ビンチェンツオは砦の貴賓室にいた。国境大河の渡河点を守る砦とはいえ、高位の貴族が訪れることもままある。そのような際の応接に使用される部屋。 だがしかし、ビンチェンツオは苛立っていた。なぜこの自分がこのような場所にいるのかと。指揮官の執務室こそが相応しい自分であるはずなのにと。捕虜である自覚の薄い虜であった。 思い出すだけで腹立たしい、ビンチェンツオは苛立ちの中にいる。砦を奪われたあの日、スクレイド公爵の魔法によって身体を拘束された自分。苛立ちという名の恐怖でもあった。 「父上……」 知らず呟いた声の震え。ビンチェンツオはぎゅっと拳を握り込む。父王から捨てられた、と書状を見せられた彼だった。嘘だ、と思っている。ラクルーサの策略だと。 ――だが、あれは。 確かに父の署名があった。筆跡など見紛うはずもない。それでいて、ラクルーサが作りあげた紛い物と信じたい気持ちもある。 「私は」 決してミルテシアを裏切ってなどいない。あの日の失態のすべてはラクルーサの魔法によるもの。自らの意志ではなく、砦を攻めた覚えはない。そう釈明したかった。 ビンチェンツオはそう考えている。自らが見捨てられた、とするのならばそれが原因だと。ミルテシア王はそのようなことは知らないというのに。砦への攻め手の中、ビンチェンツオがあたかも加わっていたかのように見えたなど、王は知らない。 それが、ビンチェンツオの限界だった。ラクルーサの王子を誘拐し、王に捧げ、自らの功績とする。そのようなことを考えたのも結局は彼自身の中から生まれたものではない。それを彼は自覚していなかった。 「失礼」 ラクルーサの騎士の一人が姿を見せた。物でも投げてやろうかと思うものの、それをしては自らの品位を落とすのみ、ビンチェンツオは青ざめたまま入室してきた騎士を見やるだけ。 「何用だ」 短く言えば嘲笑われたような気すらした。騎士は無表情であったのに、けれどしかしそれがビンチェンツオには嘲笑のよう。 「長らく配下の騎士殿の顔もご覧になっていないでしょう」 「監禁されているからな」 「ですので、少々お時間を作りました。どうぞ」 ビンチェンツオの言葉など聞こえていないような騎士だった。そのような人間が選ばれている。そうビンチェンツオも察した。 「案内しろ!」 声を高めるのも苛立ちの表れ。騎士が薄く笑った気がしてビンチェンツオは舌打ちをする。丁重に聞こえないふりをされた。 捕虜が入っている部屋はむっとした熱気があって、ビンチェンツオは顔を顰める。臭うような気がしたせいかもしれない。実際はそのようなことはない。アリステアは騎士にも配慮をし、殊に兵は気にかけている。捕虜の身としてはあり得ないことに入浴まで許していた。言わなくてよい、とは言ってあったけれど、ラクルーサ騎士は告げている、スクレイド公爵閣下の御指図です、と。 「しばしの間ですが、どうぞごゆるりと」 ラクルーサ騎士が下がっていった。ふん、とビンチェンツオは嘲う。ラクルーサは馬鹿かと。手勢と見張りもつけずに面談を許すなど、愚か者の所業だ。 「……なんだ、それは」 だがぐるりと手勢を見回したビンチェンツオはぎょっとする。誰もが丁寧な手当てを受けた形跡がある。真っ白い包帯を巻いたものがなぜこれほどいるのか。 「貴様ら……ラクルーサの施しを受けたのか!?」 そうとしか思えないではないか。ミルテシアの民たるもの、傷の手当てなどラクルーサ人からされるのは屈辱と感じねばならない、ビンチェンツオはそう信じて疑わなかった。 そのビンチェンツオの目が見開かれた。知らず唇がわななく。それほどの眼差しを受けた。騎士たちはまだよい、しかし兵の目と言ったら。あまりにも冷ややかなその目。ビンチェンツオは腹立ちまぎれ、近くにいた兵の頭を殴りつける。 「なにをなさいますか!」 騎士が止めなかったら更に激していたかもしれない。殴られた兵を仲間の兵が守り、ひと塊となってビンチェンツオを見据える。とても王子に対する目ではなかった。 「……ふん」 身分をわきまえろ、そう言いたげなビンチェンツオ。けれど彼は口にしなかった。できなかったのだとは彼自身気づかない。平民に恐怖したなど、あり得ない。咳払いを一つ。騎士に顎をしゃくって室外を窺わせた。 「……何者が聞いている気配もございませぬ」 「ラクルーサは愚か者の集まりか? まぁ、よい。聞け」 騎士を集め、ビンチェンツオはにんまりと笑う。あの離宮でアンドレアスを暴虐にさらす、と言ったときと同じ顔をしていた。この上ない名案が湧き出る泉のよう浮かんできたのがビンチェンツオは誇らしい。 「話によると、スクレイド公爵の人望は殊に篤いとか」 胸をそらし、貴様らは知らぬことだろうと言わんばかり。兵たちが嗤った気がした。そちらを見やれば、何事もなかったかのよう目をそらす。平民などどうでもよいとばかりビンチェンツオは騎士へと眼差しを戻す。 「当然、国王リーンハルトは警戒していることだろう。