砦から逃亡を果たしたビンチェンツオは、苛立ちながら駆けていた。至るところにラクルーサ兵の目があるような気がしてしまう。ここはミルテシア国内だというのに。
「くそっ」
 自国でこのような思いをするとは。王子の自分がたった一人で逃亡している、それもまた苛立ちを誘う。誰ぞが迎えに来て当然ではないか。否、軍をあげて出迎えるべきだ。ビンチェンツオはまずい糧食を齧り、吐き出す。
「このようなもの――!」
 王子が口にするようなものではない、断じて。ラクルーサの軍用糧食だった、逃亡の手伝いをしてくれたあの小柄な男が用意してくれたもの。ビンチェンツオは下層の平民兵が食べるようなものを用意した、と言って投げ捨てようとする。毎度のことだった、捨てようとして、ためらい、そして忌々しく食べるのは。食料は、これしかない。ビンチェンツオは知らない。リーンハルトですら、行軍中はこれを口にするのだとは。ミルテシアとラクルーサの気風の差異、という以上のものだった、それは。ビンチェンツオはどれほど周囲に甘やかされ、腫物に触るよう接せられていたのか、気づいていない。側室の生まれであり、父に第一王子と認められなかったことが彼を卑屈にさせていた。だからこそ、王子たらん、血筋正しい王子よりなおミルテシアに相応しくあらんとしたはずが。
 ミルテシア王も人間だった。ビンチェンツオの性根を見抜いていたわけではない、ただ父として我が子が不憫でもあった。側室生まれでは、と言い募る臣下を抑えきれなかった。ならばこそ、庶兄としていずれ弟の玉座を支えてやって欲しい、第一の騎士として守ってやって欲しい、そう願っていたものを。厳しく接した結果がいまを招いたとも言える。いずれも、間違いではなかったはずだった。
 ビンチェンツオが内密に砦に向かっていたミルテシア王の陣に駆け込んだのは夜も遅い時間になってからのこと。近衛騎士団を連れた王の陣。誰何にビンチェンツオは横柄に自分を誰と心得る、と怒鳴る。
「――ビンチェンツオ殿下!」
 驚いた騎士の声に胸がすく。たった一人で敵陣を破ってここまでたどり着いた自分、というものが晴れがましくなる。父はどれほど褒めてくれることだろうかと。
「――ビンチェンツオか」
 王の面前に出れば、頬の削げた父の姿。老いたな、ビンチェンツオは思う。胸を張り、いずれその座には自分がと内心で嗤う。
「何をしている、ここで」
「……は?」
「手勢はどうした」
「あのような者共など! ラクルーサに媚を売り」
「自分はただ一人敵を破って見せた、とでも言うつもりか」
 言葉を遮る王の眼差し。ビンチェンツオは呆気にとられる。正にそのとおりだった。ならばもっと褒めてくれてもいいはず。ぐるりと周囲を見回せば、近衛が嘲笑っている気がした。
「すでに、ラクルーサより書状が届いているわ。――無事王子は帰着したかとな」
「私が逃げたと言い立てたいのでしょう! 私は」
「あちらが手引きしたのだと、言っているがな」
 まさか、ビンチェンツオは笑う。砦にミルテシアの斥候が忍び込んでいるのも気づかなかった阿呆どもが。あり得ないとビンチェンツオは笑う。
「お前など持っていて有効な人質ではない。それはリーンハルト王も私も理解の上だ」
「な――」
「隣国の王子をどう扱うか。国家の名誉にもかかわること。リーンハルト王にお前は殺せん」
 だから逃亡を装って逃がされたのだ、ミルテシア王は冷ややかに言い放つ。根本的な問題がいま眼前にある、と王は落胆よりなお冷たいものを抱えていた。
「お前は、アンドレアス王子をどのようにするつもりだった。噂によれば、慰み者にしてくれると言い放っていたそうだが」
「捕虜などどう扱おうとも」
「馬鹿者が――!」
 王の怒号に騎士たちが目をそむけた。ビンチェンツオの言っていることは間違いではない。それがただの捕虜ならば。ミルテシア王の言ったよう、相手が高貴の人間ならば話は違う。隣国の王子を慰み者になど、風聞が立った時点でミルテシアは国の品格を疑われる。それをビンチェンツオはどう考えていたのか。否、考えてすらいなかったのか。
「お前は――」
 考えていなかった、とまざまざと見てしまった。ぽかんと開けられた口に王は何を言うことも忘れた。手を振り、退出を促す。
「父上!?」
「お前は本陣まで下がるがいい。いずれ名誉を取り戻す機会もあろう」
「ですが」
「下がれ、と言っている」
 氷のような目にビンチェンツオは唇を噛みしめた。土を蹴り、背を返す。近衛の誰もがビンチェンツオを笑っていた。否、そのような気がしただけ。
「陛下――」
 側近の小さな声がビンチェンツオには聞こえた。いずれ自分を嘲笑う声だろうと思うと聞く気にはなれない。そのまま陣を出てビンチェンツオは言われた通り本陣へと。考えていることがあった。にんまりと唇が歪む。
「よろしいので?」
 側近の騎士が王に問うていた。ビンチェンツオの考えていることが彼にはわかっているのだろう。王もまた、気づいている。
「あれは私の命など聞く耳は持たん。ならばそれでよし。本陣に戻り、我々が会談している間にも突撃してくるだろう」
「それでは、陛下が」
「なに、わかっていればどうということもない。そなたらには苦労をかけるが、頼むぞ」
