子供たちを見やり、二人はほっと息をつきあう。何はともあれ、アンドレアスの安全は取り戻せたとばかりに。不意にそのリーンハルトの笑みの質が変わった。 「従弟殿。お前の兵はどうしている」 にやりとした、とでも言おうか。だがしかしリーンハルトの生真面目な眼差し。アリステアは目だけで笑い返す。何を考えているか、わかった気がした。 「従兄上が残り二カ所を押さえてくださったのでしょう?」 ならば決まっている、アリステアは言い放つ。アリステアに従った騎士たちがそんな主人に誇らしげ。自らを理解されている、信頼を得ていると。 「すぐにでも――」 こちらに向かっていることだろう。アリステアは言う。騎士たちを見やりながらの目は優しい。それにまた彼らが胸をそらすのだから、どことなく微笑ましい。レクランはそんな父をしっかりと見ていた。いずれそうなるべき目標として。 アリステアの考えでは、彼の騎士たちは確実にこちらに向かっている。リーンハルトが派遣した近衛騎士団がフロウライトの二カ所の拠点を制圧したのならば、彼らは考えるはずだ、主人に必要なものが何かを。近衛騎士団としても否やはないに違いない。ならば。アリステアがそう考えたとほぼ同時だった。門衛に残してきた騎士の歓呼の声。馬蹄の響き。 「さすが、と言っておこうか、従弟殿」 アリステアの予測通り、スクレイド公爵家の兵力が結集する。戦塵に塗れた彼らの顔は険しい。だがすでにこの場も制圧され、王子も健在と確かめた彼らの安堵の顔。最後にレクランを見やってはほっと息をつく。それをこの場にいた近衛騎士たちは見た。主人がこれならば騎士たちもなのかと。騎士たちですら、レクランは後回し、アンドレアスの身こそを彼らは一番に案じていた。 そして彼らはビンチェンツオの存在を知ることになる。嫌悪もあらわなその表情。近衛もまた同じ顔をしていた。共に戦うに足る、双方が相手を認める。隣国による王子誘拐未遂、ここにラクルーサの大義は立つ。つい、とリーンハルトが拘束されたままのビンチェンツオの下へと。念のために、とアリステアがその背後に従った。 「臣下を見捨てて逃亡する無様は、すまいな?」 ビンチェンツオの傍らでは彼の騎士たちが同じように拘束されている。騎士として、縄目の恥を受けるのは屈辱だろう。誰もが蒼白に、あるいは憤怒に染まっている。ビンチェンツオはそんな臣下をちらりと見やる。 逃げそうだ、と思った、アリステアは。だからこそのリーンハルトの言葉。念を押し、なお逃げたのならばそれを喧伝すればよいだけのこと。卑怯者の謗りは免れ得ない。それはそれで一つの復讐の形にはなる。無論リーンハルトはそれで済ませる気は毛頭ない。口許で笑うアリステア。見咎められるより先に平静の顔を作っては膝をつく。 「陛下。ご命令を」 傍らに剣を置き、国王を見上げるその姿。膝をついてすら屈さず。それでいて謙虚な。ラクルーサが誇る武闘神官にしてスクレイド公爵。国王リーンハルトの腹心。 「報復を」 ただ一言、リーンハルトはそれのみを。ビンチェンツオが唇をわななかせた。 「なんと謙虚な」 見上げたままのアリステアの笑み。ミルテシアを平らげろと言うのならば何をおいてもそうするものを。そのように考えるアリステアだからこそ、リーンハルトの言葉だった。 「ミルテシアの堕落に染まりたくはない」 このような輩がいる国など要らない。放言された騎士たちは顔色を失う。国を侮辱され、辱めを受け。だがしかし、彼らもまた知らないではない。ビンチェンツオがアンドレアスに何をしようとしたのかを。帰国したのち、アンドレアスの身に何が起こるのかを。かすかに唇を噛んだものもいた。 リーンハルトはロックウォールとビンチェンツオを交互に見やる。悔悟を浮かべたのはロックウォール、ミルテシアの王子は何が悪いとばかり開き直る。むしろ、そうしてくれたことに彼の騎士たちは安堵していた。ここで隣国の王に平伏し命乞いなどされては、とても。 「陛下――!」 だがそこに悔悟を浮かべたはずのロックウォールが。いまは憤怒の赤に染まる。同類、と見做されることには耐え得ないと。ミルテシアの騎士たちが自分を見ている眼差しを感じでもしたか。リーンハルトは一切取り合わなかった。 「陛下の御為ならば屍山血河を築くさえ厭いませぬものを」 ふとアリステアが笑う。ロックウォールなど見えてもいないと言いたげに。それにもまた吼えるロックウォールを二人ともに取り合わない。存在すらしないように。 「魔族に対してそうしてもらおう。我が民のために」 リーンハルトが差し伸べた手を取り、アリステアは立ち上がる。国王の厚情に彼の騎士たちが歓喜を浮かべていた。 アリステアはそんなリーンハルトに内心で苦笑を。手早く済ませてしまえ、とリーンハルトは言っている。現にそう解釈したのだろうミルテシア勢が悔しそうな顔をしていた。侮られた、と感じたのだろう。 だが同時にリーンハルトは別のことも言っている。その程度でやめておけ、と。アリステアにだけわかるよう彼は言ったも同然だった。ミルテシアを併呑することは不可能でも、領地の大半を奪うことが現時点では可能かもしれない。だがそれをすればミルテシアとの戦争が激化する。