アリステアが、自家の兵とすることは不可能ではない。アリステアがアリステアでなければ。ただの公爵家の当主であれば可能だった。 だがしかし、常に謀反を疑われ、現在では王の寵臣でもある彼だった。アリステアの一存ではどうにもできない。むしろ、拒否するのが常道ではある。 ――まいったな。 アリステアとしては、救いたい気持ちが充分にある、それを除けば。根本的な問題として、シャルマークの前線送りなどラクルーサ側が流した風聞に過ぎない。だがここで否定は出来かねたし、リーンハルトならば何事もなく彼らを養う気がしなくもない。 それをこの場でアリステアが決めることができない、それだけだった。だが、そう口にしてしまってはミルテシア勢の口をも閉ざさせることになる。兵たちの目、騎士たちの眼差し。何かを言いたそうにしているものが確かにいるのだから。 「ふむ……」 アリステアが考える様子を見せるなり、兵たちが騒めく。希望が繋がった、そう感じているのだろう。騎士たちもそれを咎めることはしないしできない。兵たちよりなお強くビンチェンツオに見捨てられた失望を抱えている彼らだった。 「こ、公爵様――」 高位の貴族に直接に語りかけることなどしたことがないのだろう彼らだった。言いよどみ、きょどきょどと周囲を見回す。 「お館様はお優しい方であられる。そう気張らずともよい。率直にお話しするがいいぞ」 アリステアの騎士がかすかに微笑んで兵へと助言をしていた。それにミルテシアの騎士が目を伏せる。自分たちの主人とアリステアとを。否応なしに比べてしまったのだろう。 「で、では。その……。騎士さま、その、よろしいでしょうか」 兵におずおずと窺われ、ミルテシアの騎士は力なくうなずくだけ。それに兵が唇を噛む。意を決してアリステアを見上げた。 「このお話しをお聞かせすれば、公爵様のお力になれるのではないかと、思うのです。そうすれば、その――」 「ありがたい話ではあるのだが。今すぐ良い、とは言えぬよ。それでもいいか?」 結局アリステアは率直にそう告げることにした。すでに彼らが話す気になった、というのはもちろんある。だがこう縋られるとやはり、助けたくなってしまうものでもあった。 「もちろんでございます!」 屈託のない、真っ直ぐとしたアリステアの言葉。兵が目を丸くし、ついで破顔する。騎士たちもまた驚いたようスクレイド公爵を見ていた。たかが平民の兵にまで、このように接する男なのかと。否、もうすでにわかっていたこと。兵も騎士も分け隔てなく傷の手当てをしてくれた。 「ビンチェンツオ様は――。ビンチェンツオ王子は、その。えと、公爵様は、あの魔術師をご存じで?」 「魔術師?」 「血を使う忌まわしいやつにございます」 「サクレとかなんとか」 「ドゥヴォワール・サクレ」 兵たちが口々に言うのに、騎士がぼそりと魔術師の名を口にした。アリステアは不意に背筋を這いあがるものを感じる。またかと。まだあの魔術師は祟るのかと。 「王子は、あの魔術師と手を組んで。あの魔術師が王子を誑かして。そんでもって」 「王子はラクルーサを滅ぼして、それから」 ごくりと兵が唾を飲む。色々と言っていたのだろう、ビンチェンツオは。側室生まれの長子にして、第一王子とは認められなかった男。まるでアリステアとは裏表のようだった。 「父上様に認めさせてやるって、それでもだめなら父上様を、亡きものにして。それができると、あの魔術師は」 口にすべきことではない言葉に、兵は泣き顔だった。歪んだ顔は恐怖とわけのわからない感情とでぐちゃぐちゃのまま。ゆえに、嘘偽りない言葉。 「ドゥヴォワール・サクレなる魔術師は、それで何を得るのだろうか?」 ビンチェンツオに加担するのはいい。ミルテシアの玉座を窺うなど、特段に珍しい話でもない。ラクルーサでアリステアが疑われているように。だが、一介の魔術師風情がそのために王子に加担する意味だけが、わからない。 「意味は、わかりません。でも、奴が言ってたことなら――」 「それでよいよ。聞かせてくれるか?」 「は――」 にこりと笑うアリステアに兵はすっかりと憧れの眼差し。内心でアリステアはまたも風聞が立つな、と困惑していたのだけれど。けれどそれ以上に、いまここで耳にするはずの一言が重大な意味を持つ、その予感。マルサド神に囁かれたかのように。 「――あの魔術師は、血を捧げろと。ミルテシアの、ラクルーサの血を捧げて。それでいいと」 「王子は平民の血でもいいのかって」 「それでは足らないけど、それでもいいって。あとは量で賄うからって」 「そんで、シャルマークにいる主人を目覚めさせるんだって、あの魔術師は!」 その「主人」が何者かなど兵は知りたくもない、と恐怖に顔を強張らせていた。レクランが見聞きしたものをいま、アリステアも知った。血の魔術師が、アルハイド大陸を戦乱に落とし込み、その血をもって。 ――魔族を目覚めさせる、か。 内心で顔を顰める。ミルテシアは、これを知っていたか。否。知っていたのならばいかなミルテシア王であれ、自らの手でビンチェンツオを処断している。ならば、いまだ王は知らない。ビンチェンツオを我が子ではないと言い切って見せたミルテシア王。