだろう。相手に怪我を負わせるとしても。それくらい、信頼しあっていると思っていた。
 ふと、それをリィはそれを知っているのだろうかと思う。おずおずと精神の手を伸ばしリィのそれに触れる。真言葉を修得する過程で覚えたそれは互いの心中を知るには最高の方法だった。
 怖がる子供のような精神の手をリィは感じて微笑む。そして引き寄せれば安堵の気配。サイファの不安を解消するよう、リィは彼の思いを肯定する。彼を誰よりも信じている、と。知り合ってからの時間など、何も問題ではないと思っていること。
 嘘のつけない精神の接触にサイファが微笑む。それに隠れて息をついたのはリィだった。サイファは腕の中、目を閉じて頭を預けるばかり。




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