顔を歪め、ロックウォールが室内に入ってきた。笑っているつもりらしい、とレクランは穏やかな顔をしつつ眺める。
「ご機嫌よう、殿下」
 にんまりとしたその唇。レクランは父のよう肩をすくめて見せる。端然と見えただろうか、内心に思いながらも。ロックウォールの背後には引き攣った顔をしたフロウライトが付き従っていた。その表情を見れば本意ではないのは自明。無理矢理に体を動かされている、そんな様子を見ればレクランには見当がつく、あのハートと似たようなものなのだと。意志こそ奪われてはいないものの、フロウライトはぴたりと張り付いている血の魔術師に肉体の制御を取られているらしい。
 ――気味が悪い。
 ハートには、一種の憐れみを感じていた、レクランは。暗殺者とはいえ心の自由まで奪われた哀れな男、と。神官として、当然の感覚だとレクランは思う。だがフロウライトには、ただただ気味の悪さだけを感じていた。
「お気持ちは変わりましたかな?」
 猫撫で声のロックウォールにレクランはまたも肩をすくめるのみ。室内には、彼らだけではなかった。罪人が牢で着せられる貫頭衣のみを与えられたアンドレアスが、レクランに仕えるように、と残されている。壁際で、唇を噛みしめて。
 数日前のことだった。ロックウォールの提案にレクランが乗ったのは。アンドレアスを排し、自らが王位に就くと。
 ――そうでなければ、あの場でアンドレアス様は殺されていた。
 如実にわかってしまったからには、承けざるを得なかった。レクランにとっては生涯の汚点とも言える返答。アンドレアスの理解だけが心の支えとなっている。ロックウォール反逆を知ったあの日にレクランを殴り罵ったのとて、アンドレアスにとっては彼の示唆に従っただけのこと。一瞬たりともレクランに寄せる信頼は揺らいではいない。
 けれどあれが契機だったのだろう。ロックウォールはアンドレアスではなくレクラン擁立に動きはじめた。自らの欲望そのままに。
「だがな、考えてもご覧になるといい」
「王子として声明を出せと? お断りしたはずですよ」
「考え直す気はないと?」
「考え直すのはそちらですよ、アーチボルト卿。なぜ私が自らの正しさを証明せねばならない? 私の血の濃さは、それと同じだと誰もが知っている」
 傲慢にも顎先でアンドレアスを示す態度にフロウライトが青ざめ、ロックウォールは笑う。血の魔術師だけが平静のまま。どこにでもいるような男であるぶん、薄気味悪かった。
「あなたの身分では詳しいことなど知りもしないでしょうが」
 ふ、とレクランが笑った。ロックウォールを穏やかに見つめて。公爵家の嗣子、あるいは王家の一員であるレクラン。転じてロックウォールは王妃を出した一門の人間とはいえ、たかだか子爵。レクランの侮りまじりの声音に一瞬という短い間ではあった、だが確かにロックウォールは顔色を変えた。
 それがすぐさま戻っていく。逆にロックウォールの顔にこそ、侮蔑が浮かんだ。どこかで見た覚えのある表情。レクランが思い起こすまでもない。ウィリアに見ていたあの顔。確実に取り憑かれている。神官の目には確かなことだった。そしてウィリアであるからこそ、アンドレアスではなく、レクランを立てようとする。孫可愛さであればどれほどよいか。リーンハルト憎しのその一念をもって。
「我が祖父の王冠が強奪されなどしなければ、私が次代の王であるのは明白」
 そうでしょう、とフロウライトに微笑んで見せるレクランだった。いまはもう怒りか恐怖かにがくがくと震えている男に語る形を取ってロックウォールを煽る。
「何を血迷ったか……いまにして思えば幼き頃より、あのリーンハルト殿の色香に迷った愚か者であった、というだけのことなのでしょうが。アリステア卿が己の権利を投げ捨てなければ、このようなことはなかった。わかりますか、アーチボルト卿。私はあるべきよう正そうとしているに過ぎない」
 年端もいかない少年に、壮年のロックウォール子爵アーチボルトが諭されている。滾々と、丁寧に。フロウライトの青い顔、レクランは見やって再度微笑む。我が身の正しさは、誰の目にも明らかであるがゆえに、証明などする必要はないのだと。
 レクランの本心はただ一つ。たとえ演技であろうとも、そのような大逆を口にすることだけはしたくない。アンドレアスは理解してくれている、それでも。そんなレクランを見つめる血の魔術師はにやにやとした笑いを浮かべていた。
「残念でしたね、フロウライト伯爵。私に与すればよかったものを。起死回生ならず、ですか」
 ふふ、と笑うレクランを奇妙というよりなお恐ろしげな目でフロウライトが見ていた。これは本当に少年か、アンドレアスとさほど年齢が変わらないのかと言わんばかりに。だがしかし、フロウライトには望みがある。姉の子を、玉座に就けるという大望が。
「血迷ったのは貴様だろう!?」
「おや? 反逆者の一族にそのようなことを言われるとはね。テレーザ殿は、まぁ……正しかったと私も思いますが。やり方がよろしくない。頭の良し悪しがかかわってくるのですよ、反逆とは、ね」
「貴様――」
「アーチボルト卿。なぜこれを生かしておいでです?」
「これはこれで、使い道があるのですよ。殿下」
「殿下はやめていただきましょう。いずれは……ね」
