レクランはそれを見てとる。宮廷魔導師たちが使う下僕化の呪文、あの哀れな暗殺者に使われた呪文と似て非なるものなのだと。これは神の名の下の呪縛。アリステアが衆に優れた神官であるからこそ、そしてこの一戦にマルサド神がお力添えくださるからこその奇跡。あまりにも鮮やかに発動した神聖魔法だった。 「ほう――」 レクランが確かにそれを理解したのだ、とアリステアは見る。どことなく嬉しいものではあった。が、不安でもある。そんなアリステアをリーンハルトが笑う。 「従兄上?」 「従弟殿でも子息が優秀だと不安になるものだと思ってな。先行きが心配なのだろう?」 「……まずは戦闘に参りましょうか」 むつりと言うスクレイド公を彼の家の騎士たちが笑う。大らかなものだった。そのようなことで気分を害する主人ではない、と彼の騎士たちは知っている。近衛騎士たちがそれを微笑ましげに見ていた。 「では参ろうか」 あまりにも和やかな景色だった。それこそがビンチェンツオを恐怖させる。いまこの瞬間、これほどの非道を働いておきながら、彼らは笑っている。ゆったりと微笑んですらいる。動けないビンチェンツオは何もできず、震えることさえできず。そのまま馬上に押し上げられた。アリステアが何かを言った途端、自らの手が手綱を取る。騎士たちに混じって、まるで自らの意志のよう、国境大河の砦に向かって駆けて行く。騎士たちの上げる喚声。 それを、砦の者も聞いていた。いったいあれはどこから。一瞬の半分ほどは、ビンチェンツオ王子の手勢かと思った。だがしかし、吶喊してくるではないか。まして。 「王子!?」 軍勢の中、ビンチェンツオの姿を確かに見た。慌てふためくミルテシアの騎士たちは、それだけで敗北を決定づけられたも同然。 「続け――!」 グレンの叫びがアリステアの背後で。ラクルーサ軍の先頭を飾るのはリーンハルトとアリステア。王旗はためき、公爵家の紋章鮮やか。まるで錐のよう軍勢を突き進ませる二人。誰かが見分けた、あれはラクルーサ国王と。 「捕えろ!」 好機ではある。否、それだけがあるいは勝機。砦の兵を出動させ、ミルテシア側もまた応戦する。それでもラクルーサの中には。 「ですが、殿下が!」 ビンチェンツオが確かにいる。束縛されているわけでなく、馬上にありこちらに向かってくるミルテシアの王子が。動揺が漣のよう広がり満ちる。 騎士たちの混乱と狼狽と。彼らの主人はいまラクルーサの軍中に。指揮者を欠き、決断力に欠け。ラクルーサを襲撃するはずが、逆に奇襲を受けた。 たった一日。何が起こったのかわからないほどの短時間の戦闘だった。レクランは肩で息をしている。本陣に、と言われたものの、結局はほぼ中ほどで戦っていた彼だった。あまりにも、戦闘の速さが違ったせい。あっという間に押し進められて行く前線がレクランを本陣に留めてはいなかった。後背を突かれることを恐れ、少し前に出たあとは押し出されるままに中段に。 「レクラン!」 馬の前に乗せたままだったアンドレアスが振り返る。きらきらと輝く目をしていた。いつ被ったのか、返り血がその頬に。 「アンドレアス様――」 「すごかった! すごかったよ、レクラン!」 「……はい」 真っ直ぐな眼差しに救われた、ふとそんな気がしてレクランは驚く。後悔などしていない。敵の命を刈り取ろうとも、覚悟の上。いまここにアンドレアスがいる以上、いかなる危険も排除する。そのために生きている。それでもなお。そうアンドレアスに言ってもらえたことに驚くほどの喜び。 ――父上も、こんな気持ちになるのですか。 なるのだろうと思う。ちらりと前線を見やれば、リーンハルトの傍らにあり、王から言葉を賜っている父がいた。 「さすがだな、従弟殿」 「……従兄上が飛び出すからでしょう」 「そうか?」 「否応なしに私まで飛び出ざるを得ない。ご身分をお考えなさいませ!」 「そう言うな。――素晴らしかったよ、アリステア。その傍らで戦えたことは我が誉れだ」 「……ありがとう存じます」 言いたいことはいくらでもあるぞ、そんな風情でありながらリーンハルトは気づいている。アリステアがほんのりと浮かべた羞恥に。こうして戦闘のあと、平素と同じ顔を見せてくれるアリステアがリーンハルトの救いだった。 砦の騎士たちはラクルーサ側に拘束され、その日の晩には砦の頂上にラクルーサの旗が揚がる。それでミルテシアも知ることだろう、奇襲の結果を。事実、はじめてそこでミルテシア王はビンチェンツオの暴走と奇襲を知った。王城で、途轍もない騒動が起こったとはさすがにリーンハルトもアリステアも知らない。 「さて、停戦交渉と行くか」 リーンハルトは砦の指揮官の部屋へと陣取っている。いまはここが臨時の玉座、といったところ。