拙速は巧緻に勝る。言い出したのが誰だったか。アリステア率いるラクルーサ軍は、いまだ敵本拠地が掴めないままに出陣する。三カ所、と絞れてはいるものの。
「お館様――」
 致し方ない、この期に及んではどうにもならない。そんな主人の表情に、別働隊の指揮官たちは気を引き締める。三隊に別れたラクルーサ軍は、アリステアの主力がフロウライトの小城に、一隊が国境大河の渡河点付近の砦に、もう一隊が放棄されて久しい離宮に、と進軍して行く。小城が最も可能性としては高い、そのせいだった。
「頼むぞ」
 姿勢を正し、請け合う指揮官たちにアリステアはうなずいて見せる。ただ、それすらも真実は違った。指揮官たちはアリステアの存念を知っている。次々動き出す軍。波のようだった。
「行くぞ」
 アリステアの本隊も進軍を開始する。公爵としての軍装を、アリステアはしたことがない。いまもまた神官としてのそれ。神官戦士のころより少し華やいでいるのは、マルサド神に武闘神官、と名付けられたおかげ。司教が装いに色を、と添えてくれた。
 三軍共に、足は速い。それはまるで脱落者がいるならば置き去りにする、とでも言うよう。実際それを遠く確認していたフロウライトの手勢は少しずつ軍の規模が小さくなっているのにほくそ笑む。
「夜営は、致しますか」
 もし斥候の技に長けたものがいたならば、アリステアの本隊にグレンがいることで他の二隊こそが陽動なのだと知るだろう。
「いや、急げる限り、急ぐぞ」
「は――」
「苦労をかけるな」
「なんの、このような時のために訓練を重ねているのです。みな日頃の成果をご覧に入れようと意気軒昂であります」
 そうか、とアリステアは微笑んで見せた。ちらりと背後を振り返れば、必死の形相の宮廷魔導師ダトゥムがついて来ている。武闘神官であるアリステアと、その薫陶を得た彼の軍。その錬度の高さは王国随一と言って過言ではない。おそらくは近衛騎士団すら凌ぐだろう。そこに魔導師が同行するとは、それだけでも大変な覚悟だった。
 それでも、どうあっても必要だった。アリステアだけでは、手が足らない。否、必要を満たせない。軍を発する前夜のことだった。
「従弟殿。確定は――」
 本拠がわからないでどうするのだ、苛立ったリーンハルトにアリステアはにやりとして見せる。その表情に己の態度を改めるリーンハルトだった。
「もうすぐ魔導師殿が」
 言っている側からアリステアの部屋にダトゥムがやってくる。リーンハルトも出陣前夜ということもあって何かと忙しいはずだが、こうしてやってきたのはそのせいだった。
「失礼いたします」
 するりと滑り込んできたダトゥムにアリステアはうなずいて見せる。彼は大きな盥を持っていた。何事だ、とのリーンハルトの驚きを感じつつ、アリステアは笑っていた。そうすることで少しでも冷静さが欲しい。アンドレアスとレクランがこの手を欲して耐えている、と思えば。
 ご無礼を、言いつつ魔導師が仕事をはじめた。盥に水を張り、何かを唱えている。リーンハルトもそのあたりで水鏡、と見当がついた。が、その魔法は目的の場所がわからねば映らないもの、と仄聞する。
「閣下」
「おう」
 魔導師の促しに、アリステアが加わる。水鏡を挟んで両側に立つ二人の男。声が重ならないのは、互いに違う詠唱のせい。魔導師は真言葉魔法を、アリステアは神聖呪文を。それでいて、水鏡はそれに反応して行く。
「素晴らしい……」
 ダトゥムとアリステアとの、鍛錬の結果がここにある。リーンハルトはそう言いたい。アリステアに言えば信仰だ、と言うだろうが。その信仰を捧げ続けているのもまた鍛錬だ、とリーンハルトは思う。
「尋ねてもいいか?」
 詠唱が一区切りしたところを見計らって言えば、アリステアがうなずく。集中のせいなのだろう、額には薄く汗が浮いていた。思わず指でそれを拭えば照れた笑み。ダトゥムは見なかったことにしたらしい。空咳をしてリーンハルトは言葉を継いだ。
「いったい、何を?」
「言葉で言えば簡単なのですが……」
「やっていることは聞いてもいずれわかるわけもない。結果だけ教えてくれればよいよ、従弟殿」
「では遠慮なく」
 集中を乱すのを嫌い、簡単に済ませていいと言う王に魔導師がほんのりと笑みを見せる。このような王に仕える喜び、というものだった。だからこそ、なんとしても王子奪還は成功させる。その心構えがこの難しい呪文の融合を成功へと導いていた。
「水鏡は、私には使えない。ですが、ダトゥムには私が見たい場所がどこかが、わからない」
「理解できる。だが、見たい場所とは?」
「聖印の場所です。レクランに授けられた聖印の場所を、探しているのです」
 息子があれを手放すはずがない。彼が持っていないのならば王子が持っている。むしろ、自分が傍らにあれないのならば、レクランは王子にこそ聖印を持たせているだろう。父としての勘と神官としての洞察。ゆえに探すべきは聖印のある場所。
