国境大河の砦付近、両軍が展開していた。ラクルーサの軍もすでに河を渡り、ミルテシア側にいる。互いに矢の距離を隔てて睨みあう。 それでいて、これは戦争ではない。まだいまのところは。両国王が会談する、そのための設えだった。開けた場所の中央、すでに両軍から出た使節たちによって会談場所が設置されている。床几と小卓、簡易な野営用のもの。頭上を覆うためだけの天幕。ただそれだけ。 ――天幕は、嫌だな。 まだ軍中にあるアリステアは内心で顔を顰めていた。たかが布一枚。それでもあるとないとでは視界の開け方が違う。 「従弟殿。そろそろか?」 にやりと笑うリーンハルトにアリステアは口許で微笑んだ。国王の大度を見た思い。この状況にあり、ましてリーンハルトは悪霊の存在をすでに知っている。それでいて一切の緊張が彼にはない。それだけ篤い信頼を感じた。 「そろそろでしょう」 ミルテシアからの招き、という形になる。会談を望んだのはミルテシアゆえに。砦の賠償、たったそれだけであっても両国王が出座すればこれほどのことになる。 「戦いに、ならねばいいのですが」 近衛騎士団の長が呟く。真っ当な騎士だ、とアリステアはうなずいた。戦いこそが騎士の華。だが、それを望む騎士は愚か者と断じねばならないだろう。リーンハルトを守護すべき近衛騎士とあってはなおのこと。 「アンドレアスを頼むぞ」 「は――」 「差し出がましいとは思うが、グレンを頼む」 「なんの。心強いばかりにございます」 実際にアンドレアスを守護するのはグレンだった。本来ならば近衛騎士、王子の守護ならば彼らがすべき。だがしかし、相手は悪霊だった。騎士団長にだけは、リーンハルトは言ってある。ゆえに、グレンの力が必要だ、と。 グレンは取り立てて強い力のある神官ではない。一介のマルサド信者に過ぎない。だが同じ信仰を持つアリステアがここにいる。グレンを介し、アンドレアスを守護することが彼にはできる。 そう、近衛騎士団長には言ってあった。事実は少しだけ違う。アンドレアスを守護しているのは、レクランだった。この混沌とした状況にあって、アリステアは二つのことを同時にはできない。リーンハルトとアンドレアスと。 一方を見れば一方が疎かになりかねない。そして疎かになった方は確実に死を見る。それだけは、断じてあってはならない。だからこそレクランの助けが必要だった。 「では、行って参ります。アンドレアス様」 にこりと微笑んだレクランは従者として王旗を持つ。公爵家の嫡子がそれをする。近衛の中には感動に身を震わせている者もあった。 「参ろうか」 ミルテシアからの使者がやってきた。リーンハルト国王をお招きする、型通りの挨拶。リーンハルトは鷹揚にうなずき立ち上がる。 「従兄上」 軍装も美々しいその背にアリステアが外套をまとわせた。みっしりと重たい、王に相応しい深く昏い蒼をした天鶩絨の外套だった。リーンハルトの目より重々しい色合いはミルテシアの使者をもが一瞬は見惚れるまでに美しく彼を飾る。 会談には、両国王と側近が一名。そして従者が一名。ただそれだけ。中央の開けた場所で、両軍の目にさらされながらの会談だった。 あちらの側近は何者か。リーンハルトは知らない。アリステアをちらりとも見ず、けれど彼はかすかにうなずく。 ――なるほど。ずいぶんと甘く見られたものだ。 無言のアリステアの示唆。重要な人物が出てきているわけではないと。確かにリーンハルトにも見覚えのない男だった。それはそれでかまわない、とリーンハルトは思う。現時点で勝者はこちら。敗者が遜った態度を示した、とも考えられるのだから。ミルテシア王旗を持つのはあちらの近衛騎士の様子。近衛の紋章も輝かしい若き騎士だった。その顔が歪む。いまだ少年でしかないレクランを見たのだろう。そして彼が身につけたスクレイド公爵家の紋章に目を見張る。 ――公爵家の嗣子が王の従者は確かに珍しいからな。 あり得ないことではないが、長年にわたって反逆を疑われている男の息子が、こうして王旗を持つ、その意味があちらには当然にして理解できるだろう。スクレイド公爵家は罷り間違っても王家を裏切らないと。傲然と顔を上げたアリステアがリーンハルトの傍らにあった。 「ご機嫌よう、リーンハルト王」 双方が下馬し着座するなりだった。鈍い声をしていた、ミルテシア王は。ビンチェンツオが第一子であることを考えれば当然にしてリーンハルトより遥かに年齢は上だ。だがそれ以上に老いた雰囲気。目許に深い皺があった。 「砦の件だが」 率直に本題に入ったものだ、リーンハルトは苦笑する。まだリーンハルトは一声も放っていないというのに。それだけミルテシアの苛立ちが感じられた。 事実ミルテシア王は苛立っている。ビンチェンツオの無様が今日の日を招いたかと思えば、腹立たしくてならない。なぜ自分が頭を下げねばならないのかとすら思う。本陣に戻したビンチェンツオが、せめて国の役に立つことだけをいまは願う。 その王がふと顔を上げた。リーンハルトもまた。否、アリステアが最も早い。何事、呟くような声音に緊張。 「父上――!」 騎士の一隊を率いて走り込んできたのはビンチェンツオだった。馬の蹴立てる埃が舞う。ミルテシア王が顔を顰めた。