アリステアは常にその傍らに。 「よいのですか?」 近衛騎士の一人が王に不思議そうに問うていた。いまここで退く理由はないとでも言いたげ。確かに勝ってきている。この瞬間まで、負けてはいない。 「これでよい」 だがリーンハルトはそう言うだけ。アリステアはその心のうちがわかっている。ここはすでに他国の領内。不利はこちらにこそある。ならば勝っているうちに退くのが常道というものだろう。 「ビンチェンツオ王子を預かっている由、お伝えするとよい」 これからこの騎士は伝令としてミルテシアの王都に向かうことになる。あるいはすでに使節がこちらに向けて発っているかもしれないが。アリステアはそう言い添え、騎士もまた一礼して下がっていく。 いずれ王の言葉を書き留めた書記が正式の文書として停戦勧告の書をしたためることになる。騎士はそれを持って旅立つことだろう。 「レクランはよく戦ったな」 今夜はまだ警戒も厳だった。騎士たちが夜通し番をするだろう。レクランはどうしているだろう、ふと思ったアリステアにリーンハルトの言葉。 「前に出すぎですよ」 「初陣だからな」 「いいえ、従兄上はお甘い。殿下をお守りしていたことをレクランは忘れていたのでは?」 厳しい父の顔だとリーンハルトは思う。同時に臣下の顔だとも。王子を守るべきものが戦いの最中に出ればどういうことになるか、それを咎めるアリステアだ。 「私は違うと思っているよ」 リーンハルトに茶を淹れるのもアリステアだった。他国の砦の中とあって、いくら休息の時間とはいえ酒はさすがに出せない。まして何があるかわからない。リーンハルトの口に入るものはすべてアリステアの手を通る。 「そうですか?」 差し出された茶にリーンハルトは微笑む。アリステアが淹れてくれたのは神殿の香草茶。よい香りだから、と持参したのだろうがアリステアが淹れるとまた格別だとリーンハルトは思う。 「あれは……後ろを突かれるのを警戒したのだろう」 「そう、でしたか」 「従弟殿でも気づかなかったかな?」 「どなたかが真っ直ぐと突き進んでいかれますのでね」 にやりと笑ったアリステアがここにいる。部屋の外には騎士が護衛に立つ。リーンハルトは安全だった。何より不安のない場所にいる、彼自身もそう思う。 「アリステアがいる、と思うと無茶をしがちだな、私は」 「自覚があるならばやめてください、と言いたいところですがね」 「従弟殿?」 「従兄上をお守りするのは我が務め。だいたい、俺にしかできないでしょう?」 くつりと笑ったアリステアだった。それはある意味では強烈な自負であった。アリステアのそれは愛でもあった。息を飲み、リーンハルトは目を丸くする。その昏い蒼の目が蕩けるよう微笑んだ。 「そうしてくれ」 「はい、従兄上」 「もう少し抑えろ、とは言わないのか?」 「人前では言いますよ? でも、そうして従兄上を縛りたくない」 好きに生きてくれ、アリステアは言う。守り損ねたりはしないからと誓う。リーンハルトは無言のままアリステアを側にと呼び寄せ。 「従兄上?」 常に下げているアリステアの神剣に手を添える。心得たアリステアが手渡そうとするのを押し留め、真っ直ぐとアリステアを見たままその柄へとくちづけた。 誓いだった、それは。こんな場所で、こんな時に。けれど何より相応しい気もした。何を誓ったのかは、二人にも明確にはわからないだろう。だがマルサド神は嘉したもうた。確かにアリステアはそれを感じる。手にした神剣にぬくもりというには熱いもの。 「アリステア?」 「祝福を、授けられた気がしますよ」 「マルサド神に? この戦いに勝利をくださる、ということか?」 「いいえ」 言ってちらりとアリステアは笑った。どこか気恥ずかしそうなその表情。リーンハルトは無言で首をかしげては言葉を促す。アリステアが天井を仰ぎ、諦めては肩をすくめる。 「我々に、ですよ」 「つまり……それは……その」 「平たく言えば婚姻の祝福、ですね」 「待てアリステア!」 「おや、お嫌でしたか?」 「婚姻はないだろう! せめて誓約の祝福と言わんか!」 珍しいほどはっきりと赤くなったリーンハルトだった。剣に触れたままの手が、アリステアの手へと。どちらからともなく繋ぎ合わせた。 「同じでは?」 「語感の問題だ。私はお前の妻になる気はないのでな」 「……胃が痛いですね、それは。また騒動が起きかね……いや、起きますね、間違いなく」 「だろう? ちなみに、祝福を賜ったのも当面は――」 「秘密ですよ、こんなものは。我々だけが知っていればいいことです」 そうだな、微笑むリーンハルトの柔らかな眼差し。アリステアはそれで充分だった。リーンハルトも充足しているアリステアを見ているだけで、満ち足りていた。 |