一旦、離宮に入り準備をすることになった。忌々しいがこのまま発てるわけでもないとあっては致し方ない。レクランにとっては嫌な記憶しかない離宮だった。裏切りを装ったことよりなおビンチェンツオの所業が許し難い。何をしたわけでもない、彼は言うだろう。実際に行動に移したわけではないと。
 ――だからといって許せるものか。
 あのまま万が一にも王と父が間に合わなかったならばアンドレアスにどのような悲劇が襲い掛かったことか。想像するだに寒気がする。
 そのような国とこれから戦うのだ、レクランはかすかな震えを抑えがたく思っていた。怯懦ではない、むしろ一刻も早く戦場に立ちたい。あのような輩を下してしまいたい。
「若君」
 グレンがそこにやってくる。アンドレアスは近衛に連れられていまは入浴と手当てを受けている最中だった。
「どうしました?」
 穏やかなふりをする若き嗣子にグレンは苦笑する。グレンにも覚えがあることだった。初陣を許されたときに感じた身の内の震え。
「あまり気負うものではありません。習い覚えてきたことを、着実にすればよいのです」
「はい、ありがとう」
「……若君。敵は憎むべきものです。が、人間でもある。そこをお忘れにならないように」
 レクランは息を飲んでいた。グレンをまじまじと見る。父の腹心とも言える騎士の言葉に貫かれたかのような思いだった。
「……ありがとう。肝に銘じます」
 それにグレンはにこりと微笑むのみだった。レクランは素晴らしい剣の使い手になる、グレンはそう思っている。だからこそ、憎悪に飲まれるところなど見たくはない。人が人として、憎悪を乗り越えて戦うべきだ、そうグレンは思う。それはあるいはマルサドの信者として、そう感じるのかもしれなかった。だからこそ、その言葉はレクランに通じる、彼もまた同じ信仰を持つものとして。
「それより――」
 ふと振り返ったグレンだった。そうするうちに戸が叩かれ、ニコルが入ってくる。何事か、と思うほどの大荷物を抱えていた。
「こんなこともあろうかと、持ってきていたのですよ」
「これは――」
「若君の鎧です。どうぞ。お手伝いいたしましょう」
 目を丸くするレクランだった。初陣を許されはしたけれど、武装などどうしたものか、考えていたというのに。グレンはレクランがここにアンドレアス共々囚われている、と知った瞬間から鎧を用意していた。こうなる、と予測していたわけではない。が、レクランが健在であった場合はきっと主人は初陣を許すだろう、そんな気がしていた。
 戸惑いがちのまま微笑むレクランに、ニコルが鎧を着せて行く。留め金を締め、紐を固く結び。ニコルは潤む目を抑えきれなかった。
「……ありがとう」
 気恥ずかしいのだろう。訓練で鎧を身につけたことはあっても、こうして実戦の鎧を身につけたことがレクランはない。煌びやかな、公爵家の嗣子に相応しい武装だった。
「ご立派ですレクラン様」
 ニコルの真っ直ぐな眼差し。共にダニールを思う。あの日、自分を守って死んだ若き騎士。レクランは忘れてなどいない、ニコルも忘れる気は更々ない。だからこそ、ニコルは自分を信じ続けてくれた、そんな気がレクランはした。
「怪我は痛みませんか」
 ニコルたちは捕えられた時に酷く傷つけられている。本当ならばまだ立つのもつらいだろう。それでもレクラン初陣の鎧を着せるのはニコルであるべき、そう彼を呼び寄せたのはグレン。
「――お供が叶いませぬこと、無念に存じます」
 健在である近衛騎士団から一部が分かれ、捕えられていた仲間とスクレイド騎士隊を守護し、ビンチェンツオ以外のミルテシア騎士も含めた反乱勢力を護送して王都に戻る。レクランは黙って悔しげな彼の肩に手を置いた。時至ればニコルは次代のスクレイド公爵家騎士団を率いることになるだろう。そのときレクランの腹心となるだろう。次世代の主従の誕生をグレンは見たように思う。
「お父上様に勝るとも劣らない。素晴らしい若き騎士ぶりですよ」
「父上には敵いません。だって父上は、相変わらず公爵家の鎧を身につけてはおいでにならない」
 レクランにも意味はわかっている。スクレイド公爵として武力を振るえばアリステアはよからぬ風聞の的となる。だからこそ、マルサドの神官としてあり続けている父。鎧よりはよほど薄い神官服のままで戦う父の姿。
「敵いません」
 繰り返し、レクランは微笑む。いずれあの場所に自分は行く。そしてアンドレアスを守るのだ、少年らしい気概というよりは毅然とした大人の決意。グレンは微笑んで一礼していた。
「レクラ――!」
 そこに飛び込んできたアンドレアスだった。入浴を終え、身支度を整えた彼は平素の姿に戻っている。戦場に赴くとはいえ、アンドレアスは多少身を守るものをつけている、という程度だ。その目が大きく見開かれていた。
「すごい……よく似合っているよ、レクラン!」
「ありがとう存じます、アンドレアス様。ちょっと、気恥ずかしいんですよ」
「どこが!? 全然、すごくかっこいいよ。あとどれくらいかな、僕がレクランの隣に行かれるのは」
「アンドレアス様は前線に出る必要などありません!」
「父上だって出てるじゃないか」
 む、と唇を尖らせるアンドレアスにレクランは言葉を失う。国王はよいのだ、とはさすがに言えない。迂闊に言おうものならば王位に就いたのちアンドレアスは戦場に出かねない。そんな二人の少年をグレンが笑う。
「陛下にご報告に赴かれましては?」
