ミルテシアに激震が走った。ラクルーサからの書状に記されていたのは王子ビンチェンツオの処遇。そちらの態度如何によっては、と仄めかす。そして。 「さて……困ったな」 ラクルーサ側からの使者は王都へ向かう途中でミルテシアの使者と出会った、という。結果、使者の行き来は早くなったのだが、問題はミルテシアが寄越してきた書状だった。 「アリステア」 まず騎士たちに結果を知らせるより先に、とリーンハルトは難しい顔。ここには重臣たちはいない。いまなにを決めるにしてもリーンハルトの一存だ。それはありがたい反面、難局でもある。 「私は関与しません」 「そう言うな。見てくれてもいいだろう」 「私がそれをすれば――」 「内々の話だ。お前に決めろ、と言っているわけではない」 むつりと言うリーンハルトに渋々とアリステアは書状を手にする。一読して、確かにリーンハルトの悩みも理解ができる、そう思ってしまった。 ミルテシア側は言う。「ビンチェンツオなる王子はいない」と。ビンチェンツオは確かに国王の側室が産んだ子ではあるが、王の下に上がるより先に別の男性と結婚をしていた。その前夫の子がビンチェンツオだ、とミルテシアは主張する。 「つまり、捨てたと言うわけですね」 「そもそもはじめからビンチェンツオの独走だったのだろう。そう考えれば辻褄が合う」 リーンハルトはそううなずく。アリステアにも納得のできる話だった。隣国の王子をその国の貴族と謀って誘拐するなど、国王が画策したとなれば全面戦争待ったなしだ。ミルテシア国王が打つ手とは思いにくい。ならば誰が、となればやはりビンチェンツオが。リーンハルトは思うのだが。 「いいえ、従兄上。忘れていませんか」 「うん?」 「魔術師ですよ。血の魔術師。あれがいる。あれの画策だった、と考えた方がずっと自然です」 「だが――」 「えぇ……」 すでにレクランの手を介し、マルサド神が血の魔術師ドゥヴォワール・サクレは滅ぼしている。神にとってはそれでよいかもしれないが、人間社会ではそれでは済まない。誰かが何らかの形で決着をつける必要がどうあってもいる。 「さて、どうするか……」 それに、とリーンハルトは思う。ビンチェンツオは現段階まで、人質だった。砦とビンチェンツオと。引き渡しの賠償金で片をつけるはずが。すべてをビンチェンツオに被せてしまえばミルテシアとしても都合は悪くはないはず。だがミルテシアはそうせず、逆に彼を見放し捨てた。 「こうなると、持っておくわけにもいかない」 「ですね。逃がすのは論外、ですか?」 「逃げられるのは、な」 ミルテシアは見捨てたビンチェンツオに独力で逃走せよとでも言っているのだろうか。本気で捨てたのだろうか。そこが読めない。側室の子ではあろうとも、王にとっては我が子でもある。 「我が子、と思っているかが怪しいですね」 ラクルーサとミルテシア、本をただせばひとつの国から別れた国家。ただそれから時を経て、気性も考え方もずいぶんと変化をしている。ラクルーサの常識がかの国の常識ではない。こうなると難しい問題になってくる。 「かといって、持ち続ければこちらも迷惑をする。亡命? 論外だ。かといって死刑に処する? ミルテシアが文句を言ってくるに決まっている」 王子ではないと言いながら、側室の子であるのは認めているミルテシアだ。最低限、ミルテシアの民であることまでは否定していない。それがラクルーサの手によって処されたとなればまた戦端が開かれることは確定だ。 「賠償関係はどうなってるんです?」 ここまで来たならば、と諦めたアリステアは話を持ち出す。砦と人質との賠償金の話はどうなっているのかと。ビンチェンツオを否定するミルテシアだ、易々と行くとは思っていないが。 「おそらくな、ビンチェンツオを王子ではない、と否定して見せたのもそれだろう。時間稼ぎだよ」 「となると……」 「今現在、軍勢を集めていると聞いても私は一向に驚かん」 リーンハルトの皮肉な笑い。そうなれば他国にいるぶん、ラクルーサは危険だった。一刻も早く、そう考えるラクルーサと引き延ばしを図るミルテシア。 「事実な、騎士たちや砦の人員は賠償金が整うまで丁重に預かっていただこう、と言ってきているだろう?」 書状には高圧的にそう記されている。アリステアとしては意味がわからない。もっとも、高圧的に出る理由がわからないだけで、意図は理解しているが。こちらとしては兵を養うだけでも苦労がある。ラクルーサの騎士が下僕のように扱えば国の評判が落ちる原因にもなるし、悶着は絶えないに決まっている。できることならばさっさと片付けて帰国したい、それが二人の総意でもある。だからこそ、ミルテシアが引き延ばそうとしているのだから。ここに国王リーンハルトがいると知って。 「従兄上に万が一のことがあれば、ミルテシアの勝ちですからね」 「そうはさせんよ」 「誰がさせるものですか。ただ、その際には私の命までは保証できません。