休憩中に無粋なことよ、そんな気分が一瞬で吹き飛んだ。扉の前に立っていたのは、侍従に伴われたグレン。それだけならばアリステアが顔色を変えるほどではない。だがしかし、グレンは血塗れのハートを抱きかかえていた。
「入れ」
 短く言って侍従を排する。それに侍従は心得て一礼しては下がっていった。室内ではすでにリーンハルトが立ち上がり、彼らを見ている。その険しい眼差し。何があったのかは一目瞭然。最低限、アンドレアスに何かがあった。
「報告を」
 端的なアリステアの言葉にハートが目を開ける。半ば閉ざされていた目だった。瀕死の重傷を負い、彼はここまでたどり着いた。
「……陛下、に」
 差し出されたものをグレンが受け取る手間もかけずアリステアが取る。それに彼の顔が強張った。以前レクランにやった短刀。無言でリーンハルトに渡せば、彼もまた見覚えがあったと見える。
「……フロウライト、反逆。主犯は、ロックウォール。殿下は、捕えられ……ミルテシア、に……」
「よくやった。報告、ご苦労だった」
 アリステアのねぎらいに、ハートの目が和らぐ。そのまま深く息を吐き、再び吸い込まれることはなかった。
「なにか、聞いているか?」
 暗殺者であった。心をいじられ、絶対の忠誠を植え付けられて働いた男でもあった。それでも、こうしてここまで決定的な証言を届けに来た。グレンは床の上に横たえるのが忍びなく、まだハートを抱えたまま。
「グレン。長椅子を使え。お前がそれでは話がしにくい」
「……は」
 リーンハルトの温情だ、とグレンは目を瞬く。薄く張った涙を払い、死んだハートの力ない体を長椅子に。まだ開いたままの目を、アリステアが閉じてやっていた。
「この有様でしたから、直接城に向かっても無理だ、と判断したのでしょう」
 まず自分のところに来たのだ、とグレンは言う。正しい、と二人がうなずいていた。これほど血だらけで城に入ろうとすれば衛兵が間違いなく止める。同時にアリステアは思う。忍び込むこともできないほど、衰弱していたのだと。事実、報告が済むなりハートは息を引き取った。最後の意地だけで、たどり着いたとしか思えない。
 ――気分が。悪いな。
 押しつけられた忠誠で、ハートは命を落とした。そうしたのは自分だ。ぐっと唇を噛むアリステアを、リーンハルトは無言で見つめる。それにすら気づかないアリステアだった。
「その場で、万が一自分の命が持たなかった場合のことを考えたのか、事のあらましは語っております」
 やはり、正しい判断だったとアリステアは思う。ほんの一時でもたどり着くのが遅れたならば、ハートは報告をできずに死んでいただろう。グレンはそれを鑑みて、少々の無茶をしている。後ほど主に詫びておかねば、と思う程度には。
 ハートの報告に、次第に二人の顔色が悪くなっていく。フロウライトを侮っていたわけではない。だが、現時点で反逆はない、と判断していたのが仇となった。よもやミルテシアとは想像の外だ。
「そこまで、思い切ったか……」
「ハートは、アンドレアス殿下奪還を試みてその……レクラン様に、切りかかった、と」
「レクランは向こうについた、ということだな?」
「お館様!」
「大きな声を出すな。あれにはあれの考えがある。殿下の悪いようにするはずがない。おそらくは……反逆の汚名を着てでも殿下のお側にいようとしたのだろう」
「……レクラン」
 そっとリーンハルトがアリステアの子の名を呼んだ。握りしめられた拳。アリステアがアンドレアス奪還を考えているのならば、自分が考えるべきは二人の子供の奪還。なんとしても無事で助け出す、リーンハルトは心に誓う。
「レクラン様のお考えは……わかりませんが。そうであることを祈ってはおりますが、ハートを阻んだのはレクラン様であったと。ただ……御自ら短刀から手を離し、陛下に、と囁かれたとのこと」
「うん……? 従兄上、ちょっといいですか。短刀を」
 握っていた短刀をアリステアに手渡す時、リーンハルトは痛みを覚える。それほど強く握っていた自分と気づいては苦笑した。ゆっくりと呼吸をする間に、アリステアが短刀を見つめている。ふと気づいたよう、その革巻きの柄へと眼差しを向けた。
「従兄上、ご覧になれますか。ここです」
「ん? これは……」
「爪で刻んだのでしょう。読みにくいですが……ロックウォール、ウィリア、とありますね」
「どういう意味だ?」
「それから少し間を開けて、斜線を引いて血の魔術師、とある」
 じっと息子が寄越してきた短い情報をアリステアは考える。見張られている中、これだけを刻むのが精一杯であった息子。父ならば確実に読み取ってくれるはず、と信じて寄越してきた。
「……そういう、ことか! グレン、侍従を。すぐさま神官を墓所に送り込め。ウィリアの墓を改めろ!」
「待て、アリステアどう言う意味だ!」
「ロックウォールです。死霊と化したウィリアが取り憑いているんですよ、従兄上」
「な……」
 愕然とする間にもグレンが室外に走り出て差配をする。にわかに騒然となる城内だった。すべての指示を終え、二人はスクレイド公爵家の部屋から動かない。無闇に動けば、探し回ってよけいな時間を食う。無言のまま報告を待つのは嫌なものだった。
