彼の言い出したことの突飛さに呆気にとられていたわけでもなかろうが、ふと忘れていたことを思い出す。 「あなたをなんて呼べばいい?」 いまさらながら名を聞いていないことに気づいたのだ。当然、サイファが尋ねたのは真の名ではない。人間にも、真の名はある。もっとも大抵の者は真の名をそのまま名乗るのだが。しかし、彼は魔法を志す者だった。ならば通称を名乗るだろう、とサイファは思ったのだ。 「お前は?」 問われてサイファは頬を赤らめる。自分が聞いたくせにまだ名乗っていなかった。 「サイファ」 「いい名だな」 「そう?」 「響きがいい」 「ふうん?」 この男はそれがサイファの人間世界での通称だと、知らないはずはなかった。けれど褒められて悪い気はしなかった。 「それで?」 幾分、機嫌よくサイファは再び問う。男はにんまり笑って答えた。 「オシショウサマと呼べよ!」 華やかな声に騙されたわけでは決してない。神人の子の常として人間の文化に疎いだけだった。それが通称ですらないことに気づくまでにはいま少し、時間がかかるのだった。 差し伸ばされた手につかまって立ち上がれば男が笑った。木漏れ日に短い銀髪が光る。いまだ成長途中とはいえ、サイファは神人の子であった。すらりと丈高い彼より、男はなお長身だった。そのことに軽い驚きをサイファは覚えた。 「さて、行くかな」 ほくそ笑みながら言うのをサイファは呆れて見ている。どこへとはもう問わなかった。黙ってついて行けば森の奥へと彼は進む。 簡素な家だった。人間の家はサイファの目から見ればいつも小ぢんまりとしてどこか危うい。それは彼ら人間が死すべき定めにあるせいなのかもしれない。 「入りな」 無造作に扉をくぐる。そして男が言った。 「茶でも飲むか?」 どことなく面白そうな言い方に、サイファが不審を感じながらもうなずけば、男は暖炉を振り返り、そして一言呟いた。 「あ……」 思わず声をあげていた。今の今まで火のなかった暖炉。薪が組まれていただけのそれなのに、煌々と火が燃え盛っていた。 「どうだ、面白いだろう?」 「どうやって?」 「魔法さ」 「……でも」 「人間が、と思ってるな?」 「思ってる」 素直に言うサイファに男が笑う。それに反発するよう、サイファが顔をそむけるのに男は再び笑い、けれどそれは謝罪だった。 「すまん」 言って男の手が伸びてくる。突然のことに避けるという考えさえ浮かばなかったサイファの頭に男の手が乗り、そのままくしゃりと撫でてきた。 「なにを」 驚愕に目をみはるサイファに今度は男が不思議そうな顔をする。 「嫌だったか?」 「……驚いただけ」 「そうか」 サイファの言葉に男はうなずき、そしてふわりと破顔して手を離した。 「それで?」 「うん?」 「魔法の話」 「あぁ……不思議だろう?」 言って男が暖炉にやかんをかけた。勢いのいい炎に程なく湯は沸き、男が器用に茶を淹れるのをサイファは見ていた。 「あなた、一人なの?」 「そうだが。なんか変か」 「人間って、いつも大勢で住んでるから」 「あぁ、なるほどね。俺は独りのほうが気楽でな」 言いながら男が茶を差し出す。熱かった。サイファはカップに触れただけでそれに口をつけることをためらった。 男はかまいもせず飲んでいる。熱くないのだろうか、と思いながら見ていると、飲まないのかと視線で問われる。言い訳をするのが面倒で、渋々口をつければやはり熱い。けれどそれは知らない味で、かつ美味だった。 「さっきのは、真言葉魔法と言う」 突然に始まった講義に、サイファは興味を覚えて耳を傾ける。男の話は面白かった。 サイファは神人の子として、自然に魔法を覚えた。だから魔法に種類があることなど知らなかった。厳密に言えば、知らないわけではなかったが、それは自分たちが使うものと父の種族が使うものは違う。また人間の一部が使うらしい魔法とも違う、その程度の認識しかない。 「人間の魔法は契約魔法が始まり、と言われている」 「それは、何?」 「神との契約によって発動させる魔法のこと」 単純きわまる説明に顔を顰めたサイファを、男は首をかしげて見返してきた。当然わかるわけはない、と思っている顔をしているのが癪でサイファはわずかばかり顎を上げる。それにふっと唇を緩めて男は続けた。 儀式によって神の力を借りる契約をするのだと。神と言うのはある意味、便宜的な言葉であってある種の力の源と言い換えたほうが正しいこと。 