いまこの瞬間にそれは避けたかった。 シャルマークがある。何をおいてもシャルマークがある。魔族の脅威に民が耐えている今、人間の戦争になど現を抜かすのは王のすることではない。リーンハルトはそれを心得ていた。それを理解できないロックウォールごときに何を言われようがリーンハルトはかまわない。かまう気もない、とアリステアは知っている。にやりと笑ってレクランを見やった。 「レクラン」 「はい」 「初陣を許す」 短い言葉、そこに込められた意味。一瞬レクランは呆然としたのち、浮かびあがる喜び。だがその眼差しが王子へと。 「お心ありがたく。ですが、我らが神より我が身はアンドレアス様守護のために遣わされたもの、と心得ております」 アンドレアスの側を離れるつもりはない、レクランは断言した。初陣の名誉すら捨て、それでもなおレクランはアンドレアスを守護する道を選ぶ。清々しいほど毅然と立つ、すでに神官の姿だった、それは。 「アンドレアス、観戦を許す。参陣するがよい」 リーンハルトのどこか優しい眼差し。幼いというもおろかな王子だ、初陣などとんでもない。だが陣には置こうと。レクランはそれが自分のためだと目を見開く。感動もあらわに膝をついては王を見上げた。アンドレアスもまた、軍勢の中に置いてもらえるとは思ってもいなかった。ただ見るだけ、おそらくは本陣深くで守られるだけ。それでもアンドレアスは嬉しい。 「レクランの初陣がかなうね」 にこりと笑ってレクランに差し伸べた手。アンドレアスの笑みとリーンハルトのうなずきに押されるようレクランは立ち上がる。どことなく苦笑する父がいた。 「初陣の祝いにくれてやろう」 無造作にリーンハルトが己の剣を外しレクランへと差し出す。佩剣を賜るのか、スクレイドの騎士たちが感動していた。アリステアはもちろん、レクランも過たない。軽く袖を使ってリーンハルトの剣を受け取る。レクランの父に似た灰色の目がロックウォールを捉えた。 「死霊に憑かれるがごとき軟弱者は不要」 リーンハルトの一言で、その場の全員が理解する、その剣の意味を。だが預けられたのはまだ少年であるレクラン。ロックウォールがそこまで侮るかとばかり怒り狂っていた。 アンドレアスは不思議だった、それが。ロックウォールはレクランと血の魔術師の、そしてビンチェンツオに対してのそれを見ていたはずだ。あの激しい戦いを見てなおレクランを幼少の身と侮蔑する意味がわからない。 「軟弱者は自らの夢想の中で生きるもの。レクランの真の姿が理解できぬのは哀れだが、その生き方を選んだのはこの者だ。致し方あるまいよ」 「父上のことも酷く言っておりました。……僕は、悔しい」 「己の夢想に生きる者の妄言を真に受けることはない」 「ですが」 「お前は私をどう見ている? それが真の姿だ」 にこりと微笑む父にアンドレアスは目を瞬く。ついで湧きあがる喜び。父はこの身を愚かではない、と褒めてくれた。それに赤くなるアンドレアスを微笑ましげにアリステアが見守る。 「……このような、このような……! 所詮は柔弱な同性愛者のその息子ごときに――!」 「そう思っていればいいでしょう?」 微笑むレクランだった。ロックウォールの言葉の意味とは違う。だがしかし柔和な笑みだった。おっとりと優しく、花を愛でる貴人の笑み。その眼差しの鋭さに気づく気がないロックウォールだ。 「どなたか、剣を」 ロックウォールの縄を解け、剣を持て。レクランは騎士たちに言う。即座に従ったのはスクレイドの騎士。自らの主人の子、という以上に彼らはレクランを知っている。近衛はわずかに戸惑い、ロックウォールを取り巻いた。逃がさない、その意志で。だが包囲は緩い。この場から逃亡できるわけがないと近衛もまた知っている。 剣を取らされたロックウォールは雄偉な肉体を誇っていた。縛られた体をほぐそうと、何度か剣を振る。その間にもレクランから眼差しは外さない。この小僧を切り捨ててやろうとの決意もあらわに。レクランは涼しい顔をして立っていた。アンドレアスの眼差しを感じている。その信頼に応えねばならない、それほどの決意ではない。応えられない自分とは思ってもいない。それを確認するような表情だった。 「来い、小僧!」 「吼えるのは結構。ですが、ご理解なさっておいでですね。この剣は陛下の御剣。逆らいますか」 「それを手にしておるは貴様だ――!」 吼え猛り、ロックウォールが突進した。まるで巨体の猪が向かってきたかのよう。ビンチェンツオの一瞬の歓喜。これで逃亡が可能になるやもとの。すぐさま萎んだ。離宮の庭中から上がる歓声。 「な……」 たたらを踏んだロックウォールの鈍い声。そのままごろりと首が落ち、胴体は更に二歩三歩と進み、そして膝から崩れ落ちて彼は死んだ。 少年の身でありながらの剣の冴え。リーンハルトは満足げにレクランにうなずく。レクランはたいしたことをした風でもなく剣を振り、血を落とす。そのまま綺麗に拭ってリーンハルトへと返却した。そこに飛びつくアンドレアスの嬉しげな顔。はしゃいではなりません、たしなめるレクランの平静の声音に双方の騎士たちが感動を覚え、ミルテシア勢はただ震えた。 |