それはいまだ神人の去らざりし時。アルハイド大陸があまねく神の恩寵に満たされていた時代。花開く三叉宮に神人たちは集い、人間の王国もまた華やかな繁栄の中にいた。
 後の世の人間からはとても考えられないほどの長寿を保ち、しかし定めにしたがってけれど安らかに死を迎える。それは人間にとって、原始の至福とも言える世界だった。
 そして神人は人間との間に子を儲け、それは神と人とを繋ぐ幸いであった。半ば地上のものでありながら、神人の子らは人ではなく、そして神人でもなかった。
 彼ら神人は意思のひとつであらゆる力を発動させた。人の身にはかなわぬこと。では神人の子らは。かなわなかった。父の種族のよう、思考を操るだけで魔法を扱うことは出来なかった。
 神人は美しかった。人間とは違う真実、抜けるように白い肌。日に透ける淡く濃く金の髪。彼らの故郷であるという天上の国もかくやとの青い目。
 その子らはいかに。似てはいなかった。確かに肌は白い。父には劣るものの間違いなく美しい。青い目を持つものも多い。だがその髪は一様に黒かった。なぜかは知らねど、それが事実であった。また、人間には理由を推し量ることもできない事実がある。子らは皆、男児であった。
 人の子らと同じように見え、けれど神人の子らは間違いなく人ではなかった。人間の子と同じよう、母の胎内から生れ落ち産声を上げ、乳を飲んでは育つ。
 けれど人間の子ならばおよそ十五年もすれば独り立ちするだろう。神人の子は長い幼年期を過ごした。その間およそ二百年。人間ならば立派な成人の体格を持ちながら神人の子はいまだ幼いまま世界を巡り歩く。草原をさまよい、他愛ないことに笑いさざめき、獣の背に乗っては彼らとともにどこかへと駈けていく。
 理由などない。ただ子供のする遊びのようなもの。期間が長い、ただそれだけであった。だが人間の目にそれはある種の畏敬を持って映る。うっとりと湖に見入る神人の子の無邪気さに、人は打たれる。あるいはそれは神人の子が人間には大人と見えるせいでもあるのかもしれなかった。
 人間にどう見えるかなど、神人の子は知らない。まして神人は己の子に関心など微塵もなかった。神の一族に連なるものの感情など、人間がわかるものであろうか。否。地上の生き物である神人の子に父の種族が理解できるものだろうか。否。神人の子は、生まれながらに一人だった。長い幼年期の末、覚醒したときそれを知る。母は亡く、父もないに等しいのだから。
 ここに一人の神人の子がいた。名をサイファと言う。無論、母が名づけた地上の名だった。サイファは自分の真の名を知っていた。なぜかはわからない。だが幼い意識が目覚めたとき、自らの内部にそれを認めた。
 それは神人の使う天上の言語であるがゆえ、人間の発音できる物ではなかった。サイファ自身が口にすることは出来ても、母が呼ぶことはできない。だから母は地上の名を彼につけた。母は彼をサイファと呼び、慣例として同じ神人の子も彼をそう呼んだ。父が彼を呼ぶことはなかった。そもそも誰を父と呼ぶべきなのかサイファは知らない。それもまた、神人の子の慣例であった。
 アルハイド大陸は春の中にあった。一斉に芽吹く草の芳しい香りに包まれながらサイファは歩いていた。すでに自己の意識を明確にしてから二百年。四つの世紀を数えたサイファは草原を走り回りはしなかった。
 ただその中に身を任せていた。快い精気が体を巡るのを楽しんでいる。シャルマーク王国とミルテシア王国が境を接するその辺りは、サイファの気に入りの散策場所であった。
 覚醒してから二百年。とは言えサイファにとって世界は新しい。見るものすべてが美しく、新鮮だった。暖かい春の陽に照らされながらシャルマークの草原を歩く心地良さ。それに疲れてミルテシアの深い森に安らう快さ。
 ゆったりと木漏れ日の下を歩くサイファは神人の子の常に従ってやはり、美しかった。人間ならば疾うに成人とも見える体格でありながら、どこか未完成な印象を与えるのはこの神人の子がいまだ幼いからに他ならない。
 本質的に痩身優美ではある。だがいまだサイファは四百年しか、生きていない。神人の子としては幼いとも言える。彼らの間で成人と見做されるにはおよそ千年も掛かろうか。
 その大人の体格とはどこかが違う、けれど人間の目には同じよう美しい細い腕を掲げてサイファは梢に手を触れる。そっと引き下ろして木の葉に唇を触れさせれば甘い木の香りがした。
 ふっと唇に笑みが浮かぶ。人間がもしも目にしたならば狂喜しただろう。神人の血を引くがゆえに彼らは崇拝された。それを不快に思うのはサイファだけではない。
 だから神人の子らは人間との接触を嫌う。こうして人気のない場を選んで散策するのもそのせいだった。森の木漏れ日の下、サイファの着た淡い芽吹きの緑のゆったりとした衣が同化する。施された金糸の刺繍さえ、木漏れ日に似ていた。腰に結ばれたあやめ色の帯が風になびく。
 梢から手を離した途端、春の風が髪を乱す。慌ててサイファはそれを押さえた。誰もいないのを良いことに肩の辺りを覆う髪を束ねてしまう。ほっそりとした首筋に光があたった。
