砦の一部が騒然としていた。捕虜たちの部屋だけが。ラクルーサ騎士の誰かが迂闊にもビンチェンツオ逃亡を漏らした、ことになっている。実際はグレンの指図で意図的に知らされたもの。
「王子が……」
 ラクルーサ王をこの砦で暗殺する、など妄言としか思えない作戦を指示してきた王子ではある。けれどあり得ない、よもや配下を捨てて逃げ出すとは。
「だが。しかし――」
 あの王子だ、とはミルテシア騎士には言えない。代わって口にしたのは兵。咎めるはずの騎士たちは総じて無言のままだった。
「食事の時間です」
 ラクルーサが運んできた食事は粗末ではあるが、捕虜のそれとしては充分なものだった。温かく、腐ってもいない当たり前の食事が供される。それが大変な厚遇だ、とミルテシアの騎士たちは知っている。
「体調の悪いものはいないか? いれば遠慮なく申し出るように」
 微笑みと共にラクルーサ騎士が言うのにも、涙が零れそうだった、ミルテシア勢は。ビンチェンツオ王子が、自分たちを見捨てて逃げたとあればなおさらに。
「――我々を懐柔しようとの策だろうが」
 ミルテシア騎士の苦い口調にラクルーサ騎士が首をかしげる。何を言っているのだとばかりに。そしてぽん、と大らかに手を打つ。
「なにか誤解があるようだが。お館様――アリステア様は常にこのようになされるぞ?」
「常に?」
「そう、常に。敵であろうとも人は人、そう仰せになる」
 マルサドの神官でいらっしゃるからな、と騎士は笑った。そのような態度を取る公爵を、国王はどう感じているのだろう。考えるまでもないようにミルテシア勢は思う。窓から覗き見た二人の姿。完全な信頼を公爵に与えている国王。
「言うまでもないが、アリステア様のよいようにするといいと仰せになったのは陛下であらせられる」
 だからこれはラクルーサ国王の意志だ、と騎士は朗らかに言った。敵ではある。戦場に戻れば刃を交えることになる。それでもいまはこうしてここに共にある「人」だと。
 捕虜として、これほどありがたい言葉もなかった。いずれ自分たちはラクルーサの捕虜としてシャルマークの戦場の最前線に肉の壁として投入されるのだろう。けれどそれまでに、万が一にも武勲の一つでも立てれば。否、ラクルーサに有用な情報の一つでもあれば。
「……スクレイド公爵との面談は、叶うだろうか」
 ビンチェンツオ王子逃亡を知らされて二日、ミルテシア騎士たちは悩み抜いた。国を裏切ることになるのではないか、そう言ったものも確かにいる。だが、ビンチェンツオのしたことは彼らの規範に照らし合わせて正しいとは言えなかった。自らの主であったからこそ、目をつむっていたものを。見捨てられてまで彼のなしてきたことに無言を貫くのは正しいことか。それはかえってミルテシアのためにならないのではないか。
「たとえ裏切り者と呼ばれようとも、ビンチェンツオ様が万が一にも玉座に就くようなことがあれば」
「その方が、国にとっての裏切りではないだろうか」
「見逃すことは、出来かねる――」
 苦い苦い言葉。兵たちは騎士の議論を固唾を飲んで聞いていた。もし騎士の言葉が通れば、自分たちは死なずに済むのかもしれない。シャルマークで犬死する運命を覆せるのかもしれない。そしてその結果が、スクレイド公爵への面談申し入れ、だった。
「ようやくか」
 長かったな、と言わんばかりのアリステアだった。たった二日ではあるが、騎士たちの意志を挫いた方としては気がかりではあった。あのまま頑固に粘られても面倒が増えるだけ、とアリステアは考えている。
「何を言ってくると思う?」
「さて? 兵たちも含めての命乞いだとは思いますが」
「聞くのか?」
 それをあなたが言うな、とアリステアは笑った。ミルテシア勢の命を握っているのは自分ではなくリーンハルトだと。それに顔を顰めるリーンハルトはもうすでに彼らはいないもの、として扱っているのだろう。
「いても面倒、逃げられても面倒。ビンチェンツオよりなお面倒なのだぞ」
「捕虜などそのようなものですよ。食わせるだけでも出費です」
「涙ぐましい話をするでない、公爵殿」
「これは失礼」
 にやりと笑うアリステアの首を掴み、リーンハルトは笑って唇を合わせる。強引な素振りにアリステアの唇がほんのりと笑みを刻んでいた。
「お前にばかり面倒をかけるな」
「従兄上が出てくると面倒が増えますから。――ですから、一緒に行く、などと仰せにならないように!」
 む、とリーンハルトが黙った。今のいままでそう言うつもりだったのだろう、彼は。ミルテシア勢と取引をするのならばその場で裁可できる自分がいた方が便利だと説得しようと。
「何を言い出すつもりであれ、一度持ち帰る、というのが常道です。そもそも私がその場で決めてよいような話ではないのですからね」
「だから私が共に行こうと言っているのだろうに」
「それを仰せにならないように、といま言ったはずですよ」
 そろそろ時間だった。アリステアは立ち上がり、リーンハルトの額に唇を落とす。今現在、侵入者の報告はない。砦の周辺も完全に探索が済み、危険は限りなく少ない。それでも不慮の事故はあり得ないわけではない。アリステアが席を外すとき、護身呪をかけ直すのはすでに日常だった。
「……アリステア」
