翌日早々に、ミルテシアの使者が砦までやってきた。ミルテシア第一王子、すでに戴冠することが明らかになった次代の王が会談を求めている、と。王子は自らこの砦までやってくる由。相当な譲歩だった。
「これで決着がつくか」
 ほっと息をつくのはアリステア。ミルテシアが譲った、との形を見せればラクルーサ国内もだいぶ落ち着くだろう。
「甘いと思うがな」
 肩をすくめるリーンハルトとしては実感があるのだろう。が、一旦は決着がつく。何はともあれ。そうしてやってきたミルテシアの王子だった。
 まず供回りの少なさにラクルーサ勢は驚く。ほとんど護衛程度の人数しか連れていなかった、王冠を頂く王子の護衛ではない。貴族が野遊びでもするかのような。そして王子は幼い娘を連れていた。五歳になったばかり、という。
「――どうか」
 ここで退いてほしい。嘆願の口調。それでありながら、ミルテシアの王子は毅然と立っていた。ラクルーサの騎士たちですら感銘を受けるその立ち姿。
「なるほど。お話の筋はわかりました。――従弟殿」
「ご足労願ったのはこちらです。お疲れでしょう。粗茶など差し上げたい」
 微笑んだスクレイド公爵アリステアに王子は強張った顔のまま。だが、座を変えるとの意志に少し安堵したのも確かだった。衆人環視の中、ミルテシアの屈辱を全身に感じている王子だった。それをラクルーサは慮ってくれたか。
 砦とあって優雅な席など期待はできない。ラクルーサから持ち込んだものも多少はあるが、最前線でのこと。小姓の一人もいない中でアリステアはレクランを呼び寄せる。王子ははじめ、それとは気づかなかったらしい。だがリーンハルトにスクレイド公爵の嗣子、と紹介されるに至って目を見開く。あまりにも驚いた様子だった。
「王女殿下には、こちらを」
 大人たちには茶でよいだろうが、幼い姫にはそれではつらかろう、レクランは温めた乳と蜂蜜を用意していた。それに王子が一瞬強張る。レクランは微笑んだまま失礼、と呟いて器に口をつける。
「どうぞお召し上がりくださいませ」
 自ら毒見を買って出た嗣子に王子は何を言うべきか見つからないらしい。レクランとしては、父が日常していることを真似ただけだった。次第に王子にもそれが染み込んでくる。「勝てなかったのは当然か」と思うようにもなりはじめていた。
「リーンハルト王」
 砦は賠償金を以てミルテシアに返還されることとなった。そもそもは、ただそれだけの話であったはずなのに。本をただせばビンチェンツオが血の魔術師に踊らされた結果ではあるのだが。
「王太子は九歳と聞き及びます。我が娘は五歳になりました」
「健やかにお育ちの様子。今後ともそうあっていただきたいもの」
「ラクルーサでそうあっては、なりませんか」
 真っ直ぐとした眼差しだった。話ができる、そうリーンハルトは思う。王と王として、ぶつかることもあるだろう。だがこの男とは会話が成立する。互いにそれを飲み込みはじめていた。だからこそ、リーンハルトは拒む。
「ミルテシアの方には、さほど珍しいことではないかもしれませんが。このスクレイド公爵は」
 ちらりとリーンハルトが壁際に立つアリステアを振り返る。公爵位にありながら、侍従の役を嫌な顔一つせずに務めている男だった。
「我が従弟にして伴侶です」
 微笑んだリーンハルトに、率直な男もいたものだとミルテシアの王子は思う。ラクルーサ人は寝室の事柄から目を背けたがるものが多すぎる、そう感じていたものを。
「ゆえに、私は我が子にも、自ら望む相手と添って欲しい。なかなか難しいことではありましょう。我々には常に政治が絡む。その中であったとしても、いまこの時点で彼の道を決めることはしたくない」
 言いつつリーンハルトは違うことも考えていた。隣国の、敗戦国の王女だった、当の五歳の姫は。いまここで父の傍らにあり、不安そうにしている童女。
 もしラクルーサに連れ帰れば、過激なものが出ないとも限らない。ラクルーサの弥栄のためにならばミルテシアに国を売ってもかまわない、と考えたものすらいたのだ。それは死霊に操られていたせいではある。が、彼自身の考えでなかったとはリーンハルトは思わない。もし姫が害されるようなことがあれば。万が一の時、再びミルテシアとの戦端が開かれるだろう。
 更にアンドレアスのことがある。いま語ったことは本心ではある。アンドレアスには出来得ることならば望む相手と幸福を築いてほしい。それがミルテシアの姫である、というのならばリーンハルトは万難を排してもかまわない。
 だが現状でミルテシアの姫が王太子妃になるなどと発表すれば、アンドレアスにも姫にも危害が加えられかねない。いずれ来るアンドレアスの治世にも影を持ち込むことになるだろう。
「愛らしい姫君ではあるが、ここは謝絶させていただきたい」
 微笑むリーンハルトにミルテシアの王子は唇をそっと噛む。隠れてしたつもりだろうけれど、リーンハルトには見えていた。それだけ、ミルテシアは押されている。
「こちらから、ご提案が一つ。ミルテシアとラクルーサと、対シャルマークの魔族に限り、休戦協定を結びませんか」
「対シャルマークのみ……」
「すぐに和平を、と言っても両国の感情から考えて難しい。ならば少しずつ」
「……こちらとしては、異存など、とても」
 ならば、そのように。リーンハルトがアリステアを振り返り、アリステアは室外で待機していた騎士たちに必要なものを持参するよう申し付ける。そしてミルテシアの側近が室内に。
