相手が実体のない悪霊だと言うのならば、砦の騎士とて信頼はし切れない。彼らは断じて操られなどしない、と言うだろう。だが絶対はない。ならば信用できるのは誰か。レクランは考えたのだろう、国王と父、そして自分だけ、と。リーンハルト王は父の手によって神の加護を受けている。父と自分は神官だ。その三人だけがレクランが信頼できる相手、ということになる。
 ――その判断は正しい。
 レクランとアンドレアスがお喋りをはじめたのを境に、リーンハルトとアリステアは部屋を去る。歩きながらアリステアは内心で独語していた。
「アリステア。何を考えている?」
「他愛もないことですよ。従兄上に笑われるようなこと、でしょう」
「ならば言うといい。楽しませてくれてもよいのだぞ?」
 からりと笑う国王の姿に廊下を行く騎士たちの安堵の表情。この数日、何かと立ち働いていた姿を騎士たちも見ている。一段落した、と考えたのだろう、彼らは。
「息子の出来がよいのも困りものだな、と考えていただけですよ」
 くすり、どこからともなく笑い声。リーンハルトではなく、騎士のそれ。慌てて背を返して去って行く後ろ姿にアリステアは苦笑する。スクレイド公爵と雖も息子は可愛いのか、そうとでも思われたのだろう。
「そのようなことを言うでない。レクランは実によい子だろう」
「よい子、などと言うと普通は拗ねるものですが」
「……拗ねそうには、ないな」
「そのあたりが親としては心配でもありますよ」
 確かに他愛ない会話を装ってはいた。けれどリーンハルトも察している。本心からアリステアが不安視していると。
 まるで、神の御許に招かれてしまうのではないか、そのような不安感。レクランは地上の子で、まだたかだか十二歳の幼い子供。それにしては考え方が成熟しすぎていて、それが怖い。
「そのような時期、ということかもしれないぞ?」
 背伸びをしたい時期だろう、リーンハルトの言葉は騎士たちにはそう聞こえた。アリステアには違う。マルサド神の御手が触れているのだとリーンハルトは考えているらしい。
 ――間違いではない気が、しなくもない。
 アリステアは微笑んで会話を続けつつ考えていた。レクランがあの離宮で血の魔術師ドゥヴォワール・サクレを滅したのはさほど前ではない。神の光に打たれて死んだ魔術師。確かに肉体は死した。
 ――だが、マルサド神の鉄槌だと言うのならば。
 その魂が死霊と化すか。アリステアにはそこが疑問でもある。否、恐怖でもある。血の魔術師が仕えていた、シャルマークに眠る悪魔の存在。マルサド神に匹敵すると考えられないか、それは。ゆえに、魂まで焼き尽くされることはなかったと考えられないか。
「アリステア」
 気づけばリーンハルトの部屋に戻っていて、他人はいない。国王自ら茶まで淹れてくれている始末。苦笑して受け取り、口をつければ甘い香り。
「あまり悩むな。――と言っても悩むのだろうが」
「まぁ……」
「お前のそれは、ただ悩んでいるだけだろう?」
 隣に腰を下ろしたリーンハルトに覗きこまれ、アリステアは目を瞬く。何を言われているのか、すぐさまにはわからなかった。
「考えているのならば、いい。だがお前のそれは、わからないことをただぐるぐると巡っているだけだろう? それは悩みですらないぞ」
「あ――」
「レクランのことは、神々にお任せしろ。お前が篤く敬うマルサド神がレクランを悪いようになさると思うか? 神官だろう、お前は」
「はい、従兄上」
 思わず幼いころのような返答をし、互いに瞬く。笑ったのはリーンハルトの方だった。ぽん、と頭を撫でるように叩かれて懐かしくなる。
「幼いころにはこのように言い聞かせたものだったな」
「ずいぶんと色々教えていただきましたよ」
「もっと教えておくのだったな、と思うこともあるが……。私も世故長けている方ではないからな」
「色々?」
 これ以上何を、と首をかしげるアリステアにリーンハルトは片目をつぶる。悪戯っぽい仕種など、自分以外に誰が見たことがあると言うのだろう。アリステアはほんのりと微笑んでいた。
「だからな」
 ひょい、と伸びてきた手がアリステアの首筋を掴む。逃げ出さないように、そんな仕種も見慣れたもの。おとなしくくちづけを受け取りつつ、アリステアは小さく笑う。
「笑ったな?」
「笑いますよ。逃げたりなど、誰がするものですか。そんなに掴まないでください」
「あまり積極的ではないのでな、お前は」
「……一応は、戦地ですし?」
「なるほど、それが理由だったか。納得した」
 気にしていたらしい。知らず、アリステアは吹き出していた。それにまたリーンハルトが嫌な顔をするものだから、笑いは本格的なものになっていく。そうして不安をなだめてくれるリーンハルト。ありがたいと誰に感謝を捧げればいいのだろう。
 ――我が神よ。従兄上をお守りください。アンドレアス様をお守りください。我が子をお守りください。
 内心に祈り、アリステアはそっと苦笑する。やはり、自分にとっての順番はそのようなものなのだと。それでもやはり、レクランはこの手にあって欲しい。
 ――どうぞ御許に召さず、地上での幸いを。
 まだまだなにも知らないに等しい幼い子供。無二の友を得たばかりのレクラン。アンドレアスと共に地上の幸福を享受してほしい。
「また難しい顔をしているぞ?」
「戦地ですからね」
「私が隣にいるのにか? 中々に不敬、と言わざるを得んな、それは」
「ご無礼を。陛下」
 にやりと笑うアリステアにリーンハルトは大らかに笑った。それでいいと言われている気がする。アリステアの目にそうと読み取ったリーンハルトの目が笑った。
「従兄上がいらっしゃる限り、俺は無敵な気がしますよ」
「そのとおりだろう?」
「過信は身を亡ぼす元、ですよ」
「うん? 過信しているのは私なのか、その言いぶりでは」
 さてどうでしょう、アリステアは笑う。互いにこうしてある、それだけで充分だ。まったくなんの関係もない。ただ不思議と勝てる、たとえそれが悪霊であろうとも。マルサド神がこの手に勝利を授けてくださる、それを疑うことなく信じることができた。

