腸が煮えくり返る、というのならばアリステアこそだった。アンドレアスが着せられている、最悪の罪人よりなお酷い貫頭衣。しかも地下牢にでも放り込まれていたのか、泥と腐敗に汚れきった姿。
「殿下――」
 言葉がなかった。たとえウィリアに取り憑かれていたとしようとも、ロックウォールがこれをしたのだとすれば、切ってもあまりある怒り。
「見た目ほど、怪我はないから。大丈夫」
 近衛騎士の目を憚ったのだろう、囁くような笑みを含んだアンドレアスの声音にアリステアは目を瞬く。思わず込み上げてくるものがあった。アリステアは自らの外套を脱ぎ、アンドレアスをくるみ込む。大きなそれはたっぷりと引きずるほど。アンドレアスが長すぎるね、と笑った。
「しばしのご辛抱を」
 アリステアは一瞬ためらう。彼自身は公爵家の紋章入りの外套留めで留めていたが、王子にそれをするのはさすがに、と。
「アリステア」
 それを見てとったリーンハルトだった。自身の外套留めを外し、アリステアに手渡す。ほっとした顔をする従弟が珍しいような気がして、どれほど彼がアンドレアスを案じていたのかが窺えた。
「アリステア、貸せ」
「……従兄上」
 低いアリステアの声。公爵家の紋章入りの外套留めを求められていた。確かに外套は留めるものがなければ外れ落ちてしまう厄介なものではある。だがしかし、リーンハルト国王に、このようなものをつけさせるわけには断じていかない。アリステアの険しい目をリーンハルトが笑った。
「私がすれば洒落で済む」
 にやりとしたまま言い、リーンハルトは無造作に公爵家の紋章を身につける。形の上では奪うようにしたことから、近衛たちもいまは何も言わない。あとで問題になるぞ、とアリステアの目が語る。
 ――問題はすでに起きていると思うがな。
 目顔にアリステアははたと気づく。見やった先でロックウォールがぎりぎりと歯を食いしばっていた。男妾の紋章を身につけるとは、とでも思っているのだろう。
 ――顔に出やすい男だったな、そう言えば。
 ロックウォール子爵程度、アリステアにとってはその程度の認識だった。無論、彼がそうならばリーンハルトなど更にだ。存在すら忘れかねないほどの弱小貴族。それがこれほどのことをしたのだと思えば苦々しい。
「レクラン。何があった」
 そこではたと思い出す。突入前に見た光の柱。レクランはいまだアンドレアスの傍らに。幼い王子を守護する形を彼は決して崩さない。ここには近衛騎士とスクレイド公爵家の騎士ばかりがいる。たとえそうだとしても。
 アリステアはそれを正しい、と感じていた。何より、いまだ拘束されているとはいえ、ロックウォールがそこにいる。ミルテシアの貴族らしき男もいる。
「血の魔術師、ドゥヴォワール・サクレなる者を我らがマルサド神が滅せられました」
「ほう?」
「陛下に我らが神が恩寵を垂れたもうた証し、と感じております」
 軽く頭だけを下げたレクランにリーンハルトは目で笑う。声の聞こえた近衛騎士たちが抑えた歓声を上げた。スクレイドの騎士たちも捕えられていた仲間に手を貸し、互いに抱き合い無事を喜び合う。
「ロックウォール子爵ですが――」
 そしてレクランはロックウォールがウィリアの死霊に侵されていたことを伝える。二人にとってはすでに予測していたことだった。それをレクランは彼らの目に読み取る。安堵していた。短いあの伝言。よくぞ伝わった、と。
「父上――」
 ハートはどうなっただろうか。無言のうちに問えば、黙って首を振られた。脱出は容易ではない、と思っていたがやはり。暗殺者であったとはいえ、大事な伝言を託した相手。死んだと聞けばレクランはわずかに首を垂れる。指先で小さく聖印を描き彼の冥福を祈る姿は熟練の神官のようだった。
「ロックウォールは……陛下を――」
「率直に言ってかまわん。いずれそなたの言ではない」
 気にせずともよい、と言われてもレクランは赤くなる。なるほど、リーンハルトは納得してた。よほど口を極めて罵っていたらしいと。
「柔弱な同性愛者ごときに、と……ご寛恕を」
「そなたが言ったわけではない言っているだろうに。そうか、そのように罵るか、私を」
 ふ、と笑ったリーンハルトだった。確かにその笑みに柔らかみはある。だがその目の冷酷さ。王たる者の責務をこれ以上なく心得た者の目。視線が向いただけだというのに、ロックウォールはぞっと震える。
「私がどのような伴侶を持とうが、次代を担うべき子がある以上、口出しされる謂れはないと思うのだがな」
「まして子爵ごときがそのような。無礼に過ぎましょう」
 むっとした口調も露わなアンドレアス王子だった。そんな彼の腕を軽く取ってはレクランがたしなめている。父王を悪く言われてよほど腹に据えかねていたらしいが。
「陛下が柔弱……?」
 どことなく嘲笑うような声が上がったのは近衛騎士団から。当然だろう、とアリステアは黙って見ている。自分が口を出せば話が混乱するだけ、と思っているのもあるが、わざわざ口を挟むまでもない、というのが正直なところ。
