父の淹れてくれた茶、などいうものはレクランにとっても珍しい。父は陛下にいつもこうしているのだろうか、ふとそんな想像をしてレクランは微笑む。その表情が引き締まった。
「血の魔術師のことです」
 レクランの言葉に二人の大人の表情も固くなる。アリステアは何か察するものがあるのだろう、リーンハルトにはわからない何かを感じているらしい。目顔で促せば、レクランの話を聞こうと無言のうちに返答された。
「ドゥヴォワール・サクレ、と名乗っていましたが……」
「お前が知らせてくれたな。よくやった」
 ハートに委ねた伝言は、きちんと父の手元に届き、こうして駆けつけてくれた。あのようなあやふやな、伝言とも言えないものをよくぞ父は、とレクランは涙すら出そうだった。
「先ほどそなたはマルサド神が滅せられたと申していたな……」
 リーンハルトの言葉にレクランはうなずく。傍らでアンドレアスが心配そうな顔をしていた。あの戦いを、間近で見たアンドレアスだった。
「少し、助けてやった方がいいか? 離宮の外で光の柱が立つのが見えていたが。あれだろう?」
「はい、父上――。血の魔術師と戦っていたときのことです」
 そうしてレクランは何があったのかを語りはじめる。兵とスライムと魔術師と。囲まれた中で魔術師と戦うことができたのはアンドレアスが背中を守ってくれたおかげだった、そう言いつつ。リーンハルトがそんな息子に優しい目を向けていた。レクランに照れた顔をしたアンドレアスだからこそ。
「死霊と化したウィリアを引き剥がすのに、どうあっても僕の力量は及びません」
「まぁ、難しかろうな……」
「ですから、剣を要求しました」
 それを媒体に祈りを込めた、レクランは言う。中々やるな、とアリステアは感嘆している。よくぞそれを思いついたものだった、熟練の神官でも易々と思い浮かぶ手段ではなかろうに。
「それでロックウォールからウィリアを引き剥がしたのはいいのですが。その後、魔術師と戦わざるを得なくなって」
 いわば神剣と化したレクランの剣だった。それが意外なほどに魔術師には効いた、と彼は言う。不思議にも思ったものだった、無論いまになって、というところだが。戦闘中はただただ夢中だった。
「魔術師は言いました、アンドレアス様の血を捧げると。ウィリアの目論見もビンチェンツオの目的も彼にとってはどうでもよいもののようでした。魔術師の目的はただ一つ」
「殿下の血、か……」
「それとビンチェンツオの血、僕の血もだったようです」
「要するに、いわゆる尊い血液、というものだな?」
 リーンハルトに総括され、レクランはうなずく。王と王子の前でそうは言いにくかったが、事実としてレクランもまた尊い血を持っているには違いはない。
「捧げる相手は?」
 柔らかで、それでいて鋭いリーンハルトの問い。それこそが核心、と王もまた理解している。そのようなものに幼い二人がさらされたかと思えば忸怩としたものを覚えた。
「フラウス、と言っていました」
「な――」
「従弟殿。聞き覚えがあるか」
「ない、と言いたいですね。レクラン、お前は」
「……遺憾ながら」
 ふ、と父子の溜息が重なる。王と王子は揃って首をかしげていた。それでいい、とアリステアは思う。国王が知るべきではない。知っている、ということはすなわち利用する気だと考える輩とているのだから。
「従弟殿」
 貫くようなその声音。アリステアは話さない、という選択肢を取りたいと痛切に感じる。だがリーンハルトはそれを許すまい。
「内密な話です。殿下もよろしいですね?」
「もちろん。黙っていることはできると思います!」
「そうしてください。――魔族の名ですよ、フラウスというのは。神殿での学問にありますが……一般的に知るべき名ではない」
「僕も司教様より直接に学問を授けられて、知っていました。が……あの魔術師は、その魔族に血を捧げる、と。シャルマークに囚われている主人たる魔族に血を捧げて囚われの身より解放を願う、そのようなことを言っていました」
 言葉もなかった、アリステアとリーンハルトは。アンドレアスはそこまでの実感が持てなかったのだろう、一人きょとんとしている。あの場で聞いた一人だというのに、幼い身とあってはそのようなものかもしれない。
「つまり、血の魔術師が言うには――」
「悪魔フラウスが、シャルマークの元凶、ということのようです。少なくとも僕はそう解釈しました」
「それは」
 む、とリーンハルトが黙った。二人が深刻になっている理由がリーンハルトには飲み込めない。魔族の名とていまはじめて聞いたのだから致し方ない。だが、魔物があふれだしてくる原因がその名の知れているらしい魔族だというのならば。
「従兄上。無理だ」
「まだ何も言っていない」
「易々と討てるような相手ではない、ということです。この私が、神官としての私が言うのです。察してください」
「……それほどか」
「はい。率直に言って、我らが神に対策をお教えいただかないと無理、というような問題です。対策はわかっても実行できるかどうかは別問題、というような話でもあります」
 それほどの難事だ、とアリステアは断言した。リーンハルトに疑う余地はない、それはアリステアの言だった。
