事件が起きたのは、アンドレアスがフロウライトの城に滞在して八日目の晩。入浴に立ったアンドレアスを見送ったレクランは、近衛の隊長と翌日の相談をしていた。明日はアンドレアスが遠乗りに出かけたい、と言っている。 「殿下のご提案、とのことでしたが――」 実は違う、とレクランは知っている。フロウライトからの提案だった。それをアンドレアスは喜んだのだが、レクランにとっては不安でしかない。現状が危険であるのはアンドレアスも理解している。が、ここまで動きがないとまだ幼い彼のこと、遊びに行きたくなるのも無理はない。 「念のため――」 護衛を厚くしてください、言いかけたレクランの言葉が止まった。室外で呻き声が聞こえた気がする。はっとして隊長を見やれば、彼は彼ですでに剣を抜いていた。 そこに突入してくる、フロウライト麾下の騎士たち。室内が埋まるほどのそれに隊長は抗おうとしたものの、レクランが止めた。 「なぜですか!?」 フロウライトの騎士たちは、扉を守っていたレクランの騎士ニコルを殴り倒していた。半ば意識朦朧とした彼を引きずり入れればニコルの目がレクランを捉える。 「無駄死にをするおつもりですか」 淡々とした声音に隊長は歯軋りをする。それでも抗う、そんなきつい眼差し。レクランはけれど、彼ではなく騎士たちの背後を見ていた。現れ出た、フロウライトを。そしてロックウォールを。 「ずいぶんと冷静でいらっしゃるな。さすが同性愛者の息子は情が薄い」 嘲笑うフロウライトより、レクランの視線を奪ったもの。見かけない、気味の悪い男がロックウォールの傍らに。フード付きの長衣をまとった、痩せぎすな男だった。いまは背中に跳ねのけられたフード。それがよりいっそう気味の悪さと顔色の悪さを強調している。が、一見はどこにでもいるように見えてしまう。それがなお、気味が悪い。 「ほう……。お気づきか。目だけはよい、と褒めておこう。名乗ったらいかがかね、魔術師殿」 ロックウォールの嘲笑に、長衣の男が皮肉に口許を歪めてレクランに向けては慇懃無礼に一礼した。血の魔術師、ドゥヴォワール・サクレ、と。さすがに顔色が変わったレクランだった。 「ご存じと見える。ではやはり、殺しておくとにしようか」 「貴様!? レクラン卿に指一本たりとも――」 「黙れ!」 ロックウォールに隊長は殴り飛ばされ、ニコル共々折り重なるよう。ニコルはただレクランを見ていた。だが隊長は平静を保ったまま微笑を浮かべるレクランに唖然としている。同時にレクランもまた。近衛の一隊を預かるほどの武芸を誇る隊長がかくも易々と飛ばされる。あり得ないものを見た。そのつもりで見れば、明らかな異変が。 「では、殺される前に一つ質問を。よろしいか?」 にこりと笑うレクランにフロウライトが気色悪げな顔をした。たかが十二歳の子供、には見えなかったのだろう。面白そうな顔をしてうなずいたのはロックウォール。それでレクランにも確信が持てる。この場の主導者がどちらなのか。 「アンドレアス様を、どうするつもりだ?」 「なに、簡単なことだ。――殿下には、正しくラクルーサの玉座に就いていただく。貴様らのような柔弱な同性愛者の手の届かぬところでな」 「誤解があるようだが。そのような輩と同一に語られるのは迷惑千万。私を父と同じに語らないでいただきましょうか」 愕然とこちらを見上げてきた近衛の隊長、眼差しに色を乗せないニコルの目。レクランは笑みを崩さない。ほう、とロックウォールが興味深げな顔をした。 「我が望みもまた、アンドレアス様に玉座を得ていただくこと。我々は、敵対する理由がありますか。ロックウォール子爵」 「同性愛者の息子など――」 フロウライトが呟きかけ、ロックウォールの眼差しに圧されて止めた。内心でにやりとしたレクランなどと、彼らは気づかない。 「ただ、ロックウォール子爵。いえ、ここはもう少し親しくお呼びしましょうか。アーチボルト卿には、勝算があるのですか。国王は、あれでそれなりに人望がある。アリステア卿も、剣の腕は王国随一。さて、成算はいかに」 「あるとも。あるのだよ、小僧。あるから、こうしているのだ。わからないか? アンドレアス様をな……ミルテシアにお迎えするのだよ」 密やかに、次第に大きく笑うロックウォール。ぽかん、と口を開けたフロウライトがただ立ち尽くしていた。 「待て、待て。アーチボルト……私は、そんなことは……」 「ご存じなかった? そうでしょうな。腰抜けめ。貴様のような輩が共にいては事はならんわ」 「貴様――!」 さっと騎士たちがフロウライトを囲んだ。己の騎士、と思っていたはずの男たちに剣を向けられ愕然とするフロウライト。レクランは見てとる。騎士たちの目に光がないことを。身近でも見たことのある目をしていた。 「なるほど。アンドレアス様をミルテシアに、ですか。それは……よい計画ですね」 「……ほう?」 「ですが、疎漏と言えるほどではないが……私にも一案がある」 隊長とニコルもまた、騎士たちに拘束されていた。フロウライト共々、何が起こっているのか理解できない、そんな隊長の眼差し。レクランがアンドレアスを、リーンハルトを、ラクルーサを裏切ったと感じているのだろう。言ってみるがいい、冷笑するロックウォールにレクランは微笑む。 「我がスクレイド領はどこにあると思います? そう、王都の南に位置する。