形の上では優雅な野遊びだった。警戒を厳にすることも近衛には慎むよう申し伝えてある。おかげで近衛の方も緊張状態にさらされているのだが、リーンハルトはここに国王が健在である、と示さねばならない。
「陛下ー!」
 だからこそ、こうやって近隣の子供が駆け寄ってきたりもする。先ほどからもう何度も見ている場面とあって、さすがに近衛の緊張度合いも低い。
「あぁ……ありがとう」
 昏い蒼の目が、子供に対しては優しい。捧げられた小さな花束を受け取り、リーンハルトは子供に微笑む。それに照れくさそうに子供は駆けて行った。そしてまた次の子供たちがやってくる。遠目に取り巻いている大人たちと違って、子供は屈託がない。
「可愛いものだな」
 幼い子供がこれで嫌いではないリーンハルトだった。外見上で言うのならば、アリステアの方が子供好きに見える。だが、アリステアは我が子ですら放任して育てる主義だ。転じてリーンハルトは自らの手元で育てたい。そうできないのはひとえに国王という立場による。
「従兄上はお優しい」
 にこりとアリステアが笑う。駆け寄ってくる子供が躓いたのを抱きとめてやりながらだった。どちらがだ、とリーンハルトの目が笑う。それにはかすかに目で笑い返してくる彼だった。
「陛下に、差し上げます!」
 覚束ない口調で捧げてきたのは小さな菓子だった。妹の手を引いた小さな男の子の頬は精一杯のかしこまりぶりに赤くなっていた。
「ありがとう」
 微笑んで受け取りかけたリーンハルトの手より先、アリステアが何気なく受け取る。それから欠片を割り取っては口にしていた。
「悪くないな、上手に焼けている。――が、従兄上には少々甘味が強すぎるかな?」
 笑って言いつつ、軽く手でグレンを呼び寄せてはそのまま菓子を下げさせた。危うくリーンハルトは顔色を変えるところ。
「そっか……。ざーんねん!」
 妹の方がきゃらりと笑って兄の手を引き、子供たちは駆け戻っていく。その後ろ姿をアリステアは微笑んで見ていた。その口許が、まだ動いている。
「……従弟殿」
 リーンハルトに呼ばれたときもまた、アリステアは言葉を返さない。王が目許を険しくさせたころ、グレンは急ぎ足で公爵の休憩所に、と設えられた天幕へと駆けていた。
「待て!」
 そこにかけられる厳しい声。急いでいるのだが、と思ってもグレンはこれで一介の騎士の身分だ。相手が高位の貴族では立ち止まらざるを得ない。軽く目礼をして急用を示したけれど無駄だった。
「陛下に捧げられたものを勝手に食し、あまつさえ自らの騎士に下げ渡すとは……いかに寵臣とはいえ目に余るわ!」
 オード卿、誰かが男を留めている。が、オードは聞く耳持たずグレンを、むしろアリステアを罵り続けた。自分がもう一度陛下の下に菓子を持って行く、と言い出したときにようやくグレンが口を挟む機会が訪れる。
「毒です」
 それもごく短い言葉だけを差し挟むことができただけ。おかげで酷い言葉になったのをグレンは顔を顰めて後悔する。
 ――そうでもないな。
 お館様にご迷惑が、とも思ったが、この程度の輩をあしらえないお人でもない、とグレンは割り切る。意外だった、本当は。廷臣のほとんどは親スクレイド公爵派になっている。王室が安定したこと、国王が執務に励んでいること、公爵が政治に口を出さないこと、様々な要因が宮廷にも安寧をもたらしている。それだというのに、いまだこのようなことを言ってくる相手がいたとは。
「毒だと!? そのような言い逃れをするとは……寵臣の騎士とはやはり」
「なんだと言うのでしょうか。我がことならばいかようにも仰せあれ。ですが、我が主、延いては陛下に対する侮辱だけは聞き逃すことなど到底できようはずもない」
 これ以上言うのならば剣に手をかけるぞ、とグレンの眼差し。それにオードは怯むことなく真っ向からグレンを見返した。それにもまた意外を覚える。
 アリステアを嫌う人間の多くは、同性愛者嫌いと言ってもいい。リーンハルトを批判はできないから、アリステアにその目が向いていると言っても過言ではないような陰口だった。だがオードのこれは。グレンが内心で首をかしげた時、宮廷魔導師の一人が騒ぎを聞きつけたかやってくる。
「なにかございましたか」
「あぁ……ちょうどいい。魔導師殿。見ていただけるか」
「待て。我が手から取られよ」
 グレンから紙に包んだ菓子をオードは奪い取り、魔導師に渡す。グレンが不正を働くとでも思っているらしい。それにはさすがに呆れた。
「これは――」
 長衣をまとった魔導師の顔色が変わる。そのあたりでオードも訝しいものを覚えた様子だった。ちらりとグレンを見やり、魔導師を見る。
「なんだと言うのだ?」
「これは、いずれで? このような、致命的な毒は……」
「致命的!?」
「はい。グレン卿。誰かが口になどされては」
「お館様が!」
 魔導師の言葉に顔色を変えたのはグレンだけではない。宮廷魔導師は、国王リーンハルトの直接の臣下だった。リーンハルト個人にのみ仕える彼らが、言葉を偽る理由はない。まして、魔導師は何も知らされておらず、いまこの瞬間に菓子を見たはず。
「まさか――」
 真実だったというのか。オードが問うより先にグレンはアリステアの下へと駆け戻っていた。グレンは見ている。アリステアが欠片とはいえ、菓子を口にしているところを。そして毒だと判断したからこそ、自分に下げ渡してきたのだと。
 ――よけいなことを!