「は――!」
 ラクルーサは突撃されるなど夢にも思わないだろう。そこにミルテシアの総攻撃。王と近衛騎士たちは知っている。本陣に連動し、動くことができるのはミルテシアだけ。この戦い、勝てる。王の口許に歪んだ笑み。
 この時点で、ビンチェンツオは本当に捨てられた。ラクルーサとの折衝で王子の称号を持たぬ、としたビンチェンツオだったが命まで取ろうとはミルテシア王は考えてはいなかった。だが事ここに至っては。
 ――捨て駒として、国のために働くがいい。
 ミルテシア王とビンチェンツオと。互いの考えがすれ違い、けれど相乗し、別の効果を生んでいく。まだ誰もそれを知らない。
 一方砦ではアリステアを伴ったリーンハルトが子供たちの部屋を訪れていた。アリステアがレクランに例の件を告げるため。そろそろビンチェンツオも王の陣に到着するだろう。数日を経ているが、アリステアは斥候をビンチェンツオに張り付かせている。手助けには及ばないが、王の下まで気取られることなく誘導せよと。着実に入ってくる情報にアリステアは安堵してもいた。
「ビンチェンツオはどうしました?」
 本来、アンドレアスにはいかな帝王学として必要なものとはいえ早すぎる話題でもある。だがリーンハルトはそれを望んだ。それを慮って王子ではなく口を開いたのはレクラン。かすかにリーンハルトの目が和む。
「無事、と言っていいのかどうか。明朝にでも知らせが入るだろうが。王の陣にそろそろ到着するだろう」
「ご無事で何よりです」
「レクランは、相手の無事を喜ぶの?」
 アンドレアスの不思議そうな声音にレクランが苦笑する。敵なのだからどうなろうとも関係がないではないか。そんなアンドレアスの率直な正義感。
「いいえ、アンドレアス様。剣を交えれば敵であり、容赦の必要を認めません。それは敵にとっての侮辱となる。ですが、人として、無事は祈ります。そのようにありたいものです」
「それはレクランが神官だからだろ。僕は――」
「僕も不愉快ですよ? 言葉を飾らずに言えば、この手で叩き殺したい気分で一杯です。だからこそ、事故で死なれてはつまらない。正々堂々戦場で殺してくれます」
 にこりと笑うレクランにアリステアは天井を仰ぐ。言っていることは一応は正しいような気がする。神官としての言葉も、レクラン個人の思いも。
「さすがお前の息子、と言うべきか」
「従兄上」
「間違っているか?」
 にやりと笑うリーンハルトにアリステアは肩をすくめるだけ。二組の親子がいるだけの場だからこそ。さすがに己の騎士にも見せられるものではなかった。
「何はともあれ。ビンチェンツオが王の下に辿り着けば、事態は動くぞ」
「陛下のお考えをお聞かせいただけますか?」
「父に聞いた方がよいだろう。勝たなければならないときに勝つということに関しては私よりアリステアの方が上だぞ」
「マルサド神の神官ですからね。軍神の神官に負けは許されないのです」
 悪辣なことをしてでも勝つときには勝つ、と言わんばかりのアリステアだった。実際にはそのようなことはない。そのような手段を取らずとも、アリステアは勝つ。ゆえに、マルサドの神官とも言えた。
「殿下には――」
 言いかけたアリステアをじっと見つめてくるアンドレアスの不満げな眼差し。誘拐され、戦場にある。この短期間でアンドレアスは成長したよう、アリステアは思う。
「アンドレアスには、不満なことだと思うが。レクランを借りるよ」
「おじ上のよいようになさってください! レクランは武勲を上げて帰ってくるのでしょう?」
「そうなればよいのだがね」
 父の口調にレクランはそうはならない予感がした。求められているのは神官として神の加護を願うこと。そのとおりだ、無言の父の目が語る。
「またも剣の通用しない相手となればな」
 肩をすくめたリーンハルトにアンドレアスが不思議そう。父王とアリステアと。二人揃っていて通用しない相手などいるのかと言わんばかり。それにアリステアは概略だけを話すと決めた。幼いアンドレアスが詳細を知る必要はない。同時にレクランはそれで理解ができる。おそらくは神官として。それをアリステアは疑わなかった。
「悪霊、ですか?」
 お伽噺のようだな、とアンドレアスは首をかしげる。が、実際にその目で見たことでもあった。悪霊と死霊と、何が違うのかはわからなかったけれど、死んだウィリアに取り憑かれていたロックウォールに囚われた自分。この世にはそのようなものが存在する、とアンドレアスは身に染みて理解していた。
「となると――」
「アンドレアス様。僕は父の手伝いをせねばなりません。ですからアンドレアス様は、近衛の誰かと共にいてくださいね」
「うん……。でも、砦の中は嫌だ。レクランが見えるところがいい」
「もちろん。陛下のお許しがあれば、ですが。一番前で見ていてよいのですよ」
 それならば、とアンドレアスが目を輝かせる。リーンハルトに否やはなかった。むしろ驚いていた。アリステアをちらりと見る。レクランに話してあったのかと。だが尋ねるまでもなかった。彼の灰色の目の中にもやはり、驚愕が浮かんでいた。




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