夕刻。アリステアはそっとレクランを呼び出す。何気ない風だったせいで誰もその理由には気づかなかった。レクランもまた、父の要請に笑顔で応えるのみ。 「すまんな」 「お気づかいなく。では」 にこりと微笑んだ息子にアリステアは苦笑する。このような役割など振りたいわけではない、というのが彼には理解できているのかどうか。否、理解した上でなお微笑むレクランと気づく。 「たいしたものだ……」 あの年の自分はどうだっただろうかとふと考えてはまたも苦笑するアリステアだった。 一方ビンチェンツオは苛立っていた。配下の者と再会を果たしたはいいものの、全く覇気に欠ける有様で物の役にも立たない、とビンチェンツオは断ずる。苛立ちのままに物を壊せば、ずいぶんと室内が荒れている。もう片付けても無駄と悟っているのか、ラクルーサのものは顔を出しもしなかった。 ラクルーサにすればこの砦は元々がミルテシアのものであり、リーンハルト王は賠償金と引き換えに返還する、と理解している。ならば大切に扱おう、という気にならなくとも当然というもの。ミルテシアの砦をミルテシアの王子が壊そうとも気にかけるはずもないだけのことだった。 「あれをなんとかせねば……」 配下に戦意を取り戻させれば、充分に勝ち目はある。リーンハルトは手の届くところにいるのだから。数日というものビンチェンツオはそればかりを思っては更に苛立つという状態だった。何をどうすればいいのか、彼には考えがない、そのせい。リーンハルトを殺せばいい。簡単に言うけれど、手段などは配下が考えるもの、と思っている節が彼にはある。その配下が役立たずとなり果て、ビンチェンツオは苛々と爪を噛む。 「お食事をお持ちいたしました」 ラクルーサの騎士の冷たい声音。ビンチェンツオは睨み据えて殴りつけたいのを我慢する。食事をだめにしても再度運ばれてくることはない、とすでに知っている。 ――ミルテシアの王子ともあろう私が。 食事を乞うような真似を強いられている、そう思うだけで腸が煮えくり返る。捕虜とあっては当然、ましてラクルーサに潜入していたビンチェンツオだ、このような危険はあって当然のこととの認識が彼にはなかったらしい。 「そこに置いておけ!」 騎士が冷ややかにビンチェンツオを見やった。言われるまでもない。給仕まではせずともよい、と言われている。黙って置いて出るだけだった。 騎士が出て行くなりビンチェンツオは小卓の側へと近づく。率直に言って空腹だった。それもまた腹立たしい。王子が充分な食事をしていない、など。ここは砦で、最前線にもあたる戦場だとは彼は考えていない様子だった。 「またこれか――!」 軟らかく煮た麦の粥。塊で焼いた肉を削ぎ切ったのだろう小片が何枚か。酒杯に一杯だけの葡萄酒。たったそれだけの粗末にもほどがある食事だった。無論ビンチェンツオはリーンハルトもアリステアも同じものを口にしているとは知らない。むしろ葡萄酒がついているぶん、ビンチェンツオの方がよいものを食べている。 食器を薙ぎ払いかけ、拳を握る。苛立ちのままに掻き込めば、悔しさに涙があふれた。塩辛い粥を飲み下し、葡萄酒を煽る。ふと食器の下敷きになっていたものに目が留まった。 「なに……?」 走り書きだろうものだった。読みにくい字に眉を顰め、ビンチェンツオは目を凝らす。その口許が次第に歪みはじめた。 「ラクルーサの馬鹿どもめ!」 歓喜の叫びをあげそうになり、慌てて口許を押さえる。にんまりと室外を探り、人気を窺う。騎士たちはずいぶんと油断をしているのだろう、はじめのころに比べれば格段に数が少ない。 「馬鹿め」 再びにやりとし、ビンチェンツオは意気揚々と堅い寝台に寝転がる。あとは深夜を待つだけ、と思えば心弾んでたまらない。 食器の下敷きになっていた紙片には、ごく短く「深夜をお待ちくださいますよう。お助けに参ります」とあった。 この砦から脱出を果たせば、どれほどラクルーサが泡を食うことか。それを思うだけで笑みがこぼれる。リーンハルトが狂乱する様を見ることができない、それだけが心残りと思えば苛立ちなど吹き飛んで行くかのようだった。 そして夜は更ける。ビンチェンツオの部屋の周囲を見張る騎士たちはずいぶんと前に交代をし、いまは巡回に出ている。それをビンチェンツオは日常の習慣としてすでに知っていた。だからといって逃げ出さなかったのは、そこから先の手段がなかったせい。忌々しく思っていたところにやってきた天与の機会。ビンチェンツオは平素からそうであるよう、灯りを落として眠りを装っていた。 「……王子」 細く開けられた扉の隙間から忍び入ってきたのは覆面をした小柄な男だった。まるで子供のようでビンチェンツオは鼻で笑うのをこらえる。 「ここだ」 もっとも、敵地に潜入するものは身の軽いのが身上、と聞き及ぶ。この男もそのようなものなのだろう。 「こちらに」 男は愛想なく言うだけで、ビンチェンツオはかすかに鼻を鳴らした。もっと盛大な歓迎があってしかるべきではないだろうか。 