王都は大騒ぎだった。ようやくリーンハルト王が帰ってくる。卑劣な隣国より自らの手で王子アンドレアスを奪還し、ラクルーサを圧倒的勝利に導いた王が。 「ごらん、王様だ!」 わっと王都の民が沸いていた。リーンハルトの行列が見えるなり、花々を投げる。リーンハルトの金髪に色とりどりの花びらが舞いかかった。 「なんてお強い王様なんだろう」 「あっちにいらっしゃるのがスクレイド公爵様だろう?」 「軍神マルサドのお姿なんだそうだ」 「公爵様に神様が乗り移っていらっしゃるんだそうだよ」 「王様はマルサド神にお導きをいただいているんだ」 民たちが口々に言う声。アリステアにも届いていた。少々苦笑気味ではあるものの、リーンハルトの評判が高まるのならば己がどう言われようとも一向にかまわない、と割り切っているアリステアだ。 ――近衛は。 気がかりだろう、アリステアは内心で思い、周囲を見回す。念のために、といまだ護身呪は欠かしていない。だが近衛としては投げられる花束ですら、危険ではないかと冷や冷やしていることだろう。 近衛の懸念などどこ吹く風、リーンハルト入城は無事に終わる。凱旋行進に民たちの熱気が高まり尽し、このままでは危険かもしれない、と不安になるほど。だがリーンハルトは笑みを絶やすことなく最後まで行進を続けさせた。 「従弟殿がいるだろう?」 万が一の際にはお前がいる、そう言われてはアリステアもうなずかざるを得ない。むしろ近衛が。近衛騎士団長には後で一言詫びでも入れておこう、アリステアは心に留める。 入城すれば、すでに戦勝の宴の用意が整っていた。侍従たちが奔走した結果なのだろう。素晴らしい宴の準備だ。 ――妃殿下が、な。 リーンハルトに王妃はいない。いまだ北の塔にあり、彼女は終生をそこで過ごすことになるだろう。王妃がなすべき務めを、侍従と女官が総出で行ったらしい。 勝利の宴に先だって、論功行賞が行われた。最も勇敢であった、とされたのは近衛騎士の一人。騎士団の中で素晴らしい働きをした若き騎士だった。王子の無事を証し立てるため、幼き王子も異例のことながら同席した場。当然のよう学友としてレクランが傍らについている。 「レクラン――」 「いかがしました?」 「どうして父上は、レクランを」 む、とアンドレアスが黙る。小声で囁きかわす声が王の傍らにあるアリステアには聞こえない。が、何を言っているかは見当がつく。 リーンハルトは公にレクランに褒賞を下すことはしなかった。アンドレアスをその側近くで、裏切りさえも装いながら保護したレクラン。 「いいのですよ。僕はこうしてアンドレアス様のお側にいることを許されている。それで充分です」 レクランがそう言ったのだろうことがアリステアには見えていた。唇がそう形作っている。それにアンドレアスがまだ不満げであるのも。 事実、リーンハルトのそれは何よりの褒賞だった。アンドレアスが誘拐され、レクランは一時敵側についたと風聞が立った。それを覆す証拠は実のところない。レクランが再度裏切ってラクルーサに戻った、と言われても致し方ない状況だ。逆にあの戦場でアンドレアスがレクランを呼んだ「王家の守護者」との言葉が近衛を中心に広がりつつもある。だからこそ、リーンハルトはすべてをなかったことにした。アンドレアスとレクランは無二の友であり、かつてもいまも、これからもこうしてあるのだと、この場において無言で示す。 ――ありがとう存じます。陛下。 公に褒賞を下されれば、毀誉褒貶が激しくなるとレクランは心得ていた。こうして何気なくアンドレアスの側に、と言ってくれたことが何よりありがたい。 「従弟殿」 傍らのアリステアをリーンハルトは呼ぶ。一番の褒賞をリーンハルトが彼に下さなかった、それを意外に思っていたものは宮廷にも多い。アリステアとしては当然だと思っている。リーンハルトにそれはできない。 「そなたに褒美を下すとは、いかにも余所余所しい。