斜めに両断され、首を失ったフロウライトの死体がどう、と大地に落ちる。馬が悲痛に嘶いた。それを覆さんばかりの歓声が王軍から。公爵軍から。互いの主人たちのいとも見事な剣の業。それだけではない、絶対の信頼がなければあのような絶技、かなうはずもないこと。一瞬でも過てばどちらかが傷を負う。それをさせなかったのがあの二人。 「進め――!」 剣を掲げ声を張り上げ進軍を命ずるグレン。フロウライトの騎士たちは戦意を喪失し、目を見開いたまま気を失っているかのよう。ただ呆然と地に落ちた遺体を見ていた。 その時だった。離宮の庭と思しき場所から立ち上る光の柱。棹立ちになった馬を制御する騎士たちの声。険しい眼差しのリーンハルトが傍らを見やる。 「なにがあったと思う」 「……怒りを感じます」 「ほう?」 「神の、怒りを」 「ならば進むまで」 にやりとしたリーンハルトの口許。アリステアもまた笑みを返す。互いに同時に剣を一振り。血を落とし、馬を操り。二人の馬は異変にも微動だにしていなかった。 アンドレアスの眼前で、目を見張らんばかりのことが起きていた。レクランが戦っている。それだけならば驚きはしない。年齢差もあって、自分よりよほど強いレクランだ。だがしかし、相手は魔術師とはいえ、大人の男。いつまで持つかとの懸念はある。ただアンドレアスもそればかりを案じてはいられない。エンツォが、いまだ呆然としていることだけが救いだ。兵たちは果敢に彼らに向かって来ている。 「私に歯向かうか!?」 ラクルーサの第一王子に。アンドレアスの言葉に一瞬は怯み、けれど事ここに至っては今更、と兵たちの青ざめた顔。燃え尽きかけた松明で、いったいどれほどのことが。 「レクラン!」 そのレクランの剣が、魔術師を押し戻す。が、すぐさま魔術師は魔法を放ったのだろう、おそらくは。レクランが体をよじり、何かをかわした。だが、避けきれなかった何かがレクランを傷つける。ぴしり、と彼の頬に血が滴った。 「血を、流したな?」 にんまりとした魔術師の表情になどレクランは惑わされない。剣だけを感じていた。いま剣を持っているのは自分であっても、振るっているのは己ではない。レクランはまざまざとそれを感じていた。いまこの瞬間、我が手は神の手。至らない己と歯噛みしつつ、レクランはひたすらに血の魔術師ドゥヴォワール・サクレに向かい続け。 「ならば――」 その血を使わせてもらおう。魔術師の嘲笑めいた言葉。それが途中で止まった。喉元に違和感。レクランの血に干渉しようとした正にその瞬間。 「貴様、何者だ――!?」 「スクレイド公爵アリステアが嫡子、ソーンヒル子爵レクラン」 「人間ではない!」 にやりとしたレクランの顔をアンドレアスは見たように思う。瞬間、悟った。ウィリアの死霊を退散させたあの剣。彼の父アリステアの剣と似て非なるものながら、この瞬間、神の剣と言う意味においては同一のものなのだと。 「覚悟せよ、ドゥヴォワール・サクレ!」 名を呼ばれた程度、どうということもない。所詮は通称よ。そう嘲笑う魔術師の顔が一変した。動けなかった。指一本動かせない。眼球ひとつ動かない。呼吸さえも。そしてレクランの剣が掲げられた。突き刺すでも切り裂くでもない。 「我が神よ――!」 どう、と立ちあがる光の柱。アンドレアスは目を覆う。そうしていなければ、何も見えなくなっていたかもしれない。兵たちの呻き声。震えて大地に膝をつく。アンドレアスはそれでも見ていた。光の奔流が収まるなり目を開けて。 そして見たのは目を疑う情景。魔術師であったと思しき何者かがそこに。長衣もそのままに、萎びて崩れ果てて行く肉体。忌々しげな顔も風が吹き、塵となって消えた。 「だ、誰ぞある――!?」 エンツォの悲鳴じみた声が空虚に響いた。ようやく動けるようになったのか、それとも恐怖に狂ったか。兵を糾合し、脱出を試みようと。 「謀ったなレクラン!」 桟敷を飛び越え、剣を振りかざすエンツォをレクランは迎え撃つ。一瞬の遅滞もないその挙措。まるで剣舞のようだった。あまりにも美しい。それでいて、壮絶な。エンツォは唇をわななかせている。たかが子供と侮った。だがしかし、これはなんだ、と。同じ人間とはとても思えない、この剣技。たかだか十二歳の子供のそれでは断じてない。逆にエンツォの剣の方が乱れるほどに。 「ロックウォール、何をしている!」 自失していたロックウォールが桟敷の中、立ち上がっていた。震える唇で、庭を見ている。その眼差しにエンツォは怒鳴っていた。戦えと。共にここを脱するのだと。 「貴様、ミルテシアの人間か!? 何ゆえに私が貴様になど!」 「な――」 剣を取り、レクランに加勢しようとするロックウォールだったが、自らの肉体に裏切られた。足下が覚束ない。いったい何が。舌打ちをし、庭の汚れきった子供に目が留まる。 「ま、さか……っ」 アンドレアスだった。ラクルーサの王子がなぜあのような姿に。そして着々と蘇る記憶。自らのなしたことが彼の脳裏に映り続けた。 「どれほど我々父子を嫌おうとも、ロックウォールはラクルーサに反旗を翻す気などなかったのですよ。ご存じなかったか?」 レクランの微笑んですらいるような平静の声。これほど激しく剣をかわしながら。エンツォはそれにこそ恐怖を募らせている。 