 失敗を、アリステアは悟っている。海上修道院で、すでに死んでいたウィリア。あの時に魂の存在を感知しなかった。だからこそおとなしく「死んだ」ものとして考慮の外に置いてしまった死霊化。血の魔術師、と言われたときにどうして思い至らなかったのか。ウィリアに協力していた血の魔術師、殺され肉体も残らなかったウィリアの侍女、殺害された修道院長。血の魔術によってすでに死霊化され、魔術師によって連れ去られていたウィリアの死霊。おそらくは、そういうことだったのだろうと。
「……アリステア」
「レクランがどうのならば、聞こえません」
「そうかりかりするな、従弟殿」
 むっとしてリーンハルトを見やればどこか引き攣ったような微笑。リーンハルトとて、苛立ちは募っているだろうに。むしろ。王国を継ぐべき王子が捕えられたことに焦燥と怒りと不安とを感じているのはリーンハルトこそ。
「申し訳ない……」
「気にするな。我々は一人の父親でもある」
「それ以前に、我々は陛下の臣下でありますよ。レクランの判断は正しい」
 その身を挺してでもアンドレアスを守れ、と言って送り出したのは自分だ。レクランは笑って当然だと言って出かけて行った。あのときには、このような事態は想像もしていなかったものを。
「レクランが汚名を着るのは、正直に言えばかまいません」
「アリステア!」
「いいのです、殿下と従兄上が信じてくださっている限り、なんの問題もない。……問題があるのは、宮廷です」
「確かに」
 これでまたスクレイド公爵家反乱の風聞が立つ。立たないほうがおかしい。いまだ情報の子細がわかっているわけではないが、最低限アンドレアスがミルテシアに連れて行かれているらしいことはわかっている。
「ロックウォールは、なぜアンドレアスを殺さない?」
「正当性が薄れるからでは?」
「玉座のか? 馬鹿を言うな。血の濃さで言うのならばな、アンドレアスとレクランと、似たようなものだ。どちらも等分に王家の血を継いでいる」
「それは言ってはならないことですよ」
「反逆者にそれを言う意味がどこかにあるのか、アリステア?」
 にやりとしたリーンハルトにアリステアは肩をすくめる。少し、冷静さが戻ってきた。今後の厄介事が嫌と言うほど想像できる程度には。
「アリステア、言うまでもないがな」
「ならば言わないでください」
「言わねば誤解を招きそうでな。――私はお前を信じているよ、可愛い私の従弟殿。お前が、アンドレアス奪還の最前線に立つことになる。私の息子を助けてくれ」
「従兄上……」
「また、お前を戦いの場に差し出すことになるがな」
 肩をすくめるリーンハルトの、その肩をアリステアは抱き寄せる。そのまま無言で唇を重ねた。平素よりは強張ったリーンハルトの唇。アリステアの下で蕩けることもない。
「私は戦うしか能がない武骨者。それでいいのですよ、従兄上。従兄上の信頼があれば、私は勝てます。アンドレアスを間違いなく連れ帰りましょう」
 王国軍を預かる公爵としてではなく、従兄の息子を連れ還る、アリステアはそう笑った。力強い言葉だと思う。だからこそ、リーンハルトは釘を刺す。
「念のために言っておくがな、アリステア。お前も共に帰ってくるのでなくては怒るぞ?」
「お約束は――」
「しろ。誓え。アンドレアスと手を繋いだレクランをお前が連れ還ってくるところを私に見せるのだと誓え、私のアリステア」
「……最善は尽くしますよ。戦場は何があるかわからない」
「アリステア!」
「従兄上の伴侶として、子供たちを連れ帰る気ではいます。ですが、陛下の臣として、私が優先するのはアンドレアス王子のお命です。おわかりくださいますね?」
「……お前が最優先だと言えるほどに愚かであれればよかったと思う程度には理解したよ、忌々しい従弟殿め」
「さすが聡明な従兄上だ」
 にこりと笑うアリステアを戯れに叩く。固い腹に拳が当たり、アリステアはそれでも笑っている。もうすぐそこに、出陣する時間がやってくる。それを双方が覚悟するがゆえに。
「すんなりと出陣、と行けばいいのだがな」
 もっともだ、とアリステアはうなずいていた。レクランが相手方に立った様子は嫌でも伝わる。ならばその父であるアリステアが軍を率いればどうなるか。ミルテシアに与するのではないかと疑われるのはあまりにも当然だ。
「それは私が抑えて見せるさ」
「無茶をしないように、従兄上」
「こんな時に無茶をするのが権力、というものの使い方だ。知らなかったか?」
 茶目っ気たっぷりに言ってみせるぶん、リーンハルトの焦燥が感じられる。アリステアは彼に無理をさせないための算段を考えはじめていた。
 ただ、難しい。レクランはアンドレアスのためにあちらに残った、それは父として自明のこと。それを貴族が信じる理由はない。まして反逆を疑われ、実際に公爵夫人が反乱を起こしたスクレイド公爵家の嗣子。アリステアの息子である以上に、エレクトラの息子と解釈されても無理はないレクランだった。無事でいろ、と祈る虚しさ。アリステアは神官として位階を得てからはじめてそのようなことを感じた。




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