突撃してくるだろうことは予測済み。だがそれにしてもあの小勢、あれでは意味がない。だがラクルーサにとっても不意の出来事。 「何事だ。無礼ぞ」 ラクルーサ王のいる前で騒ぐでない、言いかけたミルテシア王だった。ほんの一瞬、本陣に向けて合図を送ろうとする間際。その言葉が止まる。ぽかん、と口を開けていた。 「な……」 側近が目を瞬く。王旗を持った騎士が旗を取り落しそうになる。慌てて握りしめた旗竿。ぐらりとかしいだ王旗が、本陣に異変を知らせた。 「お別れの挨拶を、と思いまして」 馬上から、ビンチェンツオが笑っていた。手には抜き身の剣。すでに父王の血に汚れていた。腹を貫き通したそれを引き抜き、ビンチェンツオは更に笑う。音を立ててミルテシア王が大地に崩れた。 「はは、ははは……っ! 死んだ、死んだぞ!! これで私が国王だ。いままで私を嗤った者共め、見るがいい!!」 ぶん、と剣を振れば血飛沫が。すでにアリステアは剣を抜いている、リーンハルトもまた共に。レクランはただ立ち尽くしているかのよう。本当は違う。即応の体勢に彼もまたあった。 彼らはただ動かなかっただけだ。ミルテシア王を救う理由が彼らにはない。たったそれだけの理由。動けないと誤認したビンチェンツオの高笑い。共に駆け込んできた騎士たちが一斉に剣を抜く。 「死ね、死ぬがいい。我にその血を捧げよ――!」 歓喜のビンチェンツオの絶叫だった。ミルテシア本陣にまでそれはよくよく聞こえた。騎士たちが、兵たちが、動揺する。いったい何があったというのか。動けないミルテシアに、ビンチェンツオは驚喜していた。 「愚か者どもめ。馬鹿者どもめ。我のものだ。我のもの――!」 ビンチェンツオは剣を振りまわし、簡易の天幕を切り裂き哄笑し。彼の騎士たちがアリステアたちに向かうも一撃で弾かれた剣。むっとしたビンチェンツオ。抵抗する、とは思いもしていないその有様。 「無様な」 呟くようなアリステアの声が届いたのかどうか。かっとビンチェンツオの頬が赤くなる。だが、その影が。揺らぐビンチェンツオの影が。剣から滴る王の血。大地に落ち、そして吸い込まれて行く。 わっと喚声が上がった。ついに自らを取り戻したミルテシアが動こうとしている、否。ラクルーサの方が早い。 「従兄上!」 ここまで乗ってきた馬の手綱をアリステアは放る。過たず取ったリーンハルトは一動作で馬上へと。そのときにはアリステアも、レクランすらもが馬上に。 「貴様! 手向かいするか! この私に! 正当な、ミルテシアの支配者に。いや、大陸全土の、いや、この世界の!!」 アリステアは答えなかった。ビンチェンツオの周囲を守る騎士を剥がすのに忙しい。一撃必殺、アリステアだけではなかった。リーンハルトもまた。 使われなかった小卓が戦闘に弾け飛ぶ。共に剣を振るえば柱ごと天幕が薙ぎ倒され、ビンチェンツオの馬がたたらを踏んだ。 「いいものだな」 「なにを悠長なことを仰せか!」 「この程度、でもあろう?」 にやりとしたリーンハルトにまた一人、騎士が倒れる。絶技だった、二人のそれは。レクランですら息を飲むような剣技。遠くミルテシアから吐息が上がる。一つ一つは小さなもの、けれど全軍とあれば。 「な――!」 そしてミルテシアは声を上げた。ビンチェンツオを守る騎士たちの一人、アリステアに突撃をするその拍子に兜が飛んだ。そして、そこにあるのは人間の顔ではなかった。 歪んだ戯画のようなその頭部。人間に似て、けれどまったくの別物。そこには、魔族の姿があった。両軍からあがる悲鳴と怒号。 「かまわん、やってしまえ! 姿などどうでもいい!」 隠すには及ばない、ビンチェンツオは叫ぶ。それがミルテシア陣に届いた。ビンチェンツオが、魔族と知って使っていたという事実が、届いた。 自暴自棄のような悲鳴だった。それでもミルテシアは戦わねばならない。いまここで逃げ出すことはできない。すでにラクルーサが攻撃をはじめている。降り注ぐ矢、投げられた槍。あちらこちらから呻き声。 「死ね、死ね、死ね!」 リーンハルトに向かうビンチェンツオの剣だった。このようなもの、彼に当たるはずはない。だがアリステアはその体を滑り込ませる。 「どけ! 王の戦いに無礼ぞ!?」 「貴様の相手は私がしよう。栄誉に思うがいい」 悠然としたアリステアだった。剣の一振り、また騎士が一人倒れる。本陣から駆け込みつつあるミルテシアの騎士たち。ビンチェンツオに味方をすべきか。戸惑いながら、いずれとも決めかねて。大地に倒れ、もう動かない彼らの王を見ていた。 「貴様――!」 逃がされたのだ、ビンチェンツオはわずかに思う。この男に、リーンハルトに、体よくあしらわれたのだ、その思いが身を焼くようだった。歪んだ唇から血が滴った。噛み切ったそれを味わい、ビンチェンツオは手を差し伸べる、騎士に。否、魔族に。その手に投げ槍が。瞬く間に炎に包まれた。 「思い知れ!」 そして炎の槍は投ぜられた。アリステアにではなく、リーンハルトにでもなく。本陣に守られているアンドレアスに。 「アンドレアス様!」 馬で駆け戻ったレクラン、はためく王旗。一瞬の差で間に合う。最後に振り返りレクランはビンチェンツオを真正面から睨み据え。そしてその肉体で槍を受け止めた。 |