 オードに捕まらなければ、菓子を捧げてきた子供の背後にいたかもしれない人物を捕えることができたかもしれないというのに。息を切らして駆け戻ったグレンが見たのは、王と平静に談笑する主の姿だった。
「遅いぞ。何をしていた?」
「申し訳――」
 蒼白になっているグレンなどアリステアも何度も見たことがあるわけではない。何かがあったか、と目顔で問えば、お館様のこと、と眼差しが不安を浮かべる。遅れてオードと魔導師がやってきた。
「いったい何が……毒、と伺いましたが」
 オード卿の言葉にその場にいた貴族たちが騒めく。これでは黙っていたことが無駄になった。アリステアはオードが現れたことで、グレンが彼に捉まったことを察する。
 ――手配は、できんか。
 子供本人が毒殺犯である可能性もあったのだが、さすがにあの場で捕えることは出来かねた。万が一間違っていた場合、リーンハルトの名が地に落ちる。国王健在を誇示するためにしている野遊びで子供相手に警戒したと言われれば笑いものになるだけだ。
 ――だからこそ、グレンに追捕の者を出させたかったのだがな。
 どうやら無駄になってしまったらしい。子供のあとを追跡することも、あの時点では可能だっただろうに。思えば悔しいアリステアだった。
「お館様……」
「うん?」
「魔導師殿が……。致命的な毒、と」
 先ほど口にしてしまった毒。グレンはそればかりが気がかりだった。アリステアの顔をしげしげと窺ってしまう。主人に対して無礼であるほどに。それを小さく笑ったのはリーンハルトだった。
「グレン。そなたは主人の力量を正確に把握しているかな? 従弟殿は優秀な神官でもあるよ」
 ほんのりと微笑んで見せたリーンハルトにグレンは頬を赤らめて一礼する。そんな王を公爵がそっとたしなめていた。
「我が騎士が主の身を懸念するのは当然のことにございましょう。そう咎めてくださいますな」
「咎めてはおらんよ。従弟殿を褒めていただけだ」
「ありがとう存じます」
 軽く微笑んでアリステアは頭を下げる。目を上げたとき、魔導師とオードを見ていた。致命的な毒、と断定した魔導師は感嘆の眼差しでアリステアを見つめ、オードは蒼白に。
「なんと……素晴らしい……。神に愛されし方とは公爵閣下のことを言うのでしょう」
「間違っているぞ、魔導師殿。神に愛されているは我が王。我が王の庇護の下、私は無事であった、それだけのことだ」
 神の加護すらリーンハルトがいるからこそ、この場でアリステアは断言する。事実、それはアリステアにとっての真実でもある。リーンハルトを守護するために生まれ、神の奇跡を賜った、そう信じて疑わない彼だった。
「とはいえ、従弟殿。何もあなたが毒見をすることなどないのだぞ」
「とんでもない。従兄上に万が一のことがありましたらいかがなさいます。私が倒れようとも国は揺るがず」
「……深甚に思う」
 微笑みながら不機嫌そうにリーンハルトはそれだけを口にした。やめろとは言えない。ありがたくは思っている。それでも愛する人に万が一があっては、と思うのは王だとて変わらない。
「……申し訳、ございませぬ」
 蚊の鳴くような小さな声でオードが詫びていた。自分がグレンを引き留めたりなどせねば、捕縛が可能であった、と彼も悟ったのだろう。意外なところで素直な男だ、とアリステアは苦笑で済ませた。まさか詫びてくるとは思ってもいなかったし、そもそも捕縛できるとはアリステアは考えていなかった。
 ――せいぜい、後をつけられたかもしれない、というところだな。
 それも途中でまかれてしまったことだろう。もし子供たちが犯人であるのならば、だが。そうでないのなら子供を捕えても意味はない。
「ずいぶんと、直接的な手段に出てきたものだ」
 不快そうなリーンハルトの声音。周囲の貴族が立ち騒ぐ。今更だ、とリーンハルトは一蹴して捜索隊の出動を却下した。
「従兄上に危害を加える気ならば、まず私を殺してからにするのですな」
 アリステアの傲岸な言葉。先ほどまでのオードならば、それをまた寵臣が図に乗って、と怒り狂ったことだろう。だがオードははじめてスクレイド公爵アリステアを見たのだと自らに認める。国王リーンハルトの寵愛を受けた男、マルサドの武闘神官ここにあり、と毅然と立つ男がそこに。
「陛下、どうぞ我が身に罰を」
 膝を折ったオードにリーンハルトは目を瞬く。率直に言って、あまり気に留めていなかった。むしろアリステアが侮辱されていたらしいことに苛立ちを覚えたのみ。もっともグレンは顔には出ていたが、何を言われたかは断じて口にしないだろうが。
「身を尽すがよい」
 短く言ってかすかに微笑んだ王にオードは更に深く頭を下げていた。




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