三日間、レクランは剣に祈りを捧げ続けた。類稀な集中力、と言える。彼は誰と会話をしながらでも、それを続けていたのだから。エンツォはおろか、ロックウォールにすら気取らせずレクランは祈り続けた。 ウィリアをロックウォールから剥ぎ取るために。死霊を退散させれば、何か突破口が開けるはずと信じて。その際ロックウォールがどうなるのかまでは、レクランにもわからない。ロックウォールは正気に返るのかもしれないし、すでに死んでいるのかもしれない。正気に返ってすら、リーンハルト王に反旗を翻し続ける可能性も否定はできない。ただ、何かは変わる。それを信じる。 そうしてあっという間に三日が経った。レクランの頬は削げもしていない。平素とあまりにも変わらないその姿。父が見れば何を言ってくるだろう、内心かすかに思う。 「松明をご用意願いましょうか」 庭にはすでに兵たちが参集していた。桟敷席を作り、そこに貴人たちが座る、という趣向だ。レクランは席につくなりそう言う。 「……臆されたか」 わずかに目を細めたロックウォールだった。否、ウィリアの死霊がそうさせる。レクランは気づいた風もなくロックウォールを煽った。 「あなたには理解が及ばないのでしょうが。我々のような身分にあれば、万が一は許されぬもの」 スライムがこちらに向かってきたならば、誰がどうするというのか。子爵ごときにはわからずとも、あなたにはわかるでしょう。レクランは傍らのエンツォに笑みを向けていた。 「レクラン王子の言う通りだな。松明を」 粘性の魔物に最も効果があるのは炎だった。切っても突いてもたいして傷を負いはしない魔物も、焼けば萎んで消えてしまう。胸をそらすエンツォに渋々ながらロックウォールが松明を用意させた。 そして炎は死霊を退散させる浄化の炎となり得る。それをすればもしかしたらまだ生きているのかもしれないロックウォールも死すが、ウィリアの死霊は当面の取り憑き先を失うことになる。だからこその警戒。レクランを見やる目は、けれどすぐさま冷やかに。いまだ少年の彼にはそのような理はわかっていないのだとばかりに。 「レクラン殿。言うまでもないと思うが……」 「なんでしょう?」 「よもや、貴殿は」 「あぁ……アンドレアス殿を助けようとしているとでも? 馬鹿な。いや、失礼。わざわざ王冠を放り出すほど愚かではないのですよ、私は。父とは違って、ね」 ふふ、と笑うレクランにエンツォは同時に笑い声を上げた。彼もまた、王冠を望んでいる。あるいは側室から生まれた彼は、より強くそれを望んでいるのかもしれない。己が得られたはずのもの、と思えばなおのこと。 そして準備が整えば、アンドレアスだった。兵たちに引き出されてくるその姿。レクランは真っ直ぐと笑みさえ浮かべて眺めている。 ――王者の入場だな。 引き立てられてなどいなかった、アンドレアスは。泥に汚れ、貫頭衣はぐずぐずになり、それでもアンドレアスは顔を上げ毅然と入ってくる。汚れたままなのも、レクランの指示だった。 「風情はないが、これはこれで一興か」 エンツォの満足げな笑い。フロウライトが正気かと言いたげな顔をしてそれを見ていた。レクランはただエンツォなどに触られたくないだけだった。アンドレスがこのような下劣な男の手に触れられると思うだけで腸が煮えくり返る。汚れたままの方がどれほどよいか。そのアンドレアスはレクランを桟敷に認めても、顔色一つ変えなかった。 体中を泥と他の様々なもので汚したアンドレアスだった。兵たちが投げ与えた半ば腐った肉、頭からかぶせられた粥。連れ出される前に水を浴びせられ、よけいに酷い有様。それがロックウォールの歓喜に繋がる。否、ウィリアの。ぎらぎらとした目がアンドレアスを見ていた。 また同じく憎悪の眼差しで桟敷を見据えている一団が。捕えられた近衛騎士たち、スクレイド騎士たち。そしてニコル。否、ニコルだけは平静。殺されていなかったか、レクランはそれと知って安堵していた。アンドレアスを思えば尋ねるに尋ねられなかった騎士たちの安否。憎まれるくらいどうということはなかった。 「やれ」 エンツォの指示で兵たちが捕えてきたスライムを庭に放つ。アンドレアスには何もできなかった。たとえその手に剣があろうとも、彼の幼い腕では一撃で屠ることはできようはずもない。うぞりうぞりと這い寄る、意外と速い粘性から逃げ回るだけ。それがアンドレアスの頬に血の色を浮かばせていた。屈辱だろうと思う。だがレクランにもまだ、何もできない。鞘に納めたままの剣を床に突き立て、柄に顎を乗せては退屈そうに見物するだけ。 「あまりご興味がないかな」 「逃げまわっているだけですからね」 「まぁ、そう言うものではない。疲れてきて足がもつれ、ついには魔物に触れられる。その恐怖を楽しむのだよ」 エンツォの言葉にレクランは優雅に肩をすくめていた。この男など物の数ではない。楽しげに見ているロックウォールこそ。レクランの意識はただロックウォールに。そしてそのときがやってくる。端まで逃げたアンドレアスが兵に突き飛ばされ、足取りを乱した。瞬間、スライムが這い寄る。いまこそとばかりロックウォールが身を乗り出した。レクランの手の届く場所に、エンツォとは反対に座ったロックウォールが、アンドレアスをよく見ようとレクランに身を寄せた。スライムに触れられたアンドレアスが、焼けるようなその痛みに顔を歪ませる。