 彼の考えも当然だった。近衛騎士団は国王の最も近しい臣下とも言える。騎士の鍛錬にリーンハルトが顔を出すことも珍しくはない。それを宮廷に頻繁に在するわけではない子爵ごときは知らない。無論、アリステアはその姿を見ている。騎士たちが手加減をするものだった、通常は。だがリーンハルトは手加減などされたことはおそらくないだろう。逆にリーンハルトが、手加減をしている。それほど彼の剣の腕は確かだ。廷臣たちとの手合わせなど、鍛錬にもならない。そして、子爵などが目にする機会は、それしかない。腕の劣る廷臣たちが王に譲る場面しか、見ていない。だからこそ、そのような勘違いをするのだと思えば憐れですらある。
「陛下は我が国随一の剣の使い手であられる。スクレイド公と一二を争う、と言ってよいだろうに」
 近衛騎士の嘲笑にロックウォールが顔を憤怒の赤に染めていた。縛られたまま、身悶えしては怒りに震える。
「一二、だと!? 争うだと!? 国王陛下は唯一にして至上、争うことそのものがスクレイド公の不遜であるのだ!」
「――と、言っているが?」
「従兄上。ここで私が口を出せばまた話が面倒になるだけでしょう」
「さて、いずれ言って聞く相手でもないと思うがな。国王が唯一にして至上? そうなるまでには誰と鍛錬をするのだ?」
「な――」
「私は一人で勝手に生まれながらにして強いと? 馬鹿な話もあったものだ。――こういう頭の悪い貴族が我が宮廷にいると思うとぞっとするのだが」
「貴族の大半はそのように夢を見ておりますよ、従兄上」
「無茶を言うな。私とて鍛錬はするし、アンドレアスにも推奨している。競い合ってはじめて腕など上がるものだというのがなぜわからん」
 嘆かわしい、と首を振るリーンハルトにロックウォールはまだ真っ赤になったままだった。言葉が通じていない。何を言っても無駄だろうとは正にこのことであるのだとレクランが軽くうなずく。
「そのような……愚かなことを考えているからこそ、死霊になど取り憑かれる」
 ぐっとロックウォールが唇を噛んでいた。噛み破った口の端から滴る血。たらたらと零れる。それをリーンハルトもアリステアも冷ややかに眺めているだけだった。
「死霊の言いなりになって私に反旗を翻すとは、無様もあったものだ。せめて己の意志ですれば格好もつくものを」
「言いなりなどでは――!」
「どこがだ? 貴様はラクルーサの貴族としての誇りを失い、ミルテシアの人間を引き込んだ様子」
「陛下。申し遅れましたことお詫び申し上げます。――そこなる者は、ミルテシアのビンチェンツオ王子です」
 どよめきが上がった。近衛騎士団からも、スクレイド公爵騎士団からも。全員が一斉に剣を抜き、ロックウォールにつきつけたかと錯覚するような敵意。
 当たり前のことだった。戦争は、いまだ継続中だ。長々と続いてきた隣国との争い。近頃は全面的な決戦にはなってはいないものの、それでも継続中であることは違いない。その相手国の王子を国内に引き入れるとは。
「ラクルーサ貴族の誇りを忘れ、ミルテシアに殿下を売り渡したか」
 低いアリステアの声はこの場の全員に聞こえた、騎士たちの末端に至るまで。後々になって騎士たちは言った、あれはマルサド神のお声であったのだと。それほどまでに不思議とどこにいても聞こえたアリステアの声。
「売ってなどいない!」
「言うも憚ることではありますが、陛下。ロックウォールはビンチェンツオの所業を知ってなお、喜んで殿下を差し出したのです」
「所業?」
「……恐れながら殿下は九歳であられます。その殿下を――口にするも忌々しい!」
 吐き出したレクランの蒼白な顔。リーンハルトはその肩に手を置いた。レクランの目に薄く張った涙にリーンハルトはうなずく。よくぞ守り抜いてくれたと。
「幼い子供に何をするつもりか知っておきながら、平然とロックウォールはミルテシアに差し出したのです。幸い、こうして殿下の御身は守られることになりましたが……許し難い」
 言ってレクランはご無礼を、と頭を下げた。国王の前で感情をあらわにし過ぎた己を恥じるように。アンドレアスがそっと親友の腕を取る。大丈夫だったと安堵させるようであり、レクランに守られた感謝であり。
 それをニコルは黙って見つめていた。弟のように思っていたダニールが守ろうとして果たせなかったレクラン。神の庭で見ているか、内心で呟く。ニコルに率いられていたスクレイド騎士たちがはじめてレクランの存念を知り恥じていた。
「ミルテシアはそのように下劣な国か――では、そのように扱うとしよう」
「陛下。何をお考えです」
「従弟殿が想像したようなことを、だ」
 口許で笑ったリーンハルト。目は真っ直ぐとエンツォ改めビンチェンツオを見ていた。レクランの変貌が理解できないのだろう、彼は。拘束されたまま、呆然とレクランを見ている顔つきにアンドレアスは内心で溜息をつく。
「酷い侮辱もあったものだと思う。我が友が、簡単にミルテシアなどに寝返ると思われていたのだとすれば。我が友がかくも下劣な遊興に乗るのだと思われていたのだとすれば」
「アンドレアス様。簡単に寝返る、というのは――」
「あぁ、そうだったね。レクランは死んでも僕を裏切ったりしない。当然のことだった」
「もちろんです」
 にこりと笑ったレクランはすでに平静に立ち返っていた。それにアンドレアスもまた息をつく。




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