 さりげなく誘導してくれたのに感謝してレクランは目顔で礼を。アンドレアスは朗らかにありがとう、と手を振っていた。グレンとニコルは所用がある、と言って二人はそのまま王の居場所を教えてもらい、二人だけで向かう。何も不安はなかった。ここにいるのはスクレイドの騎士と近衛騎士たち。そして。
「アンドレアス様?」
「ううん。レクランがいるなら、何も怖いことはないな、と思って」
「あまり過信しないでください。僕だって、ただの人間です」
「それでも。レクランはきっと大丈夫」
 にこりと笑って見上げてくる、リーンハルトによく似た容貌のアンドレアス。それでいて、リーンハルトより明るいものを感じさせる笑みだった。
「失礼いたします」
 いまは国王と公爵とで会談中だ、と聞かされた二人は迷ったものの、扉を守っていた騎士は通してよいと言われている、そう言って子供たちを室内へと通してくれた。
「あぁ、来たか」
 言いながらアリステアが視線を向けてくる。だが子供たちは驚いていた。立ったまま作戦卓を囲み、二人して地図に身を乗り出すようにしていた。あれこれと話しあっていたのだろう形跡がある。
 それだけならば、作戦行動前の当たり前の情景。けれどいま二人は片手にパンを持っては齧っていた。まるでどこにでもいる兵士のように。肌理の荒いパンだというのが、この場にいてもレクランには見えている。とても国王が口にするようなものではない。
「兵糧というのはこのようなものだぞ?」
 ちらりとアリステアがレクランに笑いかける。息子の驚愕が面白い。レクランも聞き知ってはいただろうが、アリステアは戦場に赴けば兵と同じものを口にする。リーンハルトも同様だった。
「仄聞してはいましたが……本当だったのですね」
「そのような嘘をつく父と思うか?」
「いえ。失礼しました」
 言葉面だけ見ていれば冷たいやり取り。だが父子は笑っていた。アンドレアスまでその会話を楽しく聞いているらしい。リーンハルトはレクランの武装に目を留め、ふと微笑む。
「よく似合っているな。凛々しいものだ」
 言いながらちらりとリーンハルトはアリステアを見る。アリステアには言いたいことがわかっていた。リーンハルトは幼少時代を思い出しているのだろう。レクランとアリステアはよく似ている。とはいえ、レクランの方がずっと落ち着いている、と父としては思うのだが。
「ありがとう存じます」
 照れくさげなレクランにリーンハルトはうなずいて、改めてアンドレアスを側へと呼びよせた。なんでしょう、言いながらおずおずと寄ってくる息子を腕に抱く。
「父上?」
 父の腕に抱かれればまだ幼いアンドレアスだ、すっぽりと包み込まれるかのよう。リーンハルトの両腕の中、アンドレアスは見えなくなる。そして、アンドレアスははじめて恐怖する。
「父上……」
「よく、無事でいてくれた。本当に……よく無事で」
「はい、はい……っ!」
 レクランが共にいてくれた。だからこそ乗り越えることができた日々。だからこそ、アンドレアスは今日この瞬間まで、一切の恐怖を見せなかった。いまこうして父の腕に抱かれ、アンドレアスははじめて恐ろしい思いをしたのだと打ち明けることができた、たとえ口にはしなくとも。
「レクランが――」
「守ってくれたな。お前も、よくレクランに応えた。よく頑張った」
「……はいっ」
 涙声にレクランまでもらい泣きをしていた。どれほど恐ろしかったことか。ラクルーサの第一王子が地下牢になど、まして九歳の幼い体で。泥に塗れ、腐った食物に汚れたアンドレアスを目にした瞬間の赤く染まった怒り。
「レクラン」
 父の片手がその肩に。わかってる、というようなそのうなずきにレクランもうなずき返す。
「決して、ただでは済ませません」
「無論。報復は受けてもらう」
「二度と再びアンドレアス様に手出しなど、許しません」
 当然だ、微笑む父にレクランは強張った笑みを返していた。グレンは人として戦え、そう言う。憎悪に飲み込まれるなと助言もくれた。だがいましばし。父と共にあるこのときだけは。
「父上が、止めてくださいますよね?」
「うん? あまり父を買い被るものではないぞ。私もただの人だ」
「父上ほどの方はいらっしゃいません。――陛下を除いては」
 それにリーンハルトがくすりと笑う。ようやくアンドレアスを離し、父の腕から抜け出した彼もまた笑う。
「本当はおじ上が一番だとレクランは思ってるんだろ!」
「そんなことはありません。陛下が一番ですとも」
「ふうん? 父上はどちらだと思いますか?」
「さて。アリステアだ、と言うと本人が否定してくるからな」
「当然でしょう」
 苦々しいアリステアをリーンハルトは笑う。それで少し、気が楽になった。子供たちが来るより前には激論を交わしていた二人だと、彼らは知らない。
「そうだ、レクラン。何か父上にお話しがあるんじゃなかったのか?」
「あ……」
「レクランでもぼうっとすることがあるんだね」
 くすくすと笑うアンドレアスにリーンハルトが苦笑する。アンドレアスがこれほど恐怖をこらえていたのならばレクランとて。たった三歳差でしかない、少年二人。年上だからといい、臣下だからといってレクランはアンドレアスを守り抜いた。その気概になんとしても応えなければならない、リーンハルトはレクランに笑みを含んだ眼差しを向けつつそう決意する。
「では、話を聞こうか」
 アリステアが子供たちに、と茶を淹れてやっていた。意外とまめな男に救われている。リーンハルトの眼差しにアリステアは軽く微笑んだだけだった。




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