率直に言って、リーンハルトはすべての貴族が自分を陥れようとしているのではないかと疑いたくなっている。 「従兄上、お顔が怖い」 隣でからかうアリステアがいなければ、真実そう信じ込むところだった。それほど、意味がわからない。アンドレアスがフロウライトの城に出立する。それを貴族たちは殊の外に喜んだ。 「殿下がこれで安全だ、と思っているのですよ」 「だからな、従弟殿。その意味がわからん、と私は言っているのだよ」 「……そう仰せにならず」 苦笑するアリステアも同感なのだろう。父の城にいて安全ではない息子が外に出て安堵を得る、という事態は存在するだろう。だが国王の城にいて安全ではない王子がいったいどこで安寧を得るというのか。 「それだけ無邪気に殿下の安全を気にかけている、とお思いになればよろしいのです」 「それはそれで恐ろしい話だ」 馬鹿ばかりか、とリーンハルトは言いたいのだろうが、当の「馬鹿」がその場に大勢いるとあってはそうもできない。声の届きかねない範囲に貴族たちがいる。 「父上!」 旅装を整えたアンドレアスが馬上から手を振った。傍らには慎ましくレクランがついている。そちらにアリステアは笑みの眼差しを送るのみ。リーンハルトは鷹揚に手を振り返してやっていた。 王子を郭門の外まで見送りに出た、というよりは王の野遊びの途中からアンドレアスが出かけて行く、と言った方が正しい。リーンハルトとしては送り届けてもやりたいだろうが、それをすれば嫌に目立つ。致し方なく、このような形になった。 「乗馬が中々上達したようだな」 側周りを連れ、アンドレアスが近づいてくるのに、一瞬だけ近衛が緊張を見せる。アンドレアスの供の中に、万が一にも何者かが潜んではいないか、と。アリステアは神官として、すでに察している。なにも不安な様子のないアリステアに、近衛の様子も静まっていった。 「はい。レクランが上手ですから」 とはいえ、アンドレアスはまだ小馬だ。レクランはすでに乗用馬に乗っているのだから不満もあるだろうに、アンドレアスはレクランをそうして褒めて見せる。廷臣の前でそうした、との形が必要なのだと早アンドレアスは知っている。アリステアがリーンハルトの半歩後ろに控えたまま軽く頭を下げていた。 「より精進せねばならないな」 「はい。もっと上手になって、乗用馬に乗るんです!」 「まだ少し早いな、それは」 からりとリーンハルトが笑った。廷臣たちにとっても、こうして国王が明るく王子と話している場面を目にすることは多くない。次の時代への期待を充分に感じさせる眼差しをしていた、彼らは。だからこそ、アンドレアスは安全な場所にいてほしい。そう願う貴族の気持ちもアリステアはわからないでもない、同時にリーンハルトの不満も。 郊外まで共に馬での散策を楽しんだ父子だった。並んで、とはいかないのは高貴の人として当然ではある。が、アンドレアスもリーンハルトも充分に楽しんだ顔をしている。それを目にした貴族たちも朗らかな表情。 「それでは父上、行って参ります!」 「楽しんでくるといい」 「はい!」 少しフロウライトの城まで遊びに行く。アンドレアスは一度としてその態度を崩さなかった。たった九歳の子供がだ、と思えばアリステアは感嘆する。アンドレアスが小馬を操り、レクランが軽く目礼をして共に駆けて行く。すぐさま近衛の一隊が分かれ、彼らに従った。同じくニコル率いるスクレイドの騎士たちも。少し少なくなった貴族たちを連れ、リーンハルトは郊外での野遊び、と洒落込む。 「いささかまだ寒いか?」 時期としては早すぎる。だがここで国王が城にこもりきりになりでもすれば、国が荒れる。リーンハルト王健在を誇示する必要から、こうして外に出てきた彼だった。 「風が気持ちようございますよ」 にこりと笑うアリステアがやはり、半歩後ろに馬をつけていた。人目があるところではそうせざるを得ない彼ではある。だが本当は、できれば前に出ていたい。リーンハルトを守護する、という意味でならばそちらの方が遥かに守りやすかった。 ――もっとも、それをすれば従兄上が何を言われるかわかったものではないな。 自分の評判がどうなろうと究極のところではどうでもよいアリステアではあった。が、リーンハルトが陰口を叩かれるのはごめんだと思う。多少苛立たしい思いをしつつ周囲に気を配っている彼だった。 こうして多くの貴族、さらに多くの騎士たちが周囲に展開している。先ほどの王子についた近衛を見てもわかる。誰が混ざっているか、わからない。騎士たちの顔まではさすがにアリステアも覚えてはいない。ましてやその従卒となれば、誰が誰の手の者なのか、騎士たち同士でもわからないだろう。 それがアリステアを緊張の只中に叩き込む。身を遮る物のない場所に、こうしてリーンハルトを晒す。それに腹の中が滾り、冷え切るような思い。 「従弟殿、気の早い花が咲いているぞ」 アリステアの緊張に気づいているリーンハルトだった。だからこそ、そのようなことを言って傍らに呼び寄せる。そうして話しかけていれば、アリステアは下がってはいられない。 「少し、下りて歩こうか」 そのようなことまで言ってリーンハルトは微笑んだ。アリステアとしては、馬上にあって欲しいという思いと、歩いて欲しいという思いと。いったいどちらが安全か計りかねているようなところもある。高い位置にいれば、矢を射かけられかねなくもあり、歩いていれば逃げ遅れかねない。 ――従兄上のことだ。ご自分でいかようにも身を守れようが。 それでも不安が去らないのは、やはりリーンハルトには指一本触れられたくないせいだった。隣を歩みつつ、他愛ないことを話しかけてくれる従兄にアリステアはほんのりと微笑む。 「従弟殿?」 「いえ――」 「急に、どうした?」 そっと身を寄せて尋ねてきたりするものだから、アリステアは言葉に詰まる。それにも不審を強めたのだろう、肩が触れるほど近づいてリーンハルトは見上げてきた。耳元にでも囁け、と言うつもりらしい。 「……従兄上が好きだな、と思って見ていただけですよ」 「――馬鹿か、お前は」 「言わせたのは従兄上でしょう」 ぷい、とそっぽを向くふりをして、アリステアは視界の端にあった物を見定める。騎士たちがわいわいと騒いでいるだけだったらしいと安堵した。 「こういう野遊びのようなことは、本当は女性が好むのだがな」 「次は貴族の女性をお連れになるといいでしょう」 「お前を盗られそうで、それはそれで嫌なのだがな」 「……はい?」 「気づいていないのか、アリステア。私からお前を奪おうとする輩がいるのだぞ、相当数な」 にやりと笑うリーンハルトにアリステアは肩をすくめかけ、ここには人目があると思い出す始末。いるはずなどなかろうと相手にもしなかった。 「いや、いるぞ?」 「私と従兄上を争おうとする女性には心当たりがありますがね」 「……はい?」 先ほどのアリステアと似たような返答をリーンハルトがする。どうにも自分たちは相手のことばかり見ているらしい、双方気づいては笑い出す。現時点で王妃の座、公爵夫人の称号、共に空いている。それを求める者がいて何ら不思議はなかったとの苦笑が半分。国王と寵臣の大らかな笑い声に貴族たちが緊張を解いて行くのが感じられた。 内乱に続いての暗殺未遂、それも王城に侵入を許したそれ。血の魔術師の名まで聞かれるようになっている。貴族たちは不安におののいていたと言ってもいい。ほとんどの貴族は。リーンハルトの治世を歓迎し、このまま続いて行くことを願うものほど、不安に思っている。 ――さて、どちら側にいるものか。正体を明らかにしてくれればこちらも楽なのだがな。 こうして野遊びに出てきて気が緩んだところで正体をさらしてくれれば、とも思っているが。中々それほど愚かでもないだろう。いったい誰がどこで繋がっているか予断を許さないのが貴族社会でもあり、その全貌はリーンハルトにも見通すことはできない。 「少し早咲きのものでも摘んでまいりますか」 何気なくアリステアが呟いた。執務室に飾ろう、などという男でもないのでいささか面白くリーンハルトは眺めている。どちらかと言えば綺麗な花より香草の香りを愛でる男でもある。 「……ロザリンド姫にですよ」 「ほう?」 「先日、珍しい花が咲いていたら、とお約束しました」 知らなかったぞ、とリーンハルトが眼差しで拗ねて見せる。娘と謂えども毎日顔を合わせることができるわけではない。それなのにアリステアは知っていた。それが少し、不満でもあった。 教えてくれてもよかった、言いかけてリーンハルトは笑みの中に言葉を隠す。貴族がそれを耳にすれば、すわ国王の寵愛は公爵より離れた、と騒ぎ立てる羽目になる。現状でよけいな騒ぎは不要の一言に尽きた。 「従兄上。これなどどうでしょう? 姫のお気に召すかと」 「これか?」 言いつつリーンハルト自身が身をかがめ、花を摘む。ぷちん、と茎の折れる音とともに青い匂い。清々しい香りだった。 「お父上様お手摘みの花です。さぞかし姫はお喜びになることでしょう」 なるほど、それを狙っていたか、リーンハルトは笑い出す。内緒にしていたのもきっとそれが理由だったのだろう。可愛い娘のためにリーンハルトは更に数本の花を摘んでいた。もちろん、マルリーネの分も。 実のところ、アリステアは失念していただけだった。日々の忙しさにかまけて、伝えるのすっかりと忘れていた。好意的に解釈されてしまって恥ずかしいほど。ただリーンハルトが楽しそうだったからよしとする。 ――いかんな。気が抜けている。 逆だった、本当は。多忙で気を張り詰めて、いまにも切れそうなほど神経を尖らせ続けているアリステアだ。リーンハルトこそ、それに気づいている。現状ではどうにもできないと知るからこそ、黒幕の特定を急ぐ。 ――アリステアの身が持たない。 日中だけではなく、夜までアリステアは張り詰めたまま。寝台の中でも腕に抱いたリーンハルトが身をよじるだけで目を覚ましている彼だと、リーンハルトは知っている。それと気づかれたくないアリステアの誇りを思って口にはしていなかったが。和やかに野遊びを楽しむ二人がそれほどの緊張状態であると、貴族の大半は知らなかった。 |