 本陣に戻ったビンチェンツオは、異様なものでも見るような目で迎えられた。無理もない、と誰もが言うに違いない。ビンチェンツオは王の陣を出たときとは変わっていた。彼自身には変化はない。だがしかし、いったいどこから湧いて出たのか、数名の騎士隊を引き連れている。その誰もが、深く兜をかぶり、人相すら定かではない。本陣の騎士たちは首をひねり眼差しをかわしあう。
「知っているか?」
 ぼそぼそと呟く声がそこかしこで。ビンチェンツオ王子が連れているのならば、近衛か、それに近い騎士だろう。あるいは母の生家の騎士、ということも考えられる。だが彼が連れている騎士たちの鎧にも楯にも紋章はなく、人づてに聞いてもいずれから派遣された騎士たちだ、という話がまったく聞こえてこない。
「まるで、どこぞからか湧いて出たかのようだ」
 素性の知れない騎士、否、それはすでに騎士ですらない。単なる戦士、あるいは剣士だ。そのような輩を堂々と連れ歩くビンチェンツオを見る騎士たちの目は冷ややかだ。
「陛下の――」
 お言葉は外交上のものではない、ということか。誰からともなく言いはじめる。ビンチェンツオは確かに側室の子。だがミルテシアでは紛れもなく「王子」と呼ばれている男でもある。本人はいたく第一王子ではないことを不満に思っているらしいが。
「だが、あれでは――」
 王冠を得る王子、というものは近侍にも心配りをしなければならないだろう。たかだか側近の騎士、それでもたかだかその程度のことにすら配慮ができないものにどうして国を治めることができようか。
 ミルテシア本陣では急速にビンチェンツオの評価が下がりはじめていた。どこからともなく聞こえてきた話もある。ラクルーサの王子を誘拐せしめるつもりだったと。
「まだ小さな子供だと言うが」
「いや、王子と呼ばれているのならば年齢は無関係だろう」
「とはいえ年端もいかない子供を誘拐というのは。さすがに」
 ミルテシアの国の品位が疑われるだろう。騎士たちの渋い顔。勝てばよい、というのは下賤な考えだ。騎士たちには重んじるべきものがある。名誉。それをビンチェンツオはどう考えているのか。素性の知れない男たちを連れ歩くビンチェンツオは、騎士たちの声など聞こえてもいないよう胸を張っていた。

 そろそろミルテシアからの使節が来るだろう、と予想していたところにやはり、やってくる。リーンハルトは使者を丁重にもてなした。使者は宣戦布告書を持参したわけではないのだから。
「お話の筋は、理解した」
 本来ならば宮廷で、侍従長が読み上げるのを聞くリーンハルトだ。だがここは戦場で、文官はほぼいない。傍らにあり、書状を読み上げるのはアリステアだった。朗々としたその声の響き。使者が気圧されるのをリーンハルトは感じている。
「ラクルーサ王国、リーンハルト国王陛下におかれましては、いかがなされますでしょうか」
 真っ直ぐと顔を上げ、王の眼差しを受けるなど無礼ではある。しかし戦地なればこそ使者が屈すれば、ミルテシアが屈したと同義。使者は果敢に顔を上げ続ける。いつ何時ラクルーサ王の怒りによって首を落とされるかわからない。使者とはそのようなものであり、ゆえに誇るものでもある。
「ミルテシア王の提案を飲もう」
 ほんのりとリーンハルトの目が和んだのを使者は見ただろうか。リーンハルトの隣にあるアリステアに彼の顔は見えない。だが使者が思わず息を入れたのだろう、肩先が動いたのが見えていた。
 ――よほど、不安か。
 その原因は、自国にあるのか。それともリーンハルトにあるのか。アリステアに判断はつけられない。むしろ両方、というところなのだろう。使者とは危険な任務でもあるのだから。
 そうしてラクルーサ、ミルテシア両国王の会談が実現することとなった。互いの陣から等分に離れたほぼ中央の地点。見晴らしのいい場所だった。アリステアは思う。奇襲はしにくいが、軍は動かしやすい場所だと。




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