 協定を簡単に話して聞かせれば、ミルテシア側はほっとした様子だった。それで充分、いまは。そう感じているのだろう。王が殺害され、ビンチェンツオ王子は魔族に与し。ミルテシアは基盤から揺らいでいると言っても過言ではない。ラクルーサとこれ以上事は構えられない。
 可愛らしい王女は、父の側を離れずに済むのだと知って泣き出していた。こんな童女を奪うような真似はやはり、したくない。せねばならないときには、するだろうけれど。ラクルーサ王と王冠を戴く王子とが条約に署名をかわす。これで、決着だけは見た形になった。
 だがラクルーサとしては問題がまだある。ミルテシアの王子は早々に帰って行ったが、帰らなかったものがまだいた。ビンチェンツオに従った騎士と兵。いまだ砦に留まったまま。捕虜もまた賠償の中に含める、と言ってあったのだがほぼすべてがラクルーサに移住することを望んだとあっては致し方ない。ミルテシアの王子にも了承を得ている。すでに彼らはラクルーサの民だった。騎士たちが持つ所領はラクルーサとミルテシアの領地交換、という形で、以前ミルテシアが得たラクルーサの地と入れ替えることになった。
「問題は――」
 長い溜息をアリステアはつく。政治的に問題が大き過ぎるのだが、兵たちも騎士もアリステアの下にあるを望んでいた。シャルマークの前線送りになどならない、とは通達してあるにもかかわらず、だ。
「殿下。お力添えをいただけましょうや」
 レクランといまだ砦にあり、勉学に励んでいるアンドレアスだった。あの戦闘も、アンドレアスには勝利の初陣。もっとも、正式な初陣ではない。観戦していただけだとリーンハルトは渋い顔をしていた。
「なんでしょう?」
 騎士たちがいるせいか、アンドレアスは丁寧にそう言い、くすりと笑う。レクランがそんな王子に微笑んでいた。
「陛下にはご裁可を賜っておりますが」
 そしてリーンハルトと二人で決めたことをアリステアは王子に話して聞かせる。もちろん、リーンハルトが決めたこと、として。アリステアはリーンハルトに泣きついた、と言った方が正しいと思っているのだが。
 子供たちを連れ、捕虜の部屋へとやってくる。否、すでに捕虜ではない彼らの下へと。新たなラクルーサの民たちはアリステアの顔を見ると嬉しそうに背筋を正した。
「すでに見知っているものもいるとは思うが。アンドレアス王子殿下である」
 幼い王子に民たちが揃って綺麗に頭を下げた。自らの落ち着き場所がラクルーサと決まり、彼らは晴れやかな顔をしている。戦時の捕虜であったとはいえ、故郷に戻れば裏切り者同然に扱われると知っていた彼らだった。こうして故郷を捨てることにはなったが、逆説的に自分たちが捨てたことで、家族はいま以上に酷く言われることはなくなる。戻ればパンひとつ売ってもらえなくなりかねない。騎士ならばともかく兵には死活問題だった。
「諸君は――」
 そしてアリステアの話に驚愕した。新たな民は、王家直轄領に移される、と彼は言う。アリステアは言わなかったが、スクレイド公爵家で預かれば何を言われるかわかったものではない。シャルマーク系だというだけで謂われないことを言い放たれているというのに、ここでミルテシアの民を加えればまた反逆だ、という話になる。間違いなく。
 ゆえに、民は直轄領に。そして更に驚かされた、彼らは。直轄領を差配するのはこの王子アンドレアスだという。相手が幼い子供、とは思わなかった。自分たちが王子の民になる、その恐怖。
「私にうまくできるかどうかは、わからないけれど」
「様々な者の話を聞き、取り纏めるのもいずれ玉座に就いた暁には必要になる技術です」
「努力しよう」
 公爵に言い諭される王子の姿に、彼らは怯えていた。ビンチェンツオが何をしようとしたか、彼らは間近で見ている。レクランが静かにそれを見ては微笑んでいた。
「公爵。レクランを借りてもいいかな?」
「いいえ。まずはご自身の臣下と共に励まれることです。レクランにはレクランにしかできないことがあります」
 言いながらアリステアはレクランは影ながら王子を支えるつもりでいることが手に取るようわかっていた。何しろ直轄領とは旧アントラル大公領であり、スクレイド領内だ。そちらに関しては黙認するつもりだったが、レクランにそうするだけの余裕があるかどうか。いずれ王子以上に多忙になるレクランだとアリステアは知っている。
「旧来のものたちと喧嘩になることもあるだろうけれど、よろしく頼むよ。皆のもの」
 闊達に笑うアンドレアスだった。ビンチェンツオがしたことは彼の咎。兵にも騎士にもかかわりはない、笑顔の向こうで断言する王子。自然に彼らは頭を下げる。ここに真にラクルーサの民が誕生した。
 まるでそれを見澄ましていたようだった、リーンハルトがやってきたのは。気安く自ら扉を開く王の姿に騎士も兵も目を瞬いている。ここが戦場だからだ、とアリステアは一応は渋い顔。それをレクランとアンドレアスが笑う。
「そろそろ準備をせねばなるまいよ、従弟殿」
「それをわざわざ御身がなさいますな」
「なに、偶々だ。――帰ろう、我々の国に」
 最後は新たな民を見て言った、リーンハルトは。背を伸ばし、この王に相応しくあらんと覚悟を決めた騎士たち。この王の下ならばと顔を輝かせた兵たち。そして彼らは砦を発つ。ミルテシアが再入城したとき、そこは塵一つなく掃き清められていた。




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