父の治める民草の血を魔族に捧げることすら厭わず玉座を求めたビンチェンツオ。 ――最悪だ。 アリステアはなるほど、とうなずいて見せつつ背筋が冷えている。レクランは血の魔術師はマルサド神の光に討たれた、と言った。確かにそのような形跡をアリステアも見た。ならばこの不安感はなんだ。否、レクランは更に言っていた、違和感のようなものを覚えたのだと。はっきりとした言葉にならない何かを彼も感じてはいた。 ――我が神に手抜かりなどあるはずもないが。 これがマルサド神の予定の中であるのならば、安閑としているわけにもいかなかった。ミルテシアの次は、ラクルーサだ。ビンチェンツオを逃がしたのは早計だったか。 「わかった。しばし待て。我が王にご報告してのこととなる。よいか?」 ありがたいありがたいと涙を零す兵たちにもう一杯茶を振る舞うよう言いつけ、笑みを含んだままアリステアは部屋を出て行く。途端に顔つきが変わった。 「お館様――」 「事実と思うか?」 「嘘にしては壮大にすぎましょう」 「同感だ」 騎士が語ったのならばあり得る。だが兵がしたにしては作り話にしても度が過ぎる。グレンもまた顔色がよくなかった。 「お館様のご懸念の元は?」 「ビンチェンツオがいまだ血の魔法の支配下にいる可能性だ」 「ですが、魔法というものは術者が死ねば解けるもの、と聞き及んでおりますが」 「死んでいると思うか? 正確に言えば、亡霊の類になっていないと言い切れるか?」 グレンが息を飲む。彼もまたマルサドの信徒として、レクランが語った言葉を信じていた。レクランは事実を語っていたとしても、十全の真実ではなかった可能性。そして違和感の正体は、血の魔術師の魂が滅びていなかった、その事実ではないのか。 「もし亡霊となっていたら。もし亡霊が魔法を使えるのならば。もし亡霊となっても以前の魔法の支配が解けないのであるのならば」 仮定ばかりで話にならないが、ビンチェンツオはこの大陸の破壊者となるかもしれない。そしてそれをミルテシア王ですら知らない。ビンチェンツオを利用して、ラクルーサが接収した砦の取引をうまく終わらせる程度としか認識していなかったとしたら。 「こちらの兵はどうなっている?」 国境大河を渡った時点で、近衛騎士団は王都に伝令を走らせている。リーンハルトの勅令として兵力の結集を告げている。すでに各騎士団はこの近隣にまで達しているはずだ。 「ミルテシアが見て取れる距離にもう充分な兵力が集まっております」 「そうか……」 ならばミルテシアも同じ手を打っているはず。アリステアの思考に添うよう、先ほど斥候がミルテシア国軍の先遣隊を発見した報告があった、とグレンは言う。 「仕掛けてきそうか?」 問うてから、アリステアは苦笑する。仕掛ける気配が見えたならばその時点でグレンは進言してきている。ならばミルテシアも考えることは同じ、ということ。互いに兵力を見せつけ合い、そして取引だけをする。 「……そういうことか」 お館様、いかがなさいました。グレンの声を背中に聞いた。アリステアは足早にリーンハルトの下へと戻っていく。スクレイド公爵が砦を走ったりすればいらぬ不安を与えかねない。だがいまほど走りたいと思うことはなかった。 「従兄上!」 室内に駆け込んだアリステアは一人きり。さすがにグレンは遠慮した様子だったが、アリステアは気づきもしなかった。目を丸くしたリーンハルトがアリステアを迎える。 「どうした、従弟殿? それほど慌てて。お前らしくもない」 「慌てもします」 「レクランが子でも産んだか?」 「……それは、慌てますね」 だろう、とリーンハルトは笑う。戯言をぬかされて、息をつく。そんな自分と気づいて笑い、ようやくグレンが遠慮したのにも気づくありさま。 「それで何があった?」 捕虜と話をしてきただけにしては動揺が激しすぎる。おおよそスクレイド家の兵にしてくれ、とでも言ってきただろうとリーンハルトは思っている。その程度のことならば、アリステアが慌てる理由などないはずなのだが。 「お前の兵にするならば、追認してもよいよ。いずれどこかで面倒は見ねばなるまい」 「その話は後です。従兄上――」 真っ直ぐなアリステアの灰色の目。リーンハルトは首筋を冷たいものに撫でられた感触を覚えた。これはなんだ、とアリステアの目を覗き込む。先ほどアリステアが見てきたのは、聞いてきたのはなんなのだと。 「我が国の兵力が、集まっていますね? ミルテシアもです」 「当然だな」 「ビンチェンツオが、もしまだ血の魔術師の影響下にあったら? 魔術師の目的をお覚えですか」 「シャルマークの主人に血を捧げ――」 目覚めさせること。言いかけたリーンハルトの言葉が止まる。高貴の血を望む、そう言っていたと聞く。だが、兵の血も血は血。理解が及んだとの証しにリーンハルトの顔から血の気が引いて行く。 「どうしますか」 「……ここで、退けと? できないぞ、それは。ミルテシアが攻め込めば、血の魔術師の画策に乗るも同然だ」 「まず、宮廷魔導師に話を。それからです。血の魔術師の画策を確定させましょう」 間違っているとは、アリステアは思わない。リーンハルトも。互いに一度手を取り合う。握った手の熱さ。うなずきあい、なすべきことを果たしに向かった。 |