この分ではまだしばらく笑っているだろう、とサイファは諦め書付を指示された場所にしまいにいく。戻ったとき、男はまだ荒い息をついていた。
「真の名を聞いてるわけじゃないんだから、いいでしょう」
「別に教えてやってもいいがな」
「真の名を? 馬鹿なことを」
「お前が俺をどうこうするとは思ってもいないさ」
「それでも嫌」
 男の言い分が嫌だった。そこまで信頼される覚えはない、サイファはそう思っている。男はそれをわかっていると言うよう、うなずき頬杖をついて微笑んだ。彼にしてもサイファに余計な負担を背負わせる気は毛頭なかった。
「そうだなぁ、リィとでも呼べよ」
「魔術師リィ……ウィザード・リィ?」
「そうそう。ウォーロックでもいいな」
 嬉々としていう男の口調を聞いている限り、いま考えたとしか思えない。呆れ半分サイファは笑う。気軽に呼べるほうがずっと良かった。いい加減な、どちらにしても魔術師を表す名詞でしかない名の方が気が楽でいい、と。
「うん、いいな。それ。ウィザード・リィ・ウォーロック」
 もっともらしげに男は言い、自分で自分の発言にうなずいている。両腕を組んでしかめ面をしているあたり、サイファはおかしくてならなかった。
「賢者にして戦争の封じ手? ずいぶん大きく出たね」
「いいだろ、自分で言う分には」
「そういうもの?」
「だって、他に誰か言ってくれるかよ」
 おそらく人間にしてはいい年をして、と言われる年齢なのだろう、サイファは思う。けれど彼は唇を尖らせて、そんなことを子供のように堂々と言う。
「じゃあ、リィ師と呼べばいいね」
「リィでいい」
「だって、私に教えてくれるんでしょう?」
 その言葉にからかいの意味を特に持たせたわけでもない。男もそうは取っていなかった。けれどサイファは少し、唇を歪めて笑っている。まだ若い神人の子。人間より遥かに年を重ねているとは言え、サイファは若い。その、人間から見た不協和に男は妙に惹きつけられる。
「あのな」
 言ってリィと名乗ることに決めた男は呆れ顔で笑った。
「なに」
「自分で言うのもなんだがな、お前の手を借りることになるんだぞ。たぶん、相当」
「だから?」
「冗談ならともかく、師匠と呼ばれるのはなぁ」
 そう言いながらもリィは満更でもないらしい、とサイファは思う。
「だからオシショウサマなんでしょう?」
 わざとらしいサイファの言葉にリィが顔を顰め、次いで笑い出す。
「そう呼びたいか?」
「別に」
「じゃあ、俺のいいように呼んでくれよ」
「うん」
「じゃ、リィな」
 嬉しげに言うリィの顔を見ていたら、それ以上口を出す気がなくなってしまった。サイファは首をかしげ、わずかにうなずく。
「はい」
 そして殊勝げに唇に笑みを刻んでそう返事をしたのだった。
「こら、からかうな」
 リィが大袈裟な顔を作って、その実サイファに確実に嘘だとわかる顔で怒って見せる。軽く振り上げた腕はサイファの頭に痛みを与えない拳を落とす。
 だからサイファも首をすくめて見せた。リィは笑って拳を掌に替え、サイファの髪を撫でていた。
「サイファ」
「はい」
「これ、しまっといて」
 名を呼ぶのが楽しくて仕方ない、とでも言うようリィはわざと呼ぶ。サイファは苦笑し、差し出された本を手に取った。
 ぱらり、開けて見る。やはり普通の、本だった。サイファは興味をなくし、それを書棚へと差し入れた。
 ふと思いついてリィを振り返る。サイファの後姿を見ていたリィが少し驚いたよう目を見開く。それに不思議そうな顔をし、サイファは口を開いた。
「これ、なんて書いてあるの」
 そう、今しまったばかりの本を指差すのに、今度はリィが不思議そうな顔をした。
「うん? 読めないのか」
「読めない」
「あぁ……人間の言葉は不自由なのか」
「話せるけど読めないし書けない」
 そう言ったサイファにリィは嬉しげな顔をし、自分の横へと彼を導く。黙って座ったサイファにリィは少し待っていろと手振りで言ってすぐに戻った。
「なに、それは」
「これか、練習に使えるようにな」
 リィが持ってきたのは平らに磨かれた石盤だった。白い粉を棒状に練った物も一緒に持ってきている。それから古い布も。
 首をかしげるサイファにリィは白い棒を持って石盤に何かを書いて見せた。そして布で拭う。書かれた物はきれいに消えた。
「こうやって使うんだ」
 それが自分の発明ででもあるよう、リィは誇る。サイファは少し自分より背の高い人間の顔を覗き込んでは笑みを浮かべる。
