死に瀕した悪霊の絶叫。それは並の人間ならばその場で絶命するも余儀なし。レクランは、ラクルーサのみならずミルテシアの陣までをも守る。神官として、そればかりは見過ごせないと。
 ただビンチェンツオの傍らにいたリーンハルトまでは、とても。アリステアは自らを守ることができる、彼はレクランよりなお素晴らしい神官なのだから。
 強張り、蒼褪めたリーンハルトの顔。レクランは動きたくとも動けない。その腕の中、アンドレアスを守護していた。
「あ――」
 咄嗟に父が王の手を取る。そしてアリステアはそのまま馬上にてリーンハルトを抱え込んでいた。片手に剣を持ち、片手に王を抱き。
「従兄上!」
 目の焦点の合わないリーンハルトを強引に抱き寄せ、アリステアは唇を重ねる。だがそれは、くちづけではなかった。口中で祈りを捧げる。祈りそのものを叩き込むかのような。
「息吹せよ。我が神の御名の下、死は汝を避けん」
 唇が離れてもまだ詠唱は続いていた。次第に戻るリーンハルトの生気。アリステアはほっと息をつく。かすかな笑み、ただそれだけが返答。ほんの呼吸の合間ほどの出来事だった。リーンハルトが深く息を吸い、そして終わった。
「おのれ――。おのれ――!」
 悪霊が歯噛みする。がちがちと鳴る歯の音が聞こえるほど。そのようなものはない影ですら。すでに立ち直ったリーンハルトとアリステア。双方に対峙した。
「おのれ忌まわしき怨敵よ。血を捧げよ、肉を捧げよ。叶わずんば我が主復活の贄としてその魂を捧げよ――!」
 悪霊の手が動き、ビンチェンツオが再び剣を掲げる。アリステアとリーンハルトと。狂気ならばこそ敵うはずのない二人に対峙する。否、一対二ではどのような相手であっても無茶が過ぎる、と気づくだろうに。だがビンチェンツオは血走った目をしたまま二人に切りかかる。そうしようとする。
 そのときだった、ラクルーサ陣から聞こえてきた歌声。レクランが歌う、マルサド神の鬨の歌。ふわりと場に風が立つかのよう。ビンチェンツオの意気を挫き、ラクルーサの戦意を高揚せしめる。レクランに騎士たちが唱和をはじめ、大きくなっていく歌声。
「ぐ……ぅ……っ!」
 悪霊が、その歌声に苦しんでいた。神なる歌のせいか。アリステアはここぞと切り伏せようと。だがしかし、悪霊もただで滅びる気はないとばかり身をくねらせ果たせない。
 そこに、不思議な響きが加わった。澄んだ、男にしては高い歌声。騎士たちの歌に重なって聞こえたそれは、だがしかしマルサド神の歌ではない。あたかも世界そのものが歌っているかのごときその響きに導かれ、アリステアの剣が輝きを増す。爛と煌めく剣に悪霊が怯んだその一瞬。
 神剣の光輝が悪霊を穿ち。そのとき、戦場に死が撒き散らされた。レクランの守護すら突き破り、倒れて行く双方の騎士たち。リーンハルトもアリステアの強い守護がなければ危うかったかもしれない。それでいてすら、彼は唇を噛み破ったのだから。
 悲鳴、苦痛。揺らぎ消える影が。濃い煙のようになり、風に流され薄れて行く。それでもまだ足掻いていた。アリステアは直感的に理解していた。いまここで逃せば、再び戻ってくることを。
「我が主よ、我が神よ。何故にお見捨てになるのか――いやさ、我が魂こそ主に委ねん!」
 薄れ行く影が発した断末魔の叫び。アリステアは確信する、二度と再び戻してはならないと。ここで影を滅せずば、悪霊が戻る。それだけならばまだよい、だが影の言葉は悪霊の主人たる魔族の復活をも示唆していた。
「させるか」
 ついにアリステアの神剣が影を捉えた。マルサド神の導きか、後になってアリステアがそう考えたほどの絶技。滑り込むよう影の中心へと。実態を半ば失くしつつあるそれが、神剣に捉えられた瞬間再び実体を取り戻し、そして闇色の血にも相当するような何かを吹き出し。
「……終わった、か」
 長い息を吐くアリステアだった。疲労が激しい。詠唱を続けながら戦うなど、アリステアにしてそう何度も経験があることではなかった。
 悪霊が滅びた途端、場が動きはじめる。否、そう感じただけだろう。時間にすればほんの短い間であった。動きを留めていたビンチェンツオの騎士に扮していた魔族がリーンハルトに向かい出す。
「愚かな」
 リーンハルトは一撃でそれを下し、アリステアもまた同じ。ビンチェンツオはいかに。どうしたらいいのかわからない、そんな目をして周囲を見回す。そして決意したのだろう。事ここに至ってはと。
「おのれおのれおのれ――!」
 ビンチェンツオにとってはアリステアとリーンハルトこそが敵だった。この隣国の二人さえいなければ、自分に王冠が転がり込んできたものを。血の魔術師に操られ、アンドレアスを誘拐せしめようとしたことなど彼の脳裏にはすでにない。血の滲んだ眼から涙を零し涎を垂らし、ビンチェンツオはアリステアへと切りかかる。
「もう休むがいい」
 それはあるいは慈悲だった。アリステアは軽く剣を振っただけ。ただそれだけでビンチェンツオの頭が転がり落ちた。大地の上、ころころと転がり、自ら殺した父の傍ら、その目はぽかんと開かれたまま。ついで馬上の肉体が血を吹き出し、崩れ落ちる。狂乱する馬は死体を脚にかけ、逃げ出した。後に残るは踏みにじられた遺骸のみ。
「ドゥヴォワール・サクレなる血の魔術師を使い魔族に与するか。ミルテシア堕ちたり!」
 ビンチェンツオ死亡の一瞬、静寂が戦場を支配していた。そこにリーンハルトの宣告。王たる者の威風辺りを払う声音。戦場の隅々にまで響いた。
 わっと上がった歓声はラクルーサ。ミルテシアが、誰からともなく逃げ出そうとしている。リーンハルトはにやりとアリステアを見やったのみ。
「参りますか」
 神剣を振れば、血が落ちる。ビンチェンツオの血、影の淀んだ闇色。いずれも痕跡すらなく輝く。リーンハルトはそんなアリステアに救われたよう微笑んだ。
「……わかってますよ」
 馬上での囁き。真っ直ぐと前を見たままのアリステアだった。それにリーンハルトはうなずく。喚声に棹立ちになった馬はリーンハルトの手綱によって制御され、そしてアリステアと共駆けする。後続の騎士たちを待つことなく駆け出せば背にまとった外套が風をはらむ。
 先頭にあるは国王リーンハルト。そして彼を守護するスクレイド公爵アリステア。ミルテシアの狼狽、筆舌に尽くしがたし。戦い方の差、国情の差。そのようなものを吹き飛ばす二人の姿。自らの騎士を引き連れて戦場を蹂躙する二人。
 至るところで悲鳴が上がっていた。一方的というもおろかな戦いだった。虐殺にも等しい。リーンハルトがそれを拒みたかったと、アリステアだけは知っている。
 だがしかし、そうはできなかった。ここに至っては、騎士たちが、国が、納得をしない。国王として、ラクルーサを体現する存在として、ミルテシアを蹂躙せねばならない。
 剣を振るたび、人が死ぬ。そのような繊細なことを考える身ではない。国王とは、最も多くの死者を出す者を言うのだから。常に傍らで剣を振るアリステアの存在がなければ、リーンハルトはどうなっていたことか。
「救われるものだな」
 不思議そうなアリステアだった。散々に蹴散らされたミルテシアは陣など壊滅している。いまは小集団になっているおかげで、かえってラクルーサの襲撃を逃れていた。
「なにがです?」
 一旦砦に戻っていた、ラクルーサは。本隊が砦の外で夜営をし、国王は厚く守られている。夜の帳が落ちかかり、ラクルーサも戦場の熱意が落ち着いたころ。
「お前がいてくれることが、これほどありがたいと思ったことは……何度もあるがな」
「従兄上」
 からからと笑うアリステアだった。神官として、人の命は守りたい。軍神の使徒として、戦いには勝つ。それをアリステアはどう折り合いをつけているのだろう。聞いてもおそらくアリステア自身、答えられない問題なのだろう。リーンハルトは問わず、ただここにいてくれることのみを享受する。
「さて、ここからが難しいな」
「凱旋では?」
「そうしたいところだがな。私個人は」
「なにも重臣どももミルテシアを併合せよ、とは言わんでしょう」
「言いたそうだったぞ?」
 アリステアは天井を仰いでいた。この場に限ってならば、不可能ではない。このままミルテシアの王都まで進軍することも、できなくはないだろう。
「老人どもは、政治をなんと思っているのやら」
「偉大なるリーンハルト王ならば可能、と思っているらしいな」
「無茶を言う。進駐軍による統治ほど難しいものはないというのに」
 首を振るアリステアにリーンハルトは莞爾としていた。アリステアが理解しているのならば、それで万事問題はない。その眼差しに気づいた彼が嫌な顔をしたが。
「私はただの神官で公爵にすぎませんよ」
「公爵に過ぎない、という語がおかしいだろう」
「従兄上がすべてを握っているのですよ。そういう意味です」
「だからな、お前がいる。お前が、スクレイド公爵が、という意味ではないぞ。マルサド神に認められた武闘神官がここにいる。その武闘神官が、よい顔をしない、それはどういう意味だ?」
「……あまり我が神を政治に利用してほしくはないのですがね」
「だが神の意志だと私は思うよ」
 アリステアはラクルーサの騎士たちにとって、現世に降臨した軍神と見做されているらしい。砦に戻ったリーンハルトはすでに何度かそのような言葉を耳にした。それだけ、戦場でのアリステアは素晴らしかった。
 その男が、ミルテシア併合をよしとしない、それは騎士たちにとって欲を戒める神の言葉に聞こえるだろう。リーンハルトはそれでいいと思っている。正にアリステアこそ、リーンハルトにとっては神の言葉に等しいのだから。
「従兄上がそういう態度だと、またぞろ俺が謂われないことを言われるじゃないですか」
「聞き流せばいいだろう」
「俺は、聞き流しますよ。聞き流せないのは誰です?」
 にやりと笑うアリステアにリーンハルトは肩をすくめた。その拍子に腕が滑る。おっと、呟いたアリステアが抱きとめた。
「陛下。ご気分悪しくあられましょうや」
 長湯に不安になったのだろう若き騎士の声。問題ない、と言葉を返すリーンハルトを抱きつつ、アリステアは身を縮めていた。騎士はいまだアリステアが共に湯殿にいるとは気づいていない。




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