ミルテシア国内でエンツォの手勢が集結するまでに後五日ほど。それまでの娯楽に、とエンツォは三日後に離宮の前庭でアンドレアスを嬲る、と決めた。
「スライムなどがいいと思うのだがね」
 粘性の魔族だった。暗い森の中、あるいは墓所。ただでさえ生きた空もない場所をこそ徘徊する、酷く悪食の魔物は金属でない限り、なんでも溶かして捕食する。衣服であろうと、人体であろうと。それをアンドレアスにけしかけて怯えるのを見ようとの趣向だった。
 ――あと三日。
 レクランはエンツォに穏やかな返答をしながら焦っていた。ミルテシアの件に関しては現状で彼が打てる手は何もない。父か国王が何らかの手段を取っている、と信じるしかない。
 ただ、眼前にいるロックウォールだけは。いまもにやにやとエンツォと共にアンドレアスを言葉で嬲る。アンドレアスが意にも介していない素振りにエンツォは喜びを見せたけれど、ロックウォールは苛立ちを強めている。
 ――ウィリア殿なのだから、当然か。
 アンドレアスが泣きわめき、助命を嘆願すればどれほどの歓喜を見せることか。それが目的の一つ、とレクランは悟っている。自らが死霊となってまで、リーンハルトの血筋を絶やそうと。ぞっとしていた、レクランは。そこまでの執着が理解できない。いまだ年若い己であるせいか、思ったけれどならば父たちには理解が及ぶのだろうかと疑う。そのようなはずはないと内心で首を振った。
 あと三日。それまでの間にロックウォール=ウィリアへの対策だけはせねばならない。なんとしてもロックウォールよりウィリアの死霊を引き剥がせば、勝機はあるかもしれない。少なくとも、突破口にはなる。それを信じて祈るしかない。
 何もただ祈るつもりはレクランにはなかった。レクランはすでに見習い神官などの階梯を飛び越えている。それであっても、死霊退散の奇跡を乞うのは難しい。ましてウィリアほどはっきりと意志を持った死霊ならばなおさらのこと。
「逃げだされても困るしな。地下牢にでも入れておくといい」
 ロックウォールの言にエンツォが興が削げると言いたげ。ただその地下牢が半ばは遺棄された離宮だったこともあり、水気の抜けない酷い場所だと聞くなり歪んだ歓喜を浮かべた。
「スライムに与える前は綺麗に洗い清めてやろう、我が手でな」
 アンドレアスは答えない。呆れたような眼差しでエンツォを見やるだけ。幼い身に何をするつもりだとの軽蔑もあらわなその眼差し。ミルテシアとラクルーサの風俗の差、とでも言おうか。ミルテシアはラクルーサに比べ性に奔放なきらいは確かにあるが、だからといって幼少を相手にするのは無分別な振る舞い、とあちらでも言われるものを。
「連れて行け」
 苛立ったエンツォにアンドレアスが口許で笑った。そうするとリーンハルトによく似ている。内心でだけレクランは呟く、アンドレアス様、ご立派です、と。
「おや……」
 引きずられるアンドレアスの首元にエンツォが手を入れた。不快そうに寄せられた眉根に厭らしい笑みを浮かべたエンツォだったが、目的は違う。
「これは?」
「あぁ……聖印ですよ、マルサド神の。ご存じないので?」
「……ほう」
 レクランにエンツォの眼差し。人質に聖印など、言いたかったのだろう、彼は。だが聖なるものを取り上げることはしかねる、そんな目をしていた。
「私もラクルーサ王室の人間として、マルサド神を信仰していますから。神罰はご免被りたいですね」
 軍神マルサドと敬われるだけあって、何かと戦乱が絶えないラクルーサでは王家からの尊崇も篤い。それを淡々とにこやかに口にするレクランにエンツォは舌打ちをした。レクランが外せないのならば、この場の誰も外せない。行け、とだけ首を振った。
「少々お待ちを」
 言ってレクランはアンドレアスに近づいた。優雅に立ち上がる挙措をロックウォールがうっとりと眺めている。さすがにエンツォも気味悪そうにしていた。
「残念でしたね。勝負は時の運、とも言いますが。あなたには運がなかった。私と同時代に生まれてしまった」
 嘲るように微笑んだレクランは、侮蔑もあらわにアンドレアスの額にくちづけをした。アンドレアスが無言でレクランの手を払う。からからと笑うロックウォール、青ざめたフロウライト。対照的だとレクランは心に刻んだ。
 アンドレアスは、理解していた。この場の誰も気づかなかった様子だったけれど、先ほどのレクランのくちづけ。父王にアリステアがしていたのと同じものだった。
 ――レクラン。ごめん。
 どれほど彼の信仰は篤いのだろうと思う。祈りの言葉なくレクランは護身の奇跡を乞うことができている。それなのに自分はと思えば情けない。ここで泣いてしまってはなお情けない、そう思うアンドレアスはいまは耐えるのみ、と拳を握る。放り込まれた地下牢は本当に酷いところだった。湿っているのではない、ぬかるんだ土の床。腐った土が足にまとわりつく。息が詰まるような臭いの中、耐えられるだろうかと不安になった。
 ――大丈夫。レクランがいる。
 隣にはいない。けれどレクランの心がここにある。アンドレアスは聖印を握りしめ、マルサド神に祈る。レクランの無事を。
 そのレクランはフロウライトに武装を請うていた。丸腰のままではいかにも不満だと。
「まるで私を信用していないようではないですか」
 いまこの部屋にいるのはフロウライトだけ。エンツォと共にロックウォールは下がっている。血の魔術師もいなかった。そのせいだろうか、フロウライトがレクランに言葉を放ったのは。