「レクラン!」 「アンドレアス様!」 駆け込んできた兵の一団。エンツォの手勢だろう。主人に異変が起こっているとようやく知った騎士たちはこの惨状に目を疑っていた。すぐさまに駆け込み、主人を囲もうと。それを目にしたアンドレアスとレクランは背中合わせに戦う。互いの背を相手に預け。剣と松明と。いつまで持つかはわからない。それでも。 「進め――!」 事態を理解したのはエンツォの手勢だけではなかった。いまにしてラクルーサの騎士たちはレクランの振る舞いを理解する。捕えられ、足元も覚束ない。肉体は窶れ切っている。兵の監視が緩むを幸い互いを縛っていた縄を引きちぎり合う。こすれて吹き出す血などかまってもいられなかった。 「レクラン様!」 だがまだこの肉体はある。ニコルがその拳をもって敵を止めていた。近衛もスクレイド騎士もまた王子のために戦う。無様で、この上なく美しい。 小さくアンドレアスが笑った。強い王子の眼差しに、敵が怯む。だが彼の笑みはそれが理由ではなかった。背中を預けたからこそ、聞こえたレクランの声。小声で囁くよう、彼は祈り続けている。軍神マルサドに、事態の解決を。全力を尽くすと誓いながら。 「レクラン。死んだりしたら許さない」 「――は」 「僕を守って死んだりするな!」 自らの命を捧げてもアンドレアスは。そう祈るレクランにアンドレアスの厳しい声音。王の声だ、レクランは感じる。次代の王たる王子アンドレアス。なんとしても守り抜く。レクランの目に更なる輝きが宿った。 アンドレアスの楯となり、剣となる。マルサドの神官としてあるべき理想のその姿。エンツォの震えは刻一刻と酷くなりつつあった。ミルテシアの、王子たる自分がたかが子供二人に気圧された。それが騎士に伝わる、兵に伝わる。浮足立った正にその時。 「ラクルーサ軍だ――!?」 わっとなだれ込んでくる兵の数々。翻る王旗、スクレイド公爵旗。アンドレアスの眼差しがぱっと明るく。瞬間、レクランはエンツォに向けて走り込む。わずかとはいえ、なだれ込んできた敵に目を奪われたエンツォは喉元に剣の切先を感じ、喉を震わせる。 「――降伏か、死か」 冷厳たるレクランの眼差し。灰色の目は、決して子供と侮る相手ではなかったと。今更ながらエンツォは痛感し。 「……降伏を」 そして剣を手放した。からん、と大地に剣の落ちる音。騎士たちの無念そうな呻き声。それでいて、レクランへの恐怖と賛嘆の入り混じる眼差し。桟敷から進み出てきたロックウォールもまた大地に膝をついては深々と一礼していた。 それをレクランは見てもいない。王旗が翻った時点で、自分の出る幕は終わった。現にエンツォもロックウォールもラクルーサの騎士たちが拘束している。 「アンドレアス様」 幼き主人の前、レクランは跪く。見上げた眼差しにある悔悟はアンドレアスだけが見た。 「いかようにも、罰してくださいませ」 「馬鹿な」 「あなた様に逆らった私です」 寂として声もなかった。ゆったりと歩いてくるリーンハルトとアリステア。彼らにもその声が聞こえていたが。二人にとっては自明のことだった。レクランが裏切ってなどいないのは。同時にアンドレアスにとっても。 ――さて、我が子よ。どのように治める? リーンハルトの内心の声が聞こえたわけではないだろうが、多少アリステアの呆れた気配がしていた。それを感じつつ、リーンハルトは子供たちの下へと。口を出すつもりはなかった。 「レクラン」 アンドレアスは普段の彼とは違う笑みの浮かべ方をしていた。王子として、傲然と。それでいて優渥に。レクランの手を取り、自ら立たせた。 「名誉を擲ち、あなたは私を守ってくれた。真の忠義者とはあなたのことを言う」 針を落としても聞こえるほどの静寂の中、アンドレアスは声を張り上げるでもなくそう言った。レクランが言葉もなく一礼したときになってようやく騎士たちの歓呼の声。兵の歓声が離宮の庭に響き渡る。 「よくぞ申した。ソーンヒル子爵、王子を守り抜いた功績は何より重いぞ」 「ご褒詞が過ぎましょう、陛下。拙き我が身は殿下を危難にさらしました」 「謙遜も過ぎれば嫌味だぞ。そなたはアンドレアスを守った。それでよい」 王の言葉も兵たちの歓声にかき消されんばかり。ほっと息をついたアンドレアスは常の態度に戻ってレクランの手傷に手を当てている。痛い、と小首をかしげて尋ねる態度はもう子供のそれだった。 「よくぞ、ご無事で……」 そのアンドレアスを抱きかかえんばかりのアリステアだった。膝をつき、アンドレアスの手を押し頂く。近衛騎士たちはみなそれを見た。どれほどまでに公爵が王子を案じていたのかを。息子にはただ一度うなずいただけで。 宮廷での風聞を、騎士たちも知っている。あのスクレイド公の嗣子が。そう戸惑ったものもいた。だがいまここにきて痛感する。レクランは、側近くでアンドレアスを守護するためにこそ、裏切りの汚名すら厭わずにいたのだと。ちらりとロックウォールを見るものもいた。嫌悪もあらわな騎士たちの眼差しに、彼は視線を伏せる。何が起こったのか、理解していなかった。ただ、自らのなしたことは記憶にあった。ぎりぎりと歯を食いしばる。リーンハルトを見やれば、腸が煮えるような思い。あれが、あの柔弱な同性愛者が国を治めるのだと思えばこそ。 |