そしてそこから派生したのがいま男が使った真言葉魔法と神殿の神官が使う神聖魔法だと言うこと。 男の話は尽きない。サイファは遮ることなく適度な相槌と質問を挟みながら聞いている。それがよかったのだろう、男はさらに興に乗り、いつしか蝋燭に火を灯すまでになっていた。 「で、人間がかろうじて使える真言葉魔法ってのはまだ数も少ないし不安定でもあるわけだ」 「発展させたいと思ってる?」 「もちろん」 「ひとつ、聞いていい?」 「答えられることならね」 その言い振りが気に入った。サイファは笑みを浮かべて男を見る。 「どうやって魔法、習ったの?」 ずっとそれを聞きたいと思っていたのだ。神人の子ならざる人間は、どのようにして魔法を習得するのだろうと。 「さあなぁ」 首をひねる男にサイファは笑う。男の答え方が楽しくてならない。サイファは彼自身のことを尋ねたのではなかった。人間と言う種族のことを聞いていた。 男はそれを正確に察知してわからない、と答えた。それが無性に嬉しくて楽しい。 「たぶん、はじめは神人に習ったんだと思うが」 「教えるかな?」 「神人が愛した女の誰かだったのかもしれないし、その親族とかだったのかもしれない。いずれにしても古すぎて人間にはわからんな」 神人がこの地に現れてどれほどになるのか。いまだ若いサイファには知る術もないこと。また興味もなかった。 いずれにしても人間にとっては神話となるほど古く、神人の子も疾うに成人を遥かに超え父の種族の手助けをしている者さえいる。それほど古い話だ。 「あなたは?」 「俺? 人に聞いたり本で読んだり。ほとんど独学だな」 「ふうん」 サイファはこの人間の男を気に入っている自分に気づく。もう少し話しを聞きたいと思っている自分に驚いた。 「でな、俺としては野望があるわけだ」 「どんな」 「言っただろ。魔法の体系を確立したいって」 「できるの」 「野望って言ってるだろ。まずやってみないことにはな」 言って男が華やかに笑い出す。それは決して無謀だとは思ってもいない顔だった。それを見ているのが面白かった。 「手伝って欲しい?」 だからだろう、そんなことを言ったのは。興味が沸かなければ気が失せたと言って去るつもりだった。いまはすっかり男の情熱に乗せられてしまっている。それが嫌ではなかった。 「手伝う?」 「違うの」 「お前が俺から習うの」 「どうやって」 「それをこれから考えるんだ」 真剣でありながら不思議な言いようにサイファはこらえ切れず吹き出した。咎めるよう、男が見ているのがおかしくてならない。 「あんまり笑うと、酷いぞ」 「ごめんなさい」 「素直なのはいいことだな」 もっともらしく男は言い、そして自身もおかしくなったのだろう、サイファに合わせるよう吹き出してしまう。 そうして、二人の生活は始まった。 「どうして」 はじめこそ、サイファは抵抗した。一人でいるのを好んだし、男もそう言っていた。それにもかかわらずなぜ、共同生活をするのかと訝しくてならない。 「そのほうが便利だから」 「だから、どうして」 「急に実験したくなったとき便利だろ」 「実験?」 その言葉の不穏な響きにサイファは追及をやめた。なぜか聞いてはいけない、そんな気がしたのだ。そして肩をひとつすくめて共同生活に同意したのだった。それに男が嬉しそうな顔をする。見ているサイファまで楽しくなるような顔だった。 それに気づいたのはいつだっただろうか。間違いなく、数日以上を経てからのことだった。自分の呼びかけに、いつも男は笑い出しそうになっていた。 「オシショウサマ」 「なんだ」 「これ、どうするの」 サイファの差し出した書付に彼は目をやり、けれどまだ笑い出しそうだ。それから身振りでしまっておくよう、指示してくる。それが不思議でならない。 そしてはたと気づいたのだ。もしかしたらそれは通称ですらないのではないか、と。 「ねぇ」 書付を持ったままサイファは振り返る。 「あなたの名前を聞いていないと思う」 「……いまさらそれを聞くか?」 「だって!」 「冗談だよ。お前、気づかないんだもんなぁ」 呆れたよう男は言い、次いで爆笑した。机に伏して笑っている姿に怒ってもいいはずなのにどうにもそんな感情は湧いてこない。 「それで」 まるでその不思議な感覚を隠すよう、無愛想に問うのが精一杯だった。まだ伏したまま男は悪い、と言うようひらひらと手を振っていた。 |