更に南は?」 「海、だな」 「ミルテシアにも海はありましょう?」 嗣子として、レクランはある程度の裁量が許されている。それを知らないロックウォールではなかった。貴族の通例として、レクランは家中の兵力を使える。 「まして現状、アリステア卿は男を誑かすのに忙しい。領地経営は誰がしてると思うのです?」 「小僧がしているとでも言うか」 「言っては、なりませんか? 私は嗣子として育てられた。できないわけがない」 断言する、と言うには優しい言いぶり。レクランはいままで一瞬たりとも笑みを絶やしていない、それが空恐ろしい、フロウライトは身を震わせていた。自分にわからないところで、いったい何が起きたのかと。ロックウォールが連れてきた魔術師ドゥヴォワールを見る。嘲笑う顔を崩していなかった、張り付いたように。 「なるほど……それはいい。それは……いいな小僧」 「では?」 「仲間に加えてやってもいい。が、殿下には何をどう言うつもりだ? 貴様は、殿下の御身に何をしでかしていた?」 「まだ誤解があるようですね。そのフロウライトのような不忠者がいるのですよ。昼夜を分かたず一瞬たりとも目を離すわけにはまいりません。寝台を共にしていた? ご冗談を。私はアリステア卿とは違う。いかにお可愛らしいアンドレアス様とはいえ、その肉体を楽しみたいとは微塵も思いませんね」 微笑んだまま鼻で笑うレクランに、隊長が怒りをこらえかねていた。わかってはいる。が、レクランには他に大切なことがあっただけ。おそらくニコルは、それを理解している。顔に出すな、レクランは願う。自分の命より、ニコルが危なくなる。ゆえに真っ直ぐとロックウォールに向けて微笑んでいた。 「よかろう」 短い同意。それにレクランは笑みを深くする。フロウライトの叫び声。いまになってようやく自分がどうなるか、理解したのだろう。血の魔術師が進み出てきたその恐怖と共に。 「やめろ――!」 そこに、入浴からアンドレアスが戻った。室内の様子に彼は立ち尽くすかと思ったロックウォールだったが、意外にもアンドレアスはすぐさま顔つきを険しくさせる。 「どう言うことだ。レクランを解放するがいい」 いまならばまだ見逃してやろうとでも言うようなアンドレアスの声音。レクランはそっと微笑む。その笑みの作り方の差、だろうか。身近にいたからこそ、アンドレアスには理解ができる。 「レクラン卿は、我らの仲間となったのですよ。殿下」 「なにを、馬鹿な」 「愚かはどちらだ? あなた様はミルテシアに向かうのです。そしてあの汚らわしいリーンハルトを打倒し、ラクルーサを元の輝かしい国に戻すのですよ!」 「父上を悪く言うな!」 「おやおや、大の仲良しのお友達は、我らの仲間になった、と申し上げたでしょう?」 レクランもまた、リーンハルト打倒を誓った。ロックウォールの言葉にアンドレアスは目を見開き、彼の友を見つめる。嘘だと言ってくれ。そんな目にレクランは優しく微笑んでいた。 「アーチボルト卿の言う通りですよ、アンドレアス様。あなた様こそが玉座に座るのです。マルサド神のご加護がありますように」 首に下げていた聖印をアンドレアスにかける。震えるアンドレアスの唇。レクランは目をそらしはしなかった、一瞬たりとも。アンドレアスは唇を噛み締め、そして。 「なんと可哀想に。痛かっただろう?」 「なにをこの程度。可愛らしいものではありませんか」 「ほう、中々剛毅なことよ。気に入った」 からからと笑うロックウォールの前、アンドレアスに殴られたレクランの唇から血が零れていた。魔術師が物欲しそうにこちらを見ている眼差し。レクランは嫌悪を出さないよう心掛けつつ見つめ返す。魔術師はなんとも言えない笑みを浮かべて目をそらした。 「レクラン……お前は……僕を。裏切ったな……!? 父上を、僕を。ラクルーサを!」 「とんでもない。我が望みはアンドレアス様を王座に。申し上げましたでしょう?」 「そのために、父上に剣を向けると言うのか!?」 「所詮は男に迷った愚か者ども。我らが敵ではありますまい」 アンドレアスを立ったまま見下ろすレクランに、ロックウォールは満足そうに笑っていた。怒りに震え、言葉もうまく操れなくなったアンドレアスを丁重に促す。 「殿下には、休んでいただきませんとな。なに、明日にはミルテシアに出発です。なんのご心配もいりませんとも」 アンドレアスの背に大きな掌を当て、ロックウォールが促す。レクランは薄い笑みを浮かべたまま、血の魔術師がフロウライトに向かって行くのを眺めていた。自らの腰に下げた短刀を手の中で弄ぶ。たかがその程度のもの、誰も取り上げようとはしなかった、貴族の誇りにかけて、そのような武器とも言えないもので反抗はすまいと。 「離せ――!」 アンドレアスがロックウォールの手を払い落した瞬間だった。何者かが窓を突き破って飛び込んできたのは。半ば意志を失った騎士たちには対応ができない。アンドレアスの前に飛び出したのはレクラン。間一髪のところで短刀で攻撃を受けきる。片腕の男だった。隊長はその男の素性を知っている。忌まわしいと思っていた相手、いまは勝利を祈る。数度の攻防。舌打ちしたレクランが短刀を跳ね飛ばされ、それを拾い上げた男は騎士たちが向かってきたのを機に撤退した。隊長の祈りも虚しく。嘲笑うよう追捕を命ずるロックウォールの声。 |