「ここはいまだ敵地ですので」 そんな彼の心を察したか、前を見たまま滑るよう歩む男のくぐもった囁き声。それにはビンチェンツオも返答ができなかった。 砦の中を男は熟知しているらしい。灯りのない場所、見張りのいない場所を選んでビンチェンツオを導いて行く。たいしたものだ、と目を見張っていた。 「お前をお遣わしになったのは、父上なのだな?」 「陛下の御手により」 「当然だったな」 ふん、と笑うビンチェンツオは少しずつ自信を回復して行く模様。いままで落ちているとも気づいていなかった肩を上げ、胸を張り。男は頭からすっぽりと、目の部分だけを開けた黒い袋を被っているせいで人相がわからない。訝しいとはもう感じない。父王が遣わしてくれたのならば、まだ見捨てられてはいない、その自信だった。 「この先に――」 砦をもう少しで出るところだった。とはいえ、まだ門までは距離がある。それも日頃は鍛錬に使用されている開けた場所が。 「なんだ」 「ご乗馬の用意が整っております」 「ほう?」 だからなんだと言ったつもりだった。それくらいは当然のことだろうと。よもやここから王都まで歩いて帰れ、とは言わないだろう。 「私は裏門を開けてまいりますので、王子は馬を」 「裏門?」 「表は監視が厳しゅうございますゆえに」 む、とビンチェンツオは唇を噛みしめる。どうやら彼は砦の表門を堂々と突破するつもりでいたらしい。馬で駆け抜けて高笑いをしながら去る自分、というものでも想像していたのだろう。 多少はそんな己が気恥ずかしかったと見える。男に言われたとおり、用意されていた馬の手綱を取る。おとなしすぎる馬で、常ならばビンチェンツオの好みではない。が、逃走に当たっては最適だろう。嘶くこともなく馬はビンチェンツオの手に従った。 そのまま男が消えて行った方へと静かに歩を進める。ラクルーサの騎士たちは愚か者揃い、ということなのだろう。まったく気づかれることなくビンチェンツオは裏門で待つ男と合流を果たした。 「お前の馬は」 待っていてなどやらん。あからさまに顔を顰めるビンチェンツオに男は無言で一礼を。 「私はまだここでの任務が残っておりますので」 「そうか」 「こちらをお持ちくださいませ」 旅に当たっての糧食他幾許かのものが入っている、と男は鞍袋をビンチェンツオへと差し出した。それを受け取り、彼は馬上へと。 「お前の名は。父上にご報告をしておこう」 「名もなき者にございます。ご放念ください」 ならば、とビンチェンツオはもう気に留めなかった。いずれ下賤な任務についているものだ。罪人が死を免れるために軍役についた、というところだろうと考える。 そしてビンチェンツオは男も砦も振り返ることなく裏門から忍び出る。門がぎしりと鳴ったその一瞬だけビンチェンツオですらひやりとした。だがラクルーサは気づくことなくミルテシアの王子の脱出を見逃した。 そのまましばし。男は身も軽く裏門の上へと駆け上がる。見張り台になっているその場所から見晴るかせば、夜闇の中、駆けて行く馬の影。ほっと息をつき、レクランは被っていた布を外す。 「ご苦労」 その場にはリーンハルトが待っていた。無論アリステアも。ビンチェンツオの逃亡を見守っていた二人だった。 「どうだった、ビンチェンツオ殿は」 「口幅ったい物言いですが、ミルテシアの民と生まれずよかったと心から思いました」 「なるほどな」 平素ならばからからと笑うアリステアだったが、夜に響く声を嫌ったのだろう、密やかに含み笑いを漏らす。おかげでひどく人の悪い声に聞こえた。 「嫌な役目を振ったな。レクラン」 「とんでもないことにございます」 「お前の父親はどうにも人が悪くてな」 「返答のしようがないことを口にして臣下を困らせるような真似をなさいませんように」 ぴしりと言い、けれどアリステアはまだ笑っていた。そしてレクランに下がってよい、と目顔でうなずく。リーンハルトも同意のことだと。レクランとしては一瞬であってもアンドレアスから目を離したくない、というのが本心と彼の父は気づいていた。 「さて、うまく逃げてくれるといいのだがな」 裏門の上からまだリーンハルトは影を見ていた。もう闇に紛れて見えはしなかったが。長い溜息はこれで一つ面倒事が片づいた、と語るかのよう。 「再び捕えられるような間抜けはもう殺してもいいんじゃないでしょうかね」 「と言って、殺すわけにもいかん」 「ですね」 だからこそこうしてわざわざ「ビンチェンツオが自力で逃亡に成功した」という形を取るしかなかったラクルーサだった。殺害すれば非難をされる。かといって持ち続けて有効な人質ではビンチェンツオはない。ミルテシア王は公式に我が子ではない、と申し立ててきているのだから。 「いまごろ得意満面だろうと思うと、少々申し訳ないような気もするがな」 肩をすくめたリーンハルトのその肩を冷やさないよう、そんな風を装ったアリステアだった。そっと腕をまわし気分のよくない手段を取った彼の王を慰めていた。 |