 ロックウォールの唇だけが笑いながら刻む、陛下、と。その背後に取り憑いたウィリアの歓喜の叫びが聞こえた気がした。
「まぁ、まだ時間はある。考え直してくださることを願っておりますよ」
 にんまりとしたロックウォールがフロウライトを促して立ち去った。最後まで憤りの強い顔をしていたフロウライト。自らの配下に裏切られ、操られ。レクランは同情はしなかった。扉の前からも音が絶えるまでしばし。
「アンドレアス様!」
 何も聞こえなくなるなり長椅子から飛び立ってはアンドレアスの下へとレクランは走り寄る。それにアンドレアスは小さく笑った。
「おいたわしい……」
 小さな手を包み込めば、傷ができている。最下級の召使、として扱われているアンドレアスだった。こうしてレクランの傍らに置かれているのは、いまの身分をあからさまにするため。我が身を顧みよ、と笑うロックウォールの声が聞こえる気がした。
「大丈夫」
 顔色は決してよくない。食事すら充分に与えられていないアンドレアスだった。それでも彼は笑って見せる、大切な友のために。
「気に病むなよ、レクラン。僕なら心配はないから。ほら、お芝居だと思えばいいんだよ、ね?」
「アンドレアス様……」
「お芝居なんだから、怖いことなんか少しもない。レクランが一緒だ。大丈夫、父上とおじ上が、助けてくださる」
 包んだ手を逆に握られ、レクランの方が励まされる。小柄な王子の前、膝をついたレクランは怒りと屈辱に薄く涙ぐんでいた。
「心配するなって、レクラン!」
 顔を上げれば、驚いたよう目を見張った王子に、レクランは無理に微笑んでみせる。アンドレアスにとっては、驚きだった。この常に冷静で落ち着いた友がこれほどの激情を秘めていたとは。
「レクランはお芝居が上手なんだよ、僕は見ているからわかるんだ」
「……僕は」
「その辺は、おじ上に似たのかな? おじ上も楽しい方だよね?」
 その言いぶりに、レクランはかすかに笑った。確かに父は芝居気のある男だと思う。あの父の態度に倣い、できる限り時間を稼ぐ。いまレクランにできるのはただそれだけ。
「父上も、おじ上も。レクランが何を言ったと言われていても、絶対に信じたりしない。僕が信じてないんだから。わかるだろ?」
「宮廷は信じますよ。僕はエレクトラの息子ですから」
「知るか、そんなの! レクランはおじ上の子だろ。僕が父上の子であるのとおんなじで」
 テレーザの子、としてフロウライトに扱われて嫌な思いをしていたアンドレアスだった。こんなことになるくらいならばその方がまだしもだったけれど。自分が嫌なことを言われている方が、レクランが嫌な思いをするよりずっといい。アンドレアスの力強い手に、レクランはしばしなりとも力をもらう。
「励まされてしまいましたね、僕の方が」
「友達だろ?」
「……はい」
 ほんのりと笑ったレクランの顔が好きだとアンドレアスは思う。先ほどの落ち着いているけれど冷たい笑顔などではなく。レクランはそんなアンドレアスの手を取り、人気がないのを確かめては長椅子へと座らせた。
「こんなものを召し上がっていただくなど……本当に、腹立たしい」
「そう言うなって。結構おいしいよ」
「ですが」
「ほらレクラン。一緒に食べよう?」
 茶菓として出されていた菓子を取り、アンドレアスがレクランに勧める逆転した情景。双方がそれと気づいて小声で笑い合う。
「大丈夫。レクランが一緒だ」
「いつなりとも、お側に」
「うん」
 傍らに座し、レクランは小さな王子を守るよう。この身で庇えることならばどんなことでも。そう考えていた己の浅はかさ。こんなことになるとは、王城を出立した時点では夢にも思っていなかったものを。
「お寒くはないですか?」
「ちょっとだけね。でも」
「ご無礼を」
 仄かに微笑んだままレクランは王子の体に腕をまわす。父たちがしているようなそれではなく。互いに同時にそれと気づいて少しばかり赤くなったが。
「もう、レクラン!」
 ぺしり、と彼の腕を叩くアンドレアスに、レクランもからりと笑っていた。色めいたものなど微塵もない、あるのは類稀な友情だけだった。

「可愛らしいものですな……」
 それを見られていたと知れば、レクランは屈辱に打ち震えんばかりだろう。城内の、どことも知れぬ暗い部屋だった。部屋の隅、蒼白になったフロウライトが壁に寄りかかっては自らの喉元を押さえていた。その指の間から零れる鮮血。
「貴様……忌まわしい……」
 ドゥヴォワールによる、血の魔術に使われた彼の血液。ロックウォールが言った使い道とは、これだった。自らの血が、そのように使われるなど。否、血の魔術師。その意味をはじめてフロウライトは思い知る。ロックウォールは泰然と動きもせず水鏡を見ていた。
 魔術師の手元の水鏡を。その水面に映るはアンドレアスとレクラン。身を寄せあい、笑い合う子供たち。互いに励ます可愛らしい姿だった。
 魔術師が作り出した水鏡がかすかな光を放っている。覗き込むようにしていたロックウォールの顔が下から照らされ。ひどく邪な歪みが彼の口許を彩った。声にならない悲鳴にロックウォールは壁際を見やる。そこではフロウライトが意識を手放していた。




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