 一度手を握り、見上げてくるリーンハルトの昏い蒼の目に彼は微笑む。負担を強いている、と思っているのであろう従兄にアリステアは黙って微笑んだ。そして彼は部屋を出て行く。
 ――負担など。
 リーンハルトの方が重い荷を負っているというのに。玉座を争うような真似をしたくなくて神殿に逃げたときから、リーンハルトに重責を押しつけた自覚はあるアリステアだ。それが国のため、と思っていた。事実、それは確かなものだとアリステアは疑わない。それでもいまになって少しだけ思う。リーンハルトの負担はいかばかりかと。自分ばかりが楽をしているような気がして仕方ない。
「お館様」
 グレンが途中から合流した。配下の騎士から報告を受け、アリステアにまとめて知らせているのはグレンだ。いままでの話もグレンを通してすべてアリステアは知っている。
「殿下はどうしておいでだ?」
「レクラン様とご一緒に勉学に励んでおいでですよ」
「ほう?」
「誰の持ち物だったのか、いささかの書籍が残されていまして。それを利用しての勉学です」
 レクランが講義をしている、とグレンは微笑ましげに語った。真面目に聞き、質問をし。そして疲れたと我が儘を言ってはレクランにたしなめられているアンドレアス。二人の子供はそれなりに穏やかに生活しているらしい。
「早く国に帰りたいものだ」
「お館様のお口からそのような言葉を聞きますとは」
「そうか?」
 珍しいこともあるものだ、グレンが笑う。アリステアは故郷に興味がないのではない、とグレンははじめて知ったのかもしれない。公爵夫人エレクトラがいたからこそ、屋敷に帰らなかっただけであって、ラクルーサという国そのものには愛着がある。ましていまはリーンハルトが治める国。
「少しでも平和な世の中を残したいものだ」
「レクラン様の御為に」
「いや、アンドレアス王子のために」
 失礼しました、グレンがわずかに青くなっては頭を下げる。何くれとなく謀反を疑われている公爵家の騎士としては失言だろう、いまのは。気にするな、アリステアは軽く手を振って苦笑するのみ。スクレイド公爵家の騎士としては公子レクランの行く末こそが気がかりで正しい。
「まだまだ面倒は多いな、色々と」
「お館様ならば」
「と言っても、私もただの人間だからな」
 肩をすくめるアリステアをグレンは眩しげに見上げていた。確かに人間だろう、ただの男だろう。けれどグレンの主はマルサド神に認められた武闘神官。そしてレクランは神に愛されし神官。グレンはすでにレクランの修行の進み具合を知る者の一人となっている。
「私に話があると聞いたが?」
 闊達な男だ、とミルテシア勢は思う。スクレイド公爵本人とは知らなかったが、あの日兵の負傷まで手当てしてくれたときと同じ様子でスクレイド公爵は捕虜たちの前に姿を見せた。
「せめて茶なりと欲しいな。頼めるか?」
 重たい口を開くにはその程度のものは欲しいだろう、アリステアは悠然と腰を下ろしてはミルテシア勢に笑みを向ける。側近らしい騎士が公爵の意を受け、一旦下がっては給仕を連れて戻ってきた。さすがに驚く。
「中々こちらも台所事情が苦しいからな。籠城戦をするほどの物資もない」
 籠城戦はできないとはっきり口にした。今現在ミルテシア本国軍が一番欲しい情報ではないだろうか、それは。けれどスクレイド公は。
 アリステアにしても賭けだった。この情報を本国に知らせることができればと勢いづかれる懸念がなかったわけではない。逆に籠城戦において最も不要なものは捕虜、として殺されると怯えられる可能性も。
 だがアリステアはこんな機会でもないと捕虜にまで茶は振る舞えない、と笑って見せた。しかもラクルーサは騎士だけではない、兵にまで茶を。それにこそ彼らは。
「熱いぞ。気をつけてくれ」
 さすがに騎士たちとは違い、大きな薬缶にいっぱいに煮出された平民風のもの。ラクルーサの茶とあって舌に馴染んだそれではなかったけれど、兵にとってはどこか懐かしいような味がする。思わず涙ぐんだものもいた。
 アリステアは騎士より、兵を見ていた。騎士たちはいずれ捕虜の身でなくなれば主人と仰がれる身分だ。だが兵たちは違う。兵役から戻ったとしても、故郷では捕虜になったという汚名だけが残る。ラクルーサでも実のところはそうだった。ミルテシアの民は捕虜であった兵を温かく迎える、とはアリステアは思わない。同じ人であるのならば、隣国であろうとも似たようなものだろう。
「こ、公爵様――」
 そのせいだったのだろうか。騎士たちより早く口火を切ったのは兵。スクレイド家の騎士がわずかに進み出て止めようとする。公爵に直訴など、とも思ったのだろう。が、アリステアの何気ない仕種に止められた。
「お、俺たちが。シャルマークに送られるって言うのは、ほんとなんですよね。だったら、公爵様の兵にしていただくことは、できませんかね。そのためだったら、なんでもいたします。ですから――!」
 スクレイド公爵の兵であれば、生き残ることができるかもしれない。兵の目に希望が灯る。アリステアは笑みを浮かべたまま、実のところ困っていた。




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