お覚悟を」 「……脅迫するな、アリステア」 「しないとどこに飛んで行くかわかりませんからね」 肩をすくめたアリステアにリーンハルトは不満顔。そこまで無謀ではない、と言いたいのだろうが、この場に国王リーンハルトが存在している、ということそのものがまず無謀を謗られても致し方ない事実だ。 「念のために伺いますが、砦を保持するお考えは?」 「あるわけがなかろう」 一刀両断したリーンハルトだった。国境大河を挟んだこの砦をラクルーサが持つのは無理がある。兵をこめていても周囲は全部敵と来ては油断ができない。むしろ攻め落とされて取り返されることが明らかだ。そうすれば兵力が損耗するだけ、の結果になる。 だからこそ、はじめからリーンハルトはこの砦を賠償金で片づけようとしている。いわば国境大河を挟んだ両国の砦争奪に関しての常道と言えた。 「まいったな……」 打つ手を縛られると面倒でかなわない。ただ、時間を稼ぐ、というのならは少々気分の悪い手を使えなくはない、とアリステアは思う。むつりと唇を引き結んだままのリーンハルトに軽くくちづける。 「よせ、アリステア。いまは」 「気分のよくないことを提案しようと思いましてね、従兄上」 にやりとするアリステアにリーンハルトは呆れ顔。それから小さく笑って言ってみろ、と微笑んだ。気分を明るくしてくれたのはありがたい。が、そうせねばならないほどの提案だと悟っていた。 「兵はこちらで養え、と言っているわけでしょう? ならば、それが使えます」 賠償金の用意が整うまで、とミルテシアは言っているが、それは言わずともわかることでもあり、わざわざ言う必要もないことでもある。ならば、とアリステアは言う。 「我々はシャルマークに問題を抱えている。それはミルテシアも同様ですがね」 「アリステア――」 「シャルマークの前線に捕虜を投入する。それをミルテシアが黙認することになった、と風聞を流しましょう」 リーンハルトが黙った。効果的な手段ではある。だがしかし。倫理としては拒みたい。たとえ他国の兵であろうとも、そう考えるリーンハルトにアリステアは柔らかな眼差し。だからこそこの人は王なのだとでも言うような。いっそリーンハルトが大陸を統一してくれればとまで思ってしまう。 「よし、乗ろう」 ぐっと唇を噛んだリーンハルトの決断だった。兵と騎士はどう動くか。ビンチェンツオは結果としてすでに捨てられたも同然。それが逆に使える手になる。王子ビンチェンツオですら見捨てられた。ならば兵はおろか騎士とて。彼らがそう考えない保証はどこにもない。 「アリステア」 「なんで――」 首をかしげたアリステアのその首をリーンハルトは引き寄せる。いささか勢いがよすぎた。まるで噛みつかれるようなくちづけ。リーンハルトの感謝と苛立ちとを感じた。 「従兄上」 離れてから、改めてアリステアがその唇を啄む。ほころぶまで、何度も。少しずつ緩んでいくリーンハルトの唇を感じていた。 「……懐柔されてしまったな」 「はて。なんのことです?」 「いい。仕事にかかってくれ」 ふん、と鼻を鳴らすリーンハルトなど、アリステアしか知らない。くつくつと笑ってアリステアはリーンハルトの下を辞す。離れる前に額にくちづけ、護身呪をかけ直すことは忘れない。 そして部屋を出た瞬間だった、アリステアの表情が一変したのは。それほどアリステアは厳しい決断をした、強いたとわかっている。リーンハルトが取りたくもない手段を取らざるを得なかった。提案せざるを得なかった。 「……ミルテシアめ。やってくれるわ」 ビンチェンツオを見捨てる、たったその一手がここまで影響を及ぼす。ならば逆転の手を探すまで。相手が時間稼ぎをしてくるならば、こちらも稼ぐ。 「グレン!」 腹心の騎士を呼び寄せ、アリステアはグレンに風聞に関してを任せた。グレンも気分のよくない手段、と考えるのか眉根を寄せている。 「グレン」 「は……申し訳ありません」 「気持ちはわかる。従兄上も同じようにお考えだ。が、現時点では最善手だ」 「ご無礼を致しました。すぐ手配を致します」 「悪いな、頼むよ」 ぽん、と肩を叩けば歓喜に頬を染めた騎士の顔。素直に喜んでもらえると感謝のしがいがある、とアリステアは笑う。そんな主人にグレンはもう一度頭を下げて走って行った。 「さて――」 問題はレクランだった。あの生真面目な息子がどう出るか。アリステアは難しい顔をしたままレクランの下に。無論、彼はアンドレアスと共にいた。 「レクラン」 王子に目礼し息子を呼べば心得たレクランは室内で少し王子から離れる。アンドレアスもにこりと笑って聞こえない場所へと座って読書をしていた。 「――と言うわけだ。お前はどう考える」 「僕の考えではなく、無闇に動くな、と仰せになればよろしいでしょうに」 「まぁ、そう言ってもよかったのだがな」 レクランの判断に任せたい気持ちがなかったとは言わない。レクランは不快に感じるだろう、そう考えてくれた父の気持ちこそがレクランはありがたい。ほんのりと笑って不干渉を告げた。 |