「神聖文字はわかるんだろう?」
「神聖文字?」
「あぁ……神人の文字のこと。人間はそう言うんだが」
「ふうん。そんな風には言わないな」
「なんて言うんだ?」
「別に。文字は文字だから」
「なるほどね」
 サイファの言うことはもっともだ、とリィはうなずく。神人がこの地上の生き物と特別に交わる気がないのはとっくに知れていた。
 自分たちの文化は文化として確立させている。そして人間にそれを押し付ける気はないらしい。そう言えば聞こえはいいが、神人は人間にある程度以上の干渉を許してはこなかった。
 リィにはそれがどこか不快で、だからこそ神人の文化の精髄ともいえる魔法を学ぶ気にもなったのだ。だが、それをサイファに言う気はなかった。
「人間の文字も元は同じようなものだ。神人から教えられたものを人間が使いやすいような変えた物だからな」
「わかった」
「これが最初の文字」
「最初?」
「神聖文字だって、順序があるだろう? 同じことだ」
「はい」
 リィが石盤に書く文字列をサイファはじっと見ている。無骨な字だった。けれど不思議と優雅さを備えてもいる。
「書いてごらん」
「はい」
 渡された白墨を手にサイファはゆっくりと手本を見ながら書いていく。中々同じように書けなかった。
「似せようとしなくていいぞ」
「どうして」
「俺の字はあまりうまい字じゃないからな」
「そうなの。私は優雅だと思う」
「どこがだよ。こういうのは癖字、と言ってな。人間は嫌うんだぞ」
 呆れ顔で言うのだから、どうやらそれは本気らしいとサイファは思う。だから首をひねってしまった。
「でも」
「なんだ?」
「私は好き」
 一瞬、答えが返ってこなかった。だからサイファはリィの顔を覗く。彼は破顔していた。
「どうしたの」
「いや」
 それだけ言い、リィは微笑んでサイファの髪に手を伸ばす。
「それ、嫌」
「触られたくないか?」
「だって、粉がつくから」
 言った途端、リィが笑い出す。白墨を握った手は、サイファもリィも共に白く汚れていた。
「悪かったな」
 けれどリィは意地悪く笑ってサイファの髪をくしゃくしゃにした。無論、手は汚れたまま。
「リィ!」
 大きな声を上げ、サイファもまた手を伸ばす。リィの短い髪を汚してやろうと。
「こら、よせって!」
 大仰な身振りで避けて見せたけれど、実はリィは嫌がってなどいなかった。この神人の子の素直さが心地よかった。
「もう、つまらない」
「なにがだ」
「だって、あなたの髪は目立たないから」
 人間に換算すればサイファはまだ少年に当たるのだろう。神人の子としてはそれが相応しいのかどうかリィは知らない。けれど歳相応、という表現が最も当てはまる、そんな顔をする。
 サイファは唇を引き締めてそっぽを向いていたのだった。視線を外したサイファに、リィは背後からまた同じよう、髪を撫でた。
「リィ!」
 振り返った顔が険しい。謝罪するよう、両手を掲げて見せればなおいっそう険しくなった。
「あなた、わざとだね?」
「なんの事かなぁ」
「絶対、わざと」
「俺にはわかんないな。どうした、サイファ?」
「手」
 無愛想に言い、けれどサイファはすぐに吹き出す。それからリィの手を取ってはぴしゃりと叩いた。彼の手からは白い粉が舞い上がる。
「どうしてこんなに汚れているの?」
 心持、顎を上げて問い詰める。しかし顔が笑っているからリィも嫌な気分はしていない。
 神人の子と言うものはやはり人間には近づきにくい存在だった。なにはともあれ想像を絶するほど美しかった。神人のそれではなく、地上的であるがゆえに人間の目には神人よりよほど美貌に見えてしまう。
 それに畏怖する。崇拝する。おそらくわずらわしいのだろうと思う。神人の子が人間に関わりたがらないのはそのせいでもあるのだろうと。
 けれどこのサイファは違った。素直に目を見て話す。嫌がりもせず、微笑みかけてくる。まだ若いからとも言えるだろう。けれどリィは自分が彼を特別視しなかったから彼も応じてくれたのだ、とどこかで知った。それがリィもまた、嬉しかった。
「許せよ」
 笑って言うリィをサイファはいたずらに睨みつける。それから破顔し、白墨を手に取った。
「ちょっと待て、なにをする気だ」
「わかるでしょう?」
「こら、待て。サイファ」
「嫌」
 一言の元に拒絶し、そしてリィの銀髪は白い粉で覆われた。




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