――これからも我らがラクルーサを共に守っていただけるか。従弟殿」 かすかに微笑んだリーンハルトだった。こういった式典の場で彼がそうすることは珍しい。それがアリステアにとっては何よりの褒美。王の御前、片膝をつき、彼は彼の王を見上げる。 「従兄上の御為に」 ただ一言、それだけだった。軍神の化身がラクルーサに、リーンハルト王に新たな忠誠を誓った瞬間。宮廷中が沸き返る。アンドレアスとレクランもその波の中に飲み込まれるほどに。 そしてはじまった宴では至るところで武勲の話題に花が咲いていた。誰がどんな働きをした、陛下の素晴らしさ。公爵の勇ましさ。騎士たちの語るその姿に従軍していなかった貴族たちはいささか悔しそうですらあった。 リーンハルトとアリステアは早々に宴を去る。慣例であったけれど、何より疲れた。心ならず人目にさらされ続ける、というのは案外に疲れる仕事だ。 「従兄上は立派ですよ」 王の寝室に引き取ってからのことだった。何も言わず女官はアリステアの寝所、として王の寝室を指定してきた。一人寝を楽しみたいなどと言うつもりはないが、あからさまにされると照れくさくはあった。 「なにがだ?」 大仰な王衣を脱ぎ、くつろぎの姿になったリーンハルトの手には酒杯。ゆったりとした衣服に彼も息をついている。 「あのように笑顔であり続けるのは俺には無理ですね」 「充分立派にやっていたと思うがな」 「従兄上がいらっしゃるから、ですよ。こちらが不機嫌な顔はしていられない」 そんな不遜な、とアリステアは笑う。そして衣服を替えた彼もまたリーンハルトの隣に腰を下ろした。長いあいだ戦場にあり、こうして薄手の服でいるのは久しぶりだという気がした。傍らにあると互いの体温が伝わるかのような。 「それで。アリステア。言いたいことがあるのだろう?」 思いもまた、伝わっていた。ふ、とアリステアは苦笑する。この従兄には隠し事はできないと。ラクルーサへの帰途、ずっと考え続けていたことだった。 「……怒らないで聞いてくださいよ」 「努力はしよう」 「――レクランに、公爵位を継がせようと思っています」 む、とリーンハルトが唇を引き締めた。レクランはアリステアの一子。いずれ公爵位を襲うことに疑いはない。だがしかし、レクランはいまだ十二歳に過ぎない幼い少年。 「後見はしますよ、私も。ですが、爵位そのものはレクランに。お許しいただけますか、陛下」 「――理由は」 「難しい話でもない。――この一連の騒擾は、私がスクレイド公爵であったからだ。そうでしょう?」 そのようなことはない、リーンハルトは即座に言い返そうとする。だがアリステアの目を見た途端、言えなくなった。 エレクトラが夫の愛を望み果たせず、公爵家反乱を画策することで彼女は夫に切られた。それを望んでいたのでは、とリーンハルトは疑っている。アリステアの母ウィリアは自ら権力を望み、血の魔術師と共謀した。アリステアを王位に、果たせずばレクランを。そうして起きた内乱。ウィリアの死霊は元王妃の生家に影響を及ぼし、アンドレアス誘拐へと繋がっていく。 「ほら。すべて私が公爵だったからだ」 「だがアリステア! お前のせいというわけでは」 「私のせいだと思いますよ。エレクトラを放置したのも、何よりウィリアを放置したのも私ですから。まぁ、それは済んだこととしてしまってもいいのですよ、従兄上」 「済んだことだからな。全部お前が自身で片付けてしまった」 自らの咎だというのならば、その罪を彼は自身で贖ったとリーンハルトは言い切る。アリステアはリーンハルトの助力あってのこと、と思うのだが。 「けれど、今後は? また再びスクレイド公爵反乱を言い立てられたら?」 「そのたびに」 「潰してまわっては国力が落ちますよ。従兄上にそれがおわかりにならないはずがない」 今度こそリーンハルトは唸る。アリステアの言う通りだった。内乱続きの国になる、それでは。何よりアリステアがそれを望まないだろう。 