「おい、そこの若いの」
 突如として聞こえてきた声にサイファは我を失いそうになった。誰もいないと思っていた場に他者がいた。仮に同族であっても肌を見られるのを極端に嫌う神人の子であった。だからこそ余計に度を失ったのだった。
「なんの用だ」
 落ちついて見えるよう願いながらサイファは手を離す。まるでいま梳いたばかりのよう、髪は肩に揺れていた。
「面白いことに興味はないかと思ってな」
 巨木の根元に腰を下ろしていたのは洗い晒しの白い衣を着た人間の男だった。片膝を立て、その上に肘を乗せては頬杖をついている。短く刈り込んだ銀髪に淡い陽が踊っていた。
「面白い?」
「そうだ」
「なにが」
「魔法の話なんか、どうだ?」
 嬉々として人間は言う。サイファは興味をなくした。人間にとっては面白い話であるのかもしれない。だが神人の子にとって魔法は第二の天性とも言うべきもの。父の種族のよう、思考ひとつでとはいかなかったけれど、いつの間にかある程度は使えるようになる物ではあった。
「つまらない」
 サイファは背を返す。どのようにして魔法を使うのかなど、考えるのも教えるのも面倒だった。
「そう言うな、若いの」
 その言葉に不思議を覚える。この人間はあるいは自分を神人の子とは知らないのではないか、と。そして即座に否定した。特徴的な容貌はそれと見るだけで出自を知らせるのだから。
「あなたより遥かに年上のはずだが」
 皮肉ではなかった。サイファにとってもこの人間にとっても事実に過ぎない。そのとおりに受け取ったというよう、男は笑みを浮かべたままうなずいて見せ、それから目を細めては改めて笑った。彼の目が、神人たちよりなお深い青であったことにサイファははじめて気づく。引き込まれそうな色だった。
「だが、若いだろう?」
「どうして」
「うん? 違ったか。そんなことはないと思うんだが」
「違わない。でもどうして」
 心底、不思議そうな声に男が声をあげて笑い出す。不愉快ではなかった。そしてサイファは驚いた。この人間が自分を崇拝するような態度は一度も見せていないことに。それが嬉しかった。
「どことなくまだ幼いな、と思っただけだな。理由なんて特にない」
「ふうん」
「で、どうだ?」
「なにが」
「魔法の話」
「つまらない、と言った」
「そう言うなって、言っただろ」
 悪戯の共犯者のような目だった。そのせいかもしれない。サイファが話しを聞く気になったのは。肩をすくめて人間の前に腰を下ろす。
 そうして改めて見れば、彼は人間にしては長身だった。ひょろ長いのではない。均整の取れた体つきのせいで気づかなかっただけだった。
 サイファはそれとなく自分の腕を見下ろす。未成熟な細さだった。同族ならぬ人間の目にはっきりとわかるほどではなかった。そのはずだったが彼は見て取った。何となく、愉快になってくる。
「それで」
 サイファの促しに、男が満面の笑みを浮かべた。人間としては子供と言うような年齢ではないようだが、男の浮かべた表情は正に子供のもの。
 呆れ半分、おかしくなってくる。神人の子の目に人間の正確な年齢はわかりにくい。男はどれくらいだろうか。若くもなく年を取ってもいない。サイファにわかるのはそれだけだった。
「神人の子は普通に魔法を使うだろう?」
 男の確認するような口調にサイファはうなずく。長い話になりそうだった。サイファは膝を立てその上に両肘をついては顎を乗せる。いつの間にか付き合うつもりになってしまっていた。
「人間は使えない。そうだな」
「とも限らないと思うけど」
「ま、だいたいだ」
「なら、そうだと思う」
「もしここに魔法の体系があったらどうなると思う?」
「体系……?」
「そう、誰にでもわかる学問として。と言ってもある程度以上の根気と知性は必要だろうがな」
「根気が先?」
「先」
 言って男が笑い声を上げた。深い豊かな声だった。サイファは続きを知りたくて男を促す。それににんまり唇を歪めて男がサイファを見た。乗せられてしまった、と知ったサイファが視線を外すのを男はおかしげに見、そして話しを続けた。
「それでどうだ。お前、俺のところで学ばないか」
「学ぶ?」
 突拍子もない話しにサイファは外した視線を慌てて元に戻す。男の目は笑ってはいたけれど真剣だった。逆ではないのか、言い出しそうになって言葉を呑む。学問、と言うならば彼のほうが適当なのだろう。サイファは神人の子として理由もなく魔法を行使できるだけなのだから。
「きっと面白いぞ」
 身を乗り出してくる。咄嗟によけそうになった。男が意外と素早い動きでサイファの手を捉える。温かい、乾いた手だった。
「……いいよ」
 男の、子供じみた熱心さにサイファは苦笑し、ついにはそう言った。それに男は何を言うでもなく立ち上がり、見上げたサイファに会心の笑みを向ける。
「よし。行こう」
「どこへ」
「まぁ、ついて来いって」
 まるで子供のような口調にサイファは笑う。なにかとてつもなく面白いことが起こりそうな、そんな気がした。




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