驚喜するロックウォール=ウィリアは気づかなかった。レクランがそこにいるのだと。 「げ……っ、ぐぅあ……がぁ――!」 フロウライトのぎょっとした顔。エンツォは何が起こったのかとばかりぽかんと。レクランがその剣を、鞘に納めたままロックウォールへとただ押しつけているだけというのに。ロックウォールの聞くに堪えない絶叫。 レクランのその剣は、いまや神具と化していた。死霊を退ける神の奇跡を行うものとして。レクランの口中、低く長い詠唱。聞こえるはロックウォールのみ。兵たちの騒めき、桟敷に飛び込もうか、迷う兵たち。顔形すら生きた人間とは思えないものへと変わっていくロックウォールに、最初に壊れたのはフロウライトだった。 「ひ……っ」 こけつまろびつ逃げて行く。レクランは気に留めている余裕がいまはなかった。エンツォが動かないでいてくれる、それがこんなにもありがたい。血の魔術師が不思議と動きを見せないことの方がよほど気がかり。 ざわりと、音がした。離宮ではない。その外から。だがそれがレクランには聞こえているようでいない。さすがに執着の深いウィリアだった。神具をもってしてすら、いまだ退散がかなわない。 「レクラン!」 アンドレアスの澄んだ声だった。振り返ることなくレクランは手を伸ばす。そこに過つことなく飛んできたあの聖印。同時にレクランは片足で松明を蹴り飛ばす。桟敷を越え、それはアンドレアスの下へと。見事拾い上げたアンドレアスは混乱する兵をかいくぐり、スライムへと対峙する。あちらはすぐに片がつく。レクランはそれを疑ってはいない。そしてこちらも。アンドレアスよりもたらされた聖印を、剣と共にロックウォールに押しつけた。 「おのれ、おのれ――レクラン、謀りおったか――!」 ロックウォールの声にして女の声。息を飲んだエンツォが腰を落とす。呆然とした目がロックウォールを見つめていた。 「神の裁きを受けるがいい。ウィリア!」 死霊のその正体を明かし、その名を呼び。声にならない悲鳴が庭中に響き渡る。ウィリアの、そしてロックウォールの、二重に聞こえる悲鳴だった。その場に崩れ落ちるロックウォールは、かろうじて息はしている。レクランはちらりともそちらを見なかった。死霊を剥ぎ取ったいま、敵はロックウォールではない。 ついに、血の魔術師ドゥヴォワール・サクレが動く。死霊が退散させられたこの場こそ、魔術師に与えられた最高の舞台だった。哄笑しつつ庭へと飛び降りた魔術師がアンドレアスの下へと走り込む。 「おぉ、我が主よ! 尊き上にも尊き主よ! いまこそお受け取りあれ。王の子なる血を糧に蘇りたまえ、三十六の軍団を率いる嵐の如く黒き豹なる炎フラウスよ――!」 この場には、ウィリアの怨念が漂っていた。リーンハルト王への恨み、死霊と化してなお果たさずにおくべきかとの執念。それを妨げられた怒り。魔術師にとってこれ以上の舞台はなかった。こうなると、彼にはわかっていた。ウィリアなど、所詮は彼にとっては道具に過ぎない。シャルマークの王宮にいまも虜囚とされたままの主を救い出すための道具に。 アンドレアスは、長衣をひるがえし突進してくる魔術師を見据えていた。いやにゆっくりとした知覚。兵たちから武器の一つでも奪いたいところだけれど、いかんせん幼い身、彼らの剣では長すぎる。いまだ燃え盛る松明を掲げるのみ。それでも屈さずと。その強い目こそ、魔術師が望んだものだった。 「よい、よいぞ。王子! それでこそ我が主に捧げる血たり得る。ウィリアもよかった。あの恨みは素晴らしかったぞ――!」 もう手の届く場所に。レクランはいまだ桟敷に。とても届かない。いまはただ、なんとしても己の身一つで魔術師を。だが、アンドレアスは唇を噛む。幼い身で、いったいどれほどのことができるかと。 魔術師が手にするは銀の短剣。儀式用のそれをアンドレアスの血に汚すのが楽しみで仕方ない。それが終われば次はレクランを。そしてエンツォを。この場には尊い血がいくらでもある。歪んだ唇が歓喜を表しているとは誰も思わない、思えない。 「我が主に血を捧げるを名誉と思うがいい!」 アンドレアスははっきりと銀の輝きを目にしていた。目を閉じることはするまいと。最後まで抗う意志として松明を掲げ。だが。 「な……」 ぽかん、とした魔術師の声。アンドレアスも目を瞬く。いまこの瞬間まで眼前に見えていたのは魔術師の狂喜の顔。しかしいま見えているのは、レクランの、まだ狭い少年の背中が、そこに。 「いったい、どうやって……」 短剣を受け止めたレクランの剣が震えていた。力ではない、神具がその忌まわしさに嫌悪をあらわにするかのよう。それでいてレクランは笑みを刻んでいる。 「神の奇跡ですよ」 言い様に、剣を引いては魔術師の腕を跳ね返す。そして二人の対峙がはじまった。 逃げ出したフロウライトは、涙に顔中を濡らしたまま数騎を伴い脱出を試みる。リーンハルトは好きではない。倒すことができれば栄誉はどれほどになるのか。そんな想像をした過去の己を殴れるものならば。 「これ、は……」 兵たちも中の騒乱に手薄になっていたのを幸い、フロウライトは離宮を易々と出た。だが、そこまで。愕然と馬を止める。 うそだろう。呟く主人に彼の騎士たちが剣を構えた。敵わない。襤褸屑のようになって自分たちは死ぬだろう。それでも主人を守らねばならない。 悲壮な騎士たちの傍ら、フロウライトは馬上で震え続けていた。 |