「血の魔術師は、それを狙っていたのか?」 「さて」 「なにが目的だったのか……私にはいま一歩理解ができん」 「戦場に血をもたらすこと。そして神なのか悪魔なのか、彼の主人を復活せしめること。目的はそれでしょう?」 「だからな、アリステア」 それそのものが目的では、手段と目的を混同するにもほどがある、リーンハルトは眉を顰める。あの血の魔術師は、主人を復活させることでどのような利を得たのか。それがわからないまま決着がついてしまったことが懸念にもなっていた。口許を引き締めたリーンハルトにアリステアはかすかに微笑む。 「なにがおかしい」 「従兄上」 不意にリーンハルトは目を瞬く。アリステアが神官の顔をしていた。真っ直ぐとした灰色の眼差し。神の言葉、とは思わない。だがひとつの真理。 「あの者が何を目的として、何を画策したのかなど考えるのはおやめなさい。闇の歪理など、人が知るべきではないのです」 そういうものだとアリステアは言い切る。リーンハルトには、王には、別の言い分があった。けれどしかし、神官が、何より信頼するアリステアがそう語る。 「……納得はしがたいがな」 「狂人の言動を理解したとき、人は狂気に陥るのですよ。それだけのことです」 「言いたいことは、わかるが……」 結局のところ大山鳴動して鼠一匹、というところ。勝利のなんのと言ってはいるが、特に何かが変わったわけでもないラクルーサ。あるいはそれこそが勝利。リーンハルトの思考の推移を見定めたよう、アリステアが微笑む。 「なので従兄上。どうぞお許しを」 レクランを新公爵として認めてほしい。アリステアは傍らの王に請願をする。このような形ではあった。けれど何より真摯な願いだった。 「……わかった」 ほっと息をついていた、アリステアは。これで身軽な体になる。さすがに無位無官とはいかないけれど、スクレイド公爵という重い身分ではなくなる。リーンハルト王の傍らにあれど、最低限反逆を疑われることだけは。 「なるほど。では、城に暮らしていただくぞ。アリステア『王子』」 「な――!」 「忘れていたな? 私はお前から王子の称号を取り上げた記憶はまったくないのだが」 「待ってください、従兄上!」 それではよけいに悪いだろう。慌てるアリステアに案外悪い手ではない、とリーンハルトは考えはじめていた。 「なに、寵姫を一人養うようなものだと思えばいいのだ。どうだ、アリステア。私に養われる気はないか」 「……言い方が悪いでしょう」 「国王からの下賜金で暮らす気はないか、と言えばいいのか?」 「そちらの方がまだましですね!」 「だが、それでは反逆の資金も出んぞ? お前が疑われる要因がまた一つ減ることになる。ではその線で行こうか。アリステア王子」 「ですから、それをやめてください!」 「お願いを聞いてやってもいいのだが。それでは聞けんな」 ふふん、と笑う珍しいリーンハルトだった。アリステアは苦笑して彼を抱き寄せる。軽いくちづけが熱くなり、アリステアはリーンハルトを抱き上げては寝台まで。勝利の宴の翌日のこと。女官たちは丁重に王の朝寝を見過ごすことにした。 アンドレアスはレクランという無二の友を得た。若き新公爵の下にいずれ姫が降嫁する、と考えたものも多くいた中、彼が伴侶としたのは身分高からぬマルサド神の信者の娘。周囲の雑音など何ほどのものでもなく、夫妻は睦まじく生きた。娘の一人がアンドレアス王の王太子妃にと望まれ、彼女もまた夫との間に多くの子を儲ける。三番目の王子は、マルサド神の恩寵篤く再び王家の守護者、と呼ばれることになる。 リーンハルトの治世は決して穏やかではなかった。隣国と魔族と。戦乱の絶えることがなかった日々。だが彼とその伴侶とは王子たちに束の間の平和を与えることには成功する。不敗の王リーンハルトの傍らには常に軍神の写し身たる伴侶がいたと伝えられている。それでいてなお、シャルマーク平定は千年の時を待たねばならなかった。 |