「……貴様は……なにが王家の藩屏だ。アンドレアス様を」
「あなたに言われたくないですね、フロウライト伯。打倒リーンハルトを掲げてミルテシアに国を売るような真似をしたあなたには」
「私がいつそんなことをした!?」
「しているでしょう? エンツォ殿……いや、ビンチェンツオ王子を呼び寄せたのは誰です? あなたでしょう」
「だがそれは!」
「ミルテシアの助力を乞うつもりであった? アンドレアス殿を渡すつもりなど毛頭なかった? そうしたのはアーチボルト卿であると」
 そのとおりだ、自分はそのようなこと毛ほども考えていなかった、耳障りな喚き声。レクランは肩をすくめる。
「ミルテシアが無償で善意からアンドレアス殿を玉座に押し上げてくれるとでも思いましたか。浅はかな」
 十二歳の少年に嘲笑われ、憐れまれ、フロウライトは顔を真っ赤にしていた。ただ、言い返せない。確かにいまにして思えばこうなることは目に見えている。
「テレーザ殿の家系は、どうにも浅慮なところがあるようですね」
 微笑むレクランに、フロウライトは唇を噛みしめた。姉のことを言われたくはない。甥を正しく玉座につけるため。そう考えてのことだったはず。
 ――私は、どうなってしまったのだ。
 不思議なことがいくつもあった。アンドレアスは、時期さえ待てば王冠を得ることなど容易い。次代の王として養育されている王子なのだから。なにもわざわざミルテシアの力を借りる必要などどこにもない。アンドレアス自身が父王を嫌うように仕向けてみてもよかった。なぜ短絡的にこのようなことを。
「何はともあれ、我が武装を」
 傲然と微笑む王者の相。フロウライトは思考を破られ瞬きをする。レクランには、それで理解できたも同然だった。
 ――血の魔術師、ドゥヴォワール・サクレ、か。
 聖なる務めを自任し名乗るあの魔術師は、いったい何をもって「聖なる務め」と考えているのか。フロウライトの思考さえ操り、易々とミルテシアを引き込んだ。そもそもウィリアがこれほど強固な死霊と化しているのも、あの魔術師の助力あってのことだろうとレクランは考えている。
 ――目的は、なんだ。
 ミルテシアとの戦端が開かれるよりなお悪いことが起こりそうな予感。それは神官に神が囁いたのかもしれない。血の魔術師を排除せよ、と。
 ふらふらとフロウライトが出て行くに任せたレクランだった。あまり追い込んでしまっては、ドゥヴォワールに感づかれる。それを恐れてのこと。いずれにせよ、フロウライトもロックウォールも勝利か死のみが許されている未来だ。
 ――勝てば、ミルテシアの傀儡、か。
 それを勝利とはマルサド神の神官には思えないのだが。操られていたフロウライトとしては弁明があるかもしれない。聞く気は微塵もないけれど。アンドレアスの苦境を作ったのは、どのような理由があれ、フロウライトに違いはない。
 しばらくの後、エンツォを送り届けてきたのだろうロックウォールと共にフロウライトが戻る。その手にはレクランが望んだ武装があった。
「こんなものを? ……まぁ、致し方ないのでしょうね。残念です」
「なにが、ですかな?」
 満足げに言うロックウォールの背後で血の魔術師がにやにやとしている。口を挟むことは滅多にない。けれど常にロックウォールと共にある男。レクランは従者ごとき存在しない、と気にした素振りを見せなかった。
「ウィリア様がご存命であったら、と思っていたのですよ、アーチボルト卿」
「……ほう?」
「ウィリア様がここにおいでだったならば、このように粗末な武装などお許しにならなかったでしょうに。ラクルーサの正当な王子に相応しいものを、と仰せになったに違いない。もっとも、私もこのような身の上です。贅沢は申しませんよ」
 ただの愚痴です、とレクランは大らかに微笑んで見せた。フロウライトの物言いたげな顔。だがしかし、それ以上に変化が顕著だったのはロックウォール。身を震わせんばかりにして同意していた。歓喜も極まれば、醜悪なもの、とレクランは背筋に粟立つものを覚える。
「そのとおり、そのとおりだ。よくぞ仰ったぞ、レクラン王子!」
 ――それでこそ我が孫。それでこそ我が血筋。
 ロックウォールの言葉にかぶさるよう、ウィリアの声が聞こえた。ただ、聞こえたのはレクランとドゥヴォワールだけらしい。レクランはまったく聞こえた気配をさせなかったが。
「そうでしょうか?」
「あぁ、もちろんですとも! すぐに正しいものを用意させよう、そこなフロウライトの屑が用意したものなど捨てておしまいになるといい」
「ありがとう、アーチボルト卿。嬉しく思います。――あなたも、見たいでしょう? 私が王冠を得て玉座に就くさまを。王衣をまとい、輝くラクルーサの主になるところを」
 囁くようなレクランの声。ロックウォールは身を乗り出さんばかりだった。目を潤ませ、激しくうなずく彼に血の魔術師の冷笑。少なくとも、誰が主であろうとも血の魔術師には関係ないことらしいとは、探り出せた。同時に、自分がラクルーサの王位を狙うと口にしている間は、ロックウォール=ウィリアはそれに執着する。その間はアンドレアスを忘れ彼の命だけは守られる。レクランは内心に苦い安堵を噛みしめていた。




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