ならば、だ」 リーンハルトを唆すことができようとビンチェンツオは言う。スクレイド公爵を我々が除いてやる、そう言えば飛びつくに決まっていると。 「誰しも自分の手は汚したくないものだからな。ミルテシアが代わってやろうと言えば……当然、だな?」 せせら笑うビンチェンツオに騎士たちは言葉がない。それを同意と解釈した彼は話を続ける。雰囲気の変化には頓着しないままに。 「公爵を殺せば、次は国王だ。何しろ手の届くところにいる。油断したあの男を殺すなど赤子の手をひねるようなものよ。そうであろう? 我々は国に帰れば英雄だぞ! 貴様らも我が騎士として、国家の中枢に立つことになる。励むがよいぞ」 どうだとビンチェンツオが騎士たちを見回した。熱狂的な歓声が上がる、とでも思っていたか。けれど白々とした騎士たち。 「……無駄でしょう」 「なに!?」 「国王は公爵を遇すること篤く、公爵は王に対する忠誠の篤さは誰にも譲らないと豪語する。裏切りなど、考えてもおりますまい」 「そんなものは言葉の上だけのものだ!」 「――我々は、見ましたから」 窓から彼らが鍛錬をするのを見た。並んで語らうのを見た。互いの肩を叩きあい、健闘を讃えあうのを見た。 「あれが演技であったのならばラクルーサは俳優の国、ということになりましょう」 「そんなものは――。そもそもリーンハルトという男は」 「スクレイド公を寵愛すること篤く、寵臣としていると聞きます。ですが、それが何か? ラクルーサであるのならばそれは欠点ともなりましょう。ですが我々ミルテシア人は違う。王に子があればそれで問題はないと考えるのが我々でしょう」 「以前こちらに来たロックウォールとやら……。あの男は同性愛者だと言っていたく嫌っていましたが……理解できませぬ」 「我々があの同類になるのは嫌でございます」 口々に言う騎士たちにビンチェンツオは唖然としていた。これは何者だとすら思った。ミルテシア騎士の皮を被った化け物を見たかのよう。 「……貴様ら、ラクルーサに誑かされたか!?」 「無駄死にはしたくない、騎士の誇りにかけて犬死はごめんです」 きっぱりと断言する騎士たちにビンチェンツオは見捨てられた。父王に続いて己が騎士にも。彼はまだ理解していなかったとしても。 「それでもミルテシアの騎士か!」 「そもそも。リーンハルト王は我らが武装することを許しますまい。それほど甘い男ではございません」 ほっそりと優美な男に見えた。戦場よりは絵画の題にでもなる方が似合う男。書物を繙く姿ならば充分に想像できる。だがあの剣の冴え。スクレイド公爵を上回る技。彼らは主人であるビンチェンツオ王子とミルテシア王とを考える。敵わないと。あの二人とこちらの二人を並べてみて、勝てる要素が見つからない。 「軟弱者どもめが!」 かっとしたビンチェンツオに殴られても騎士の意志は変わらなかった。兵たちが騎士の体を支えようと飛び出してくる。それに騎士たちの驚いた顔。捕虜たちはこの期間で団結していた。騎士と兵との差異はあれども同じ捕虜。国の歌を歌い、故郷の料理を懐かしむ、その同志として。ビンチェンツオはそれを共有していなかった。 足音高く部屋を出たビンチェンツオは丁重に貴賓室まで送り届けられた。騎士たちの護衛という名の護送。腹立ちまぎれ、用意されていた茶器を片手で薙ぎ払う。室外に去った騎士にもそれは聞こえていた。 「どうだった?」 ビンチェンツオについていた騎士からの報告を、アリステアは待っていた。非常に不服な顔をしているところから、聞かなくともわかったようなものだったが。 「あれで王子とは、いささか信じがたいものを見た気分です」 「そう言うな。国が違えば人柄にも求められるものにも差はあるもの」 「ですが、お館様――」 近衛騎士を使えば悶着の元、とアリステアははじめから自分の騎士を使っている。だからこそ、騎士も主人に文句を言う。そんな主従をリーンハルトが和やかな目をして眺めていた。王の眼差しに気づいた騎士が慌てて咳払いをして報告を再開する。 「ひどく苛立っておいでのようでした。お部屋に戻られた後は、何やらすさまじい物音がしていましたから――」 「物でも壊したか? かまわんがな、どうせミルテシアの備品だ」 ここはラクルーサの砦ではなく、ミルテシアのものだ。放言するアリステアにリーンハルトが肩をすくめる。そのとおりではあるが、その言い種はないとでも言うよう。王のくつろいだ姿に騎士も気負うことなく報告を済ませて出て行った。 「よかったのか?」 「なにがです?」 「聞かせなかったのだろう?」 アリステアは騎士に室内に入るには及ばない、監視もする必要はないと申しつけていた。それがリーンハルトとしては不思議だったのだろう。 「いいんですよ、聞けば嫌な思いをするだけだ。大事なのは――」 「ビンチェンツオの苛立ちが頂点に達したこと、か?」 そのとおり、笑ってアリステアはリーンハルトに向けて目を細めていた。 |