「映りました――」
 魔導師の密やかな声。声音にすら映像が揺らぐ、と言わんばかりの。そしてリーンハルトは息を飲んだ。
「見覚えが、あるぞ……」
「ありますね、俺も」
「昔行ったことがなかったか?」
「まだ俺が幼いころだったと思いますが」
 アリステアの言葉が乱れていた。ダトゥムは聞かなかったふりをしている、否、聞こえていない様子だった。それだけ二人の集中の度合いが高まっているのだとリーンハルトは知る。
 水鏡に映っているのは、放棄されて久しい離宮だった。いったいどれほど長いあいだ手を入れていないのか、忘れてしまった。
 ――たぶん、行かなかったのは、ウィリア殿が好んでいたからだ。
 アリステアが幼いころ、とはすなわち彼が次代の王冠を約束されていた当時、ということになる。アリステア王子とリーンハルト卿として、離宮に遊びに行った思い出が、いま汚された気がした。思わず握った拳。気づいて緩めれば、水鏡に集中しながらアリステアも同じことをしていた。
「間違っていると思うか?」
「いえ、見たいものを見ている、と言うわけではないよう存じますが」
「だろうな。このようなもの、誰が見たいものか」
 アリステアの呟き。魔導師はこくん、とうなずく。二人の思い出、と知っているわけではなかろうけれど、何かは察したようだった。
「では、確定だ。ご苦労だった」
 は、と頭を下げるままに魔導師の体が揺らぐ。咄嗟に手を差し伸べ、アリステアが水鏡をまわっては抱きとめた。
「申し訳ありません――」
「気にするな。無理を強いたのは私の方だ。充分に休めよ」
「ありがとう存じます」
「あぁ、水鏡は置いて行くか? あとで誰ぞに運ばせよう」
 それにも礼を言い、ダトゥムはふらつく体を持て余すようにして帰っていった。その後ろ姿をアリステアは最後まで微笑んで見送る。
「アリステア」
 扉が閉まった途端だった。リーンハルトの腕にアリステアが倒れ込んだのは。魔導師だけが眩暈に襲われているわけなどないだろう、と思っていたリーンハルトは疾うに抱きとめる姿勢を作って待ち構えていたが。
「……すみません」
「意地っ張りめ」
「みっともないところを見せました」
「可愛いと思うがね、私の従弟殿」
 耳元で囁いてやれば力ない笑い声。肩口に頭を預けたまま、アリステアは耐えていた。真言葉魔法と神聖呪文の融合が、これほど負担になるとは思ってもいなかった。難しいだろうとは思っていたのだが、ここまでとは。
「アリステア。少し動くぞ?」
「……色っぽい台詞ですね」
「そういう冗談は寝室で言え」
 一蹴し、リーンハルトは長椅子へとアリステアを座らせた。青い顔をしていると改めて思う。強い蒸留酒を少しばかり持ってきてやれば、唇を濡らすように飲むアリステアだった。
「大変なことだったのか? わかってやれなくてすまなく思う」
「私自身、ここまで大変だとは思いませんでしたね」
「……そうか」
 返答をしながら、どこか笑いを噛み殺したようなリーンハルトにアリステアは首をかしげる。何か面白いことでもあっただろうかと。
「先ほどは『俺』と言っていたぞ。気づかなかったのか? 実に珍しくて、もうずいぶんと回復したのだな、と思っていた」
「……魔導師殿に聞かれたか。まずいことをしたな」
「聞こえていなかっただろうよ、あの調子では」
「それでも」
「アリステア」
 おいで、と言いながらリーンハルトの方がアリステアを引き寄せ、その唇を啄む。アンドレアスが誘拐されて以来、アリステアは公的にはレクランの名を一度も口にしていなかった。リーンハルトと二人でいてすら、作戦にかかわること以外では口にしようとしない。
「従弟殿。約束をしてくれるか?」
「……できない約束もありますが」
「たとえば?」
「必ず生きて帰れ、かな」
 目で笑うアリステアにリーンハルトは一睨みをくれる。一番に言いたいのはそれだと彼もまた知っているはずだからこそ。
「違うぞ。……レクランを、無事に連れて帰れよ。アンドレアスがレクランを庇うだろう。私もまたレクランを守る気でいるからな。よけいなことは考えず、レクランを連れて帰れよ」
「……善処は」
「アリステア」
「何が起こるかがわかりません。従兄上、言いたくないですがね……レクランが本気であちらについている可能性だとて、あるんですよ」
「ないな、それは」
「どうしてです」
 むっとしたアリステアは唇を盗まれて軽い笑い声をあげる。警戒し続けていては身が持たない、それを指摘された気がした。
「お前は私を裏切るか? 同じようにレクランはアンドレアスを裏切らない」
 あまりにも真っ直ぐな言葉が眩しかった。この言葉が眩しいと感じられている間は大丈夫だ、わけもなく思いアリステアはリーンハルトを腕に抱く。




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