「民が――」
 ぽつん、としたリーンハルトの声。それにアンドレアスは撃ち抜かれたかと思う。思わず自らの胸に片手を置いた。
「アンドレアス様?」
「……父上が、民を思う、ということが。ようやく僕にもわかった、気がしたんだ」
「そうあってくださいませ。いずれ、遠きを願いますが、アンドレアス様の肩にかかる重みです」
「……うん」
 まるで熟達した養育係のようなことを言う、アリステアはほんのりと息子を見やっては微笑んだ。リーンハルトも同感だったのだろう、かすかに笑みを浮かべ、まずは当面の問題に戻ろうと首を振る。
「父上、伺っても?」
「うん?」
「僕が、戦っている間にフロウライトは逃亡した様子だったのですが……」
「あぁ、あれか。従兄上が一刀両断した」
「違うぞ? 私は確かに両断したが、その首を同時に切り飛ばしたのはアリステアだ」
 どうだと言わんばかりのリーンハルトなどはじめて見たレクランは驚く。この王にして、最愛の人を誇るのだと知った。その相手が父である誇らしさ。レクランは目許をほんのりと染めていた。
「そうしているとアリステアの幼いころによく似ているな」
「陛下?」
「従兄上!」
「何も言っていないだろう?」
 にんまりとしたリーンハルトもはじめて見た。それはどうやらアンドレアスも同じだったらしい。これが戦場の興奮というものだった。リーンハルトもまた、平素の玉座の上より高揚している。
「なにはともあれ、血の魔術師にはウィリアすら手玉に取られていた、ということか。中々空恐ろしい話を聞いたな。フロウライトなど、ただの捨て駒か」
「捨て駒以外にどうにもできないような男でしたが」
「……我が臣下とあっては返答がしにくいな」
 肩をすくめるリーンハルトをアンドレアスが誇らしげに見上げていた。反逆者ですら、そのような言いぶりで庇うのかと。実際は庇ったわけではなく、むしろ愚か者扱いしただけなのだが。そこまでは幼い王子にはわかり得なかったらしい。
「まずはミルテシアの問題を片づけることとしよう。その後、シャルマークだ」
「従兄上。まさかとは思いますが、前線にお出になるおつもりですか」
「そのまさかだが。悪いか?」
 いずれここまで来ている。ここから引き返せとでも言うつもりか。子供たちが訪れる前はそのことで口論をしていた二人だった。
「……殿下。こんな王になられませぬように。周囲が迷惑を致します」
「どうぞアンドレアス様はお心のままに。何があってもお守りいたしますから」
「と、レクランは言っているのに我が伴侶は情けないことを言うものだ」
「従兄上!?」
 くつくつと笑うリーンハルトの心のうちがわかるアリステアだった。フロウライトは元王妃の生家。アンドレアスの叔父に当たる男とその一門に背かれて不快でないはずがない。やるせなくすら思っているだろう。そして問題は片付く気配もなく、次の問題が出てくる。国王などそのようなもの、とリーンハルトは言うだろう。だがそれでもほんの一時。こうして明るく過ごす時間が欲しい。そんな彼のためにならば何をおいてもかまわないアリステアだと、リーンハルトもまた知っているかのように。
「あ……」
 不意にレクランが声を上げ、視線を集めてしまっては含羞んだ。気にせず言うがよい、微笑む王に励まされ、けれどレクランの表情が精悍に。
「血の魔術師が滅せられた時のことですが……。違和感が」
「ほう?」
 父の声にレクランはただの気のせいかもしれない、と言い足す。だがレクランの言葉だった。熟練の神官の言葉として聞いた方がよい、アリステアは心に留める。
「我らが神のご意志である光です。ですが……」
 何か違和感を覚えたのだとレクランは言う。それが何、と言い切れないもどかしさ。どこか悔しそうな眼差しに、アリステアはこの息子でもこんな顔をするかと微笑ましい。
「わかった。覚えておこう」
「お話しすべきことはこれですべてかと……。忘れてしまっていることも、あるやもしれませんが」
「色々あったからな。思い出したらまた話してくれればよい」
「はい。ではこれにて。アンドレアス様、参りましょうか?」
「うん。では父上!」
 ここから先はまた作戦の話に戻るのだろう二人を慮った子供たちが退出していく。彼らを見送るリーンハルトとアリステアの眼差しは優しかった。
「出来のよい子供、というのもありがたいやら情けないやら」
「情けない?」
「我が身の至らなさが痛感させられますよ、従兄上」
「そんなことは……ないだろう?」
 伸びてきた手が頬に触れる。リーンハルトの昏い蒼の目がアリステアを捉えた。それに彼は微笑む。互いに慰め合っている、というのはわかっていた。
「従兄上がいてくださって、本当によかった」
「ずるいぞ、アリステア」
「なにがです?」
「私が言おうとしたことを先に言うな」
 それは失礼。くすりと笑ったアリステアが先にくちづければ、それにもわずかな文句を言うリーンハルトだった。
 出陣は迫っている。相手の準備が整っていない今のうちが勝負だった。




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