ラクルーサから、悲鳴が上がった。騎士たちはその眼前でスクレイド公子レクランが燃え盛る槍を腹に受けたのを見てしまった。ぶすぶすと焼け焦げる臭い。 「ははははは――! どうだ、見たか――っ!」 槍を投じたビンチェンツオの哄笑。言葉もなくリーンハルトが前に出ようとするその一瞬、アリステアが動いた。 その手には騎士から奪い取った槍。まるで先ほどのビンチェンツオを鏡うつしにしたかのように。アリステアは自らの首から聖印を引きちぎり、槍に巻き付けビンチェンツオへと投じていた。 「そんなもの――!」 易々と避けるビンチェンツオだった。アリステアであっても、レクランの有様に狙いを外したか。リーンハルトは唇を噛む。だがしかし。視界の端、アリステアの歪み笑う唇。 「お前なんぞ相手ではない」 呟いたかのようでいて、戦場に響き渡った。そしてそのときには、あたり一帯を揺るがすかのような、絶叫。ビンチェンツオには掠り傷すら負わせていない。アリステアが投げた槍は、彼を逸れ、彼の馬の足元へと。その、影へと。 「な……っ」 動揺するビンチェンツオだった。自らの喉が発した絶叫。だが彼の意志ではない。うろたえるビンチェンツオにアリステアは一足で迫る。途端にビンチェンツオの剣が跳ね上がった。 「なぜ、わかった……」 陰々滅々とした響き。ミルテシア陣までよく届く。何事が起きたのか、双方が動きを止めた。ミルテシアはいっそうに。ビンチェンツオに加担すべきかどうか、これは正義か。否、ミルテシア国としてなすべき行いか。戸惑っていた騎士なればこそ。 「わからいでか」 ふん、と鼻で笑うようなアリステア。彼の目には見えていた。ビンチェンツオの影に潜んだ悪霊が。血の魔術師のなれの果てが。聖なる神の剣を引き抜いたその輝き。ビンチェンツオならざる男が怯む。 「往生際の悪い。あの場で果てていればいいものを」 レクランの手で、マルサド神の光で。滅したはずの血の魔術師ドゥヴォワール・サクレ。ビンチェンツオの影から立ち上がる。薄れ揺らぐ、実体のないものとして。 「貴様……何者だ……!?」 ビンチェンツオこそ、驚愕に叩き落されていた。自らの影からそのようなものが。死んだはずの男の面影が淡くかそけく。それでいてなお忌まわしいその表情、死んだことによってドゥヴォワールという男の本性が明らかになったかのように。 「貴様の操り手よ。人形は、人形らしくいればよい」 大地の底から響くような悍ましい声音だった。ミルテシアが完全に動きを止めた。ラクルーサも警戒は解かず。それでも前進は止めた。対峙する二人を見守るは、リーンハルトのみ。 「人形。なるほど、人形か。息子の手によって壊されたのは貴様の人形、と言うわけか」 「ほう……さすが、と言っておこう。スクレイド公よ」 にやりと影が笑う。薄れ揺らぎあるいは確固と。表情など定かではない。それでいて顕著にわかる禍々しさ。人間が、見てはならないものだった、それは。昼の陽射しすら翳っていく。 アリステアは一人、得心していた。レクランの祈りが、マルサド神御自らの光が血の魔術師の肉体を滅した。だがしかし、悪霊と化した。そのようなはずは。マルサド神に過ちなど。神官として考えてはならない疑問を持ちかねなかったアリステアはいまこそ安堵する。 マルサド神に疎漏などなかった。あの瞬間、ドゥヴォワールは確かにあの場にいた。けれどしかし、それは人形でしかなかった。肉でできた生き人形。恐るべき忌まわしさ、と言わねばならない。 それを破壊され、ドゥヴォワールは確かに一時的に力を失った。いまもこうしてビンチェンツオに取り憑くことで、力を保っている。もしビンチェンツオが勝てば、血の魔術師は肉体すら取り戻すのだろう。 「なにが、おかしい。スクレイド公よ」 「たいしたことではない。ビンチェンツオが勝てば、お前はその肉体を使うのだろうと思ったのみよ」 「――若く優れた肉体だ。悪くはない」 内に籠るような笑いの響き。ビンチェンツオは目を見開く。何を言っているのだと。そして彼は理解する。すべてが、自分の意志ではないのだと。いまここにこうしていることさえも。 「違う違う違う! 王を殺したのは、私だ!!」 私の意志だ、ビンチェンツオは叫ぶ。それがミルテシア軍にどのような影響を与えるかも忘れてしまったように。一人、また一人と足を引いて行くミルテシア。剣は下ろされ、楯は伏せられ。ビンチェンツオは気づかない。一人、狂乱のただ中に。 「ビンチェンツオを殺して、人形とする。――か。なるほど」 「殺せるものか。影ごときに、私はミルテシアの王冠を継ぐ王子だぞ!」 くつりと、と影が笑った。誰にも見えなかったのに、戦場すべてでそれは感じられた。気の弱い兵が吐き気に苦しむ。それは連鎖し。 「ひぃぃぃあぁぁぁあああ」 ビンチェンツオが、叫びながらアリステアへと切りかかってきた。そのような腰の定まっていない剣。アリステアは避ける手間すらかけない。首をかしげる、ただそれだけ。 「なんだこれはなんだこれはなんだこれは――!」 泣いていた、ビンチェンツオが。剣を振りまわし、アリステアを切ろうとし。ミルテシアにはわからない。王子が、狂気に陥ったのだとしか。ラクルーサには、愚か者の所業と映っただけ。相手はスクレイド公爵にして武闘神官アリステア。国で一二を争う剣の使い手に、あのような剣など届かない。冷笑するラクルーサ騎士たち。 一人、リーンハルトだけが険しい顔をしていた。彼だけは、正確に二人の、否、アリステアの状態を理解している。悪霊に、その肉体を操られ狂乱するビンチェンツオ。自らの意志ではなくその肉体が動くとは、いったいどれほど恐ろしいことかとリーンハルトも考えないでもない。 だが、それ以上に不安はアリステアにあった。いまも口中で詠唱を続けているのがリーンハルトには感じられている。悪霊には聞こえているのかどうか。それまではわからない。だがリーンハルトには感じられた。アリステアが、全身全霊をこめて彼の神に祈っているのを。悪霊を顕在化させ、現世に留め、切る瞬間を。今度こそ滅する瞬間を狙っているのが。 ――アリステア。 マルサド神に祈ることはしなかった。代わりに彼の名を呼ぶ。アリステアの祈りの一助に。そのようなことを考えたわけではなかった。ただアリステアを祈った。 不意に一陣の風。ラクルーサの陣から上がる、それは喜びの声。アリステアが遊びのよう切り結んでいたビンチェンツオであり悪霊である男がはっとする。 「……な」 愕然とする、などということがあるのだろうか、悪霊にも。ビンチェンツオの目は大きく見開かれ、影に揺らぐ薄い実体もまた揺れる。 「レクラン様――!」 ラクルーサの陣が沸いていた。腹に槍を受け、大地に膝をついたレクラン。傍らでは、下馬した王子アンドレアスが彼の背を支える。そしてレクランは顔を上げ、アンドレアスに手を差し伸べて微笑む。立ち上がる。易々と。 「ご心配をおかけしました」 「大丈夫?」 小さな小さな二人きりの会話。子供たち以外には届かない。そっと笑みをかわしあい、二人は同時にうなずいた。 アンドレアスには、確かに見えていた。炎の槍がレクランを貫く場面が。レクランが、槍を受けて落馬したのが。だがしかし、いまのレクランは外衣に焼け焦げを作っているだけ。 ほんのりとレクランはアンドレアスに微笑む。そして父と王と、悪霊とを見る。挑戦的な眼差しだった。 「たかだか悪霊ごとき。傷をつけられると思いましたか。炎の槍は燃え尽き、私に届く前に燃え落ちていたものを」 だがしかし、あれをアンドレアスが受けていたならば危なかった。レクランだからこそ。マルサド神の恩寵あるレクランゆえに、守られた。毅然と立つ少年の姿。ビンチェンツオがわなわなと震えていた。 「愚かなりミルテシア! マルサド神の加護篤き王家の守護者に敵うと思うたか!」 冴え冴えと澄み切った少年の響き。アンドレアスの朗々とした声音は戦場に響き渡る。にやり、アリステアが口許で笑った。 ――アリステア。大丈夫なのか。お前は。 レクランの無事にリーンハルトは息をつく。だがしかし、アリステアの口許、血が見えた気がした。すぐさま唇を噛んで隠してしまった男だった。 「ほう……」 だがリーンハルトより敏く気づいたのはドゥヴォワール。血の魔術師なればこそ。ビンチェンツオの手が伸びる。アリステアを捕えようと。 「腕が足らん」 技量に劣るものに囚われる自分ではない、嘯くアリステアだったがひやりとしてはいた。詠唱に、喉が破れたのが痛い。せり上がってきた血を飲み下すのが一瞬遅れた。これをドゥヴォワールに使われれば、ここからでも血の魔術師は逆転が可能だろう。それを否応なしに感じる。 「ならば!」 「させるか!」 同時に動いた、リーンハルトへと。端然と馬上にあるラクルーサ王を狙おうと。それをさせるアリステアではなく、ビンチェンツオには技量が足らない。まして。 「甘い」 リーンハルトが抜き放った剣、一閃。ただそれだけで届きもしていないビンチェンツオの前髪がはらりと落ちる。愕然と足を止めたのはビンチェンツオではなく、悪霊。 「我々に敵うと思うことがまず甘い」 観戦に徹しているリーンハルトだった。本当ならば、戦いたい。だがしかし、衆人環視の戦場中央。アリステアを救えても、ラクルーサの品位が欠けては。 ――そもそも助力などアリステアに対する侮辱ではあるな。 内心で鼻を鳴らす。アリステアの詠唱が完成を見れば。そして悪霊さえ滅せば。何の不安もない。だが、それまでが長かった。再び風が立つ。にやりとアリステアが笑った気がした。自陣から吹き来る風はレクラン、と言った。彼の祈りがアリステアを支える。共にマルサド神に祈りを捧げ。 「ここまでだ――!」 アリステアの剣が消えた。そう見えるほどの鋭い剣。ビンチェンツオは動けず。ただ目を丸くするのみ。だがその剣は彼ではなく、突如として揺らめく影へと振り下ろされる。影は嘲う。実体の薄いものを切るなどと。だがしかし。 「従兄上――!」 此度の絶叫は悍ましい上にも悍ましく、忌まわしい上にも忌まわしい。レクランが捧げた祈りがラクルーサ陣を守